黄昏商店街


本編



そこは、暗い、暗い、暗闇の中。
まるで深海に沈むように、その身体は深く深くに落ちていく。少しもがこうと、手を伸ばしてみても、思うように動かない。
息苦しいながらも、僅かに呼吸できるこの状況が、此処は海の中ではないということを物語っていた。
此処は一体、何処だろう。

(俺は、一体、ダレだ?)

問うてみる。
勿論答えなんて、帰って来る訳がない。
自分が誰だったのか。何処から来たのか。どうしてこんなところにいるのか。思い出せない。思い出したくない。
思い出したら、自分の罪そのものと、向き合わなければいけないような気がして。

(もう、何も考えたくない。)

男は目を閉じて、暗い暗い、闇の中に、沈んでいった。


第8話 異形の来訪


「んー。手掛かりはないかあ。」

そう言って溜息を吐いたのは、案内屋だ。
商店街を少し歩き回ってみたものの、アリスとオズワルド以外に、最近商店街に迷い込んだ者がいるという話はない。
そもそも話があれば、案内屋が呼ばれるだろうから、いないに決まっているのだが……と、彼は肩を落とす。

「会えない、のかな。」
「わからない。少なくとも、彼はこの商店街には、今はいない。」
「ねえ。このままアラジンに会えなくて、その……探し物が見つからなかったら、どうなるの?」

オズワルドが、尋ねる。

「探し物を探し続ける限り、迷い人としての身分は保証されるさ。ただし、探すことを諦めた場合は、オズワルド。其方が先程まで「気まぐれ屋」と名乗っていた時のように、仮の職業を設け、監視させてもらう。迷い人が探し物を諦める、探すことを放棄するというのは、あまり良い傾向ではないからね。」

それに答えたのは、社守り屋。
何処でまた買って来たのか、その手にはお菓子があり、美味しそうに頬張っている。
けれど、そんな気の抜けた行動とは裏腹に、言葉には真剣さが込められていた。
顔が布で覆われている分、その顔色は見えにくいけれども、その言葉の重さが本物であるということはわかる。
そもそも、と、言葉を続けたのはまた、オズワルドであった。

「何で仮の職業が必要なんだい?まあ、君たちが監視するために……っていうのはわかるんだけどさ。そもそも、何故、監視が必要なのさ。」
「其方たちも理解したように、此処はあの世とこの世の境。此処に訪れる迷い人は皆、不安定な状態で訪れる。探し物という未練を抱き、彷徨い続けている限り、その存在は、確固たるもので維持される。……しかし、探し物を放棄すれば?己が己であることを、諦めれば?どうなると思う?」
「自分を、見失う……?」

社守り屋の問いに答えたのは、アリスだった。
彼はその手に持っていたお菓子の、最後の一口を食べる。その美味しさを噛みしめながら、こくりと頷いた。
その頷きは、アリスの言葉に対する肯定だろう。

「その通りだ。我を失った霊体というのはな。非常に不安定なものだ。故に堕ち易い。堕ちた存在がどうなるか……というのは、知らない方が、幸せだろうな。」

知らない方が幸せ。
それほど、よくないことなのだろうか。
そう思っていると、

「社守り屋!」

彼の名を呼ぶ声が、頭上から降り注いだ。
夕焼け空と同じ色。色鮮やかな橙色をしたその髪。その少年は、見覚えがある。

「……星拾い屋さん……」

それは星拾い屋だ。
この商店街に訪れた時、案内屋の次に初めてあった、商店街の住民。
その様子は何処か慌てている様子で、社守り屋目掛けて、空から降りて来る。
ぜえ、はあ、と息を切らしているその様子から、彼が慌てて此処へ来たということがよくわかった。
緊急事態を察した社守り屋からは、ピリ、と緊張した空気が放たれる。

「どうした。」
「異形のものだ!商店街の入り口に、異形のものが現れた!」
「なんだと……」

そう言って、社守り屋の顔色が曇る。
否、顔が布で覆われているので、やはり彼の表情は口元しか見えないのだが、その口を噛みしめる仕草から、顔色が曇っているのであろうということが読み取れた。

「星拾い屋、お前は町内会長の元へと迎え。案内屋はアリスとオズワルドを守れ。御祈り屋、お前は俺と来い。」
「わかった。」
「待って!」

社守り屋と御祈り屋が商店街の入り口へ向かおうとするのを、アリスは止める。
何故止めるかは、彼女自身もわからない。けれど、此処で留まって、護られているだけでは駄目なような、そんな気がしたのだ。

「……私も、連れて行って。」
「アリス。此処から先は危険だ。俺たちに任せろ。」
「お願い。連れて行って。行かなきゃいけない気がするの。」

駄々をこねるように、アリスは社守り屋に乞う。
何故かはわからない。けれど、どうしても、アリスは彼等と一緒に、異形のものと呼ばれる存在の元へ、行かなければならないような気がしたのだ。
御祈り屋が嗜めようとしたその時、オズワルドが、助け船を出す。

「お願いだ、社守り屋。御祈り屋。僕も、行きたい。行かなければいけない気がする。」
「……二人がこう言ってるんだし、何かあれば、僕が二人を連れて逃げるから、それでいいかな?」

案内屋が困ったように、言葉を続ける。
三対二。多数決で負けてしまったことで、御祈り屋は降参するように溜息を吐いた。
社守り屋も納得したのか、すぐに背を向ける。

「危なくなったら逃げろ。それが条件だ。」
「……ありがとう。」

社守り屋の言葉に甘えて、五人で商店街の入り口へと向かう。
近付く程に、商店街の住民が狼狽えるような、悲鳴に近い声が響き渡っていた。

「……あれだ。」

社守り屋が呟く。
それは確かに、異形のものと呼ぶにふさわしい姿をしていた。
商店街の入り口に存在するアーチ。それと同じぐらいの大きさをしたそれは、上から下まで、真っ黒のゼリー状に覆われている。
ごぼごぼという音を立てながら進むソレの足元を見ると、地面が黒ずみ、腐っているのが見受けられた。
地面を腐らせるそれは、それでも、不思議と腐臭は感じない。無臭なのだ。
無臭だが、それが放つ不気味さは、見ていて、身体の中の体温が吸い取られるような寒気を感じさせる。
ただただひたすらに、不気味で、異質。
異形のものと呼ばれてしかるべきだろう。
けれど、何故だろう。
それを見ていると、懐かしさを、感じさせるのだ。

「……あなたは……」

アリスが一歩、踏み込む。
ごぽりと音を立てたそれの中心には、二つの、翠色の玉が在った。
ちかちかと光るそれは、恐らくこの異形のものの、瞳なのだろう。ぐるりと動いて、こちらを視界に捉える。
その翠の光は、何処か、見覚えが在った。
アリスの細い手が伸びる。

「アリス!駄目だ!」

案内屋の叫び声が、少し遠くに聞こえる。
ごぼごぼと音を立てた異形のもの。彼から伸びた黒い触手が、アリスに向かって、襲い掛かって来た。

「!」

襲い掛かるそれに、ぎゅ、と、アリスは瞳を閉じる。
アリスの身体を触手が貫こうとするその瞬間、パン、と弾けるような音が聞こえた。
弾けた風圧にアリスの身体がふわりと浮かんだと思えば、地面に身体が落ちるよりも前に、誰かがアリスの身体を受け止める。
力強い、大きな手。
案内屋かと思ったけれど、案内屋の手は褐色で、しかし、その手は透き通るように白かった。
ふわりと、手の持ち主の髪が揺れる。紫がかった黒髪が揺れて、紫水晶を連想させる瞳は、異形のものを見据えていた。

「町内会長!」

叫んだのは、誰かの声か。
案内屋かもしれないし、御祈り屋かもしれない。誰でも良い。誰かが彼の名前を呼んだ。
彼が放ったのであろう光に苦しむように、異形のものは、おおおおおと、言葉にならない唸り声を上げる。
聞き覚えのある声に、アリスは耳を塞ぎたくなった。

「しっかり聞け。」

しかしそれを、町内会長は咎める。

「あれは、お前たちの罪。そして、私の罪でもある。」

アリスは、町内会長の正体を知っている。知っていた。知っていたからこそ、初めて出会ったあの時に、胸が、心臓が、痛んだのだ。

「何故、私を、助けるの。」

アリスは問うて。

「ノワール。」

その男の、生前の名を、静かに呼んだ。

 


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