黄昏商店街


本編



中に入るその瞬間、どぷんと、水の中に沈む時と同じ音が響いた。
その音から、彼の中は水のような場所なのかと思ったけれど、その見た目とは裏腹に、中はそれほど息苦しくはない。
居心地がいいかと言えばそれは違うのだけれど。
呼吸は問題ない。けれど、何処か寒いのだ。体中の体温を奪われるような、心も身体も、深く深く沈んでいくような不安感が込み上げて来る。
長時間居て良い場所ではない、ということだけは、わかった。

「……アラジン……」

中を泳ぐように、両手で掻き分けて進んでいく。
アラジン。アラジン。
何度も、彼の名を呟きながら、アリスは奥へ奥へと進んでいく。
あの触手に触れれば、あの身体に触れれば、周囲のものはみるみる腐っていったのに、この中にいるアリスの身体は、町内会長にように黒ずんでいく気配はなかった。
肉体が、魂が朽ちるのも覚悟の上ではあったけれど、そうではないというのであれば、好都合だ。
ようやく中央部に来られただろうかという時。
目を閉じて、身体を丸くして、小さくなっている青年が、そこにいた。


第11話 探しもの


信じている想いがあった。
信じている想いがある。
この想いが間違っていないと証明するためならば、どんなことをしても構わない。
その決意は変わることはないと、ずっと、ずっと、そう思って来た。

(俺は……間違っていたのか……)

深い深い、黒一色に染められた暗闇に沈みながら、男は一人、そんなことを考えていた。

「間違って、ない。」

己を肯定するために。間違ってないと、言い聞かせる。
けれど、その声は、自分で思っている以上に弱々しくて、頼りなくて、今にも消え入りそうなもので。
その自信のなさが、全てを物語っていた。
間違っていたのだ。
いつから間違っていたのかわからない。最初から間違っていたのかもしれない。

「俺は……俺は……」

間違っていた。
そう言いかけて、それ以上、その言葉が出て来ない。
怖いのだ。誤りを認めるのが。苦しいのだ。罪と向き合うことが。
誤りを認めるくらいなら。罪と向き合うくらいなら。間違っていると言うくらいなら。
全てを飲み込み、消えてしまった方が楽だと、そう、思うのだ。
けれど、それと同じくらい。
消えてしまいたいと思うのと同じくらい、全てを償ってでも、探したいものが、探さなければならないものがあるような気がするのだ。
それが何なのか、今の自分にはまだ、わからないけれど。

「アラジン!」

少女の声。
誰だろう。おかしい。此処には、自分しかいないはずなのに。
そんなことを思いながら、男は、アラジンは、ゆっくりとその顔を持ち上げる。
アラジンの視界に、一人の少女が移り込んだ。
ふわふわと柔らかそうな栗色の髪を揺らして、所々フリルのついた着物を来た少女が、頬に汗を流しながら、一生懸命こちらに走ってくる。
薄っすらと、おぼろげになっていた記憶が浮かび上がる。
この少女は、見覚えがある。否、それどころか、よく、知っている。だって、ずっと、ずっと、一緒にいたから。
ずっと、探していた人だから。

「……アリス……」

アラジンが、ぽつりと、呟く。
アリスの手が、伸びる。もう少しでアラジンに触れる、その刹那、まるで電流を浴びたかのようにアラジンの目は見開き、ビクリと身体を痙攣させた。

「触れるな!」

そしてそれと同時に響く叫び声。
アラジンの叫び声に驚いたアリスの手は、彼に触れることなく、宙に浮いたまま停止した。

「……俺に、触れるな……」

絞り出すように、苦しそうに呟くアラジンの声。
その声を聞いたアリスは、眉を八の字に下げて、とても、とても悲しそうな顔をしている。
嗚呼、そんな顔をさせたい訳じゃないのに。
アラジンはそんなことを思いながら、アリスの瞳を見つめた。

「……アリス。会いたかった。」
「アラジン。私も、会いたかったよ。」
「……そうか。」

アラジンの、囁くような小さな声。
アリスはその声を、一言一言、聞き漏らすことなく、噛みしめるように聞いて、返事を返した。
私も会いたかった。アリスがそう言った時のアラジンの顔が、ほっとしたような、嬉しそうな、穏やかなそれであったことを、アリスは見逃さなかった
お互い、会いたかった。
会いたかった、はずなのに。それは、お互い、しっかりとわかっているはずなのに。
アラジンは、アリスに触れられることを、拒んだ。

「俺は、間違っていたんだ。アリス。」

それは、自白にも近い言葉。
今まで、中々吐き出すことが出来なかった、罪と向かい合う言葉。
何故、今になって吐き出すことが出来たのか。それは、きっと、目の前で心配そうに自分のことを見つめてくれる、この少女がいたからだろう。

「俺のせいだ。俺が間違っていたから、俺が民を、正しくない方向へと導いたから、だから、国は滅んだ。」

こんなつもりじゃなかった。
そう呟いた、アラジンの声は、震えていた。

「愛していた。あの国を。愛していた。民たちを。だから、俺は、未来を歩みたかった。あの国で、民たちと、未来を歩いて、国をよくしていきたいと、よりよくしていきたいと、本気で、本気でそう思って……だから、でも、俺は……」
「知ってたよ。」

アリスの声に、アラジンが、はっとした表情で顔を持ち上げる。
自分の目はどうしてしまったのだろう。何か、水のような膜に覆われているのが、ぐにゃりと歪んでいて視界が揺れている。
けれど、アリスの穏やかな声から、今、彼女は目の前で、笑ってくれているのだろうということが、わかった。
ぱちり、と、瞬きをする。
視界がはっきりして、想像していた通りの、否、それ以上の、温かくて、穏やかな、彼女の笑顔がそこにあった。
それと同時に、頬に、濡れた感触が流れ落ちる。

「私、知ってた。ううん、知ってたというよりも、もしかしたら、って、思ってたのかも。きっと、このままで在ることには何か理由があるんだって。でも、それでも、私は貴方に付いて行った。」
「……何故だ。」
「貴方を愛しているから。」

アリスの笑顔は、穏やかだ。
頬を少し桃色に染めて、恥ずかしそうに笑っている。その笑顔は十代の少女のそれのはずなのに、彼女が放つ穏やかな光は、何年も、何十年も生き続けたからこそ得られる、女性のそれだった。

「このままでいいとも思ってた。私がいて、貴方がいて、みんながいて。そんな日々がずっと続くのも、とっても素敵だって。ごめんね、アラジン。私、国の未来を望む貴方の隣で、誰よりも貴方が憎む男と、同じことを思っていたの。」
「……アリス……」
「でも、私は貴方と歩もうと思った。……きっと、貴方と共に大人になることが出来たら、とても素敵だな、って、思う私もいたから。」
「アリス。アリス、でも、俺は、俺はお前が大人になる未来を奪ってしまった。もうお前は大人になることは出来ない。それどころか、もう、」
「いいの。」

そう言って、アリスは白い手を差し伸べる。
小さな手。細い手。強く握り締めたらぽっきりと折れてしまいそうな、弱い、少女の手。

「私たちは、もう未来を歩むことは出来ない。その道を断ってしまったから。私たちは、罪を犯したかもしれない。その証に、私たちは此処にいるのかも。……アラジン。帰ろう。もう帰る国はないけれど、あの街で、帰る場所はまた創れる。罪を犯したなら、償えばいい。きっと出来る。一緒なら。」

だから帰ろう。あの夕暮れの街に。
そう言って、差し伸べられた、幼い少女の手を、アラジンは、震える手で握り締めた。
雪のように白いのに、春の陽だまりのように温かい手は、アラジンの手を握り返す。
そしてまた、彼女は笑った。
嗚呼、かつての彼女はあんなにも無表情だったのに。あんなにも無口だったのに。
よく笑い、よく話すようになったのは、この街が、彼女を成長させたからだろうか。そう思うと、少し、寂しい。

「帰ろう。」

彼女の言葉に、アラジンは嗚呼、と、頷いた。
帰る場所がないのなら、帰る場所をつくろう。罪を犯したのなら、罪を償おう。
一緒にいれば、きっと、出来るから。

 


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