Pray-祈り-


本編



階段をのぼりながら、何度かエイブラムは後ろを振り向く。
アリステアとベイジルだけを置いてしまって大丈夫だったのだろうか、という不安が勝ってしまうからだ。
そもそも、それよりも前に置いて来てしまったヴェルノやオセロの存在も、気がかりになってしまっている。
チェスターたちは、無事に塔を出られただろうか、とも。
そして、上に残っているのは、計算が正しければもうアルバとアベルだけだ。
それはイノセントとエイブラムにとって、それぞれがそれぞれ、掛け替えのない大切な、家族のような存在にあたる二人。
傍にいるのが当たり前だと思っていたのに、気付けば、先程の霧のように霞んで、遠くへ行ってしまった二人。
この先に二人がいるのだと思うと、緊張でどきりと心臓が跳ねる。

「エイブラム。さっきからそわそわして落ち着きがないぞ。」

落ち着きのなさにあきれるように、イノセントが笑いかける。
しかし、イノセントのその笑みも何処かぎこちなくて、彼もまた、緊張しているのだということがよくわかった。

「気持ちはわかるよ。…私は少し、アルバに会うのが怖いからな。」

イノセントは、ぎこちなく笑う。
長い間一緒に居て、ずっと一緒に居るのが当たり前で、誰よりも心を開いていた人物に、ある日突然裏切られる。
これほどに辛いものはないだろう。
だからこそ、自分を裏切った人物と対峙するのは怖い。
かつての優しい、ぬるま湯のような思い出に浸かっている方がはるかに楽なのだから。

「でも、進まないといけない。…そうだろ?」

エイブラムが問いかける。
そして、イノセントはそれに同意するように頷いた。

「その通りだ。…あいつ等ならきっと大丈夫だ。私たちは、彼等を信じて、先に進もう。」


第39器 霧の向こうに霞む家族B


「さて、と。此処で交渉したいんだが。」

ミストは、アリステアとベイジルに語り掛ける。
一体、彼は何を語るのだろうかと身構えていると、ミストは少し困ったように柔らかく笑った。
少なくとも、先程までナイフを投げ放った男と同じとは思えない。

「何だ…神器を渡せという要求は、受け付けられないぞ。」
「あー、違う違う。そんなんじゃないって。まぁ、お前らがすんなり退くような奴等ならそりゃ奪うけど、さ。此処まで来たんならそうでもないだろうし。それを踏まえて、頼みたいことがあるんだよ。」

そうでなければイノセントとエイブラムを通したりはしない、と少し困ったようにミストは笑う。
その言葉から、やはり彼等を階段の向こうに通したのは、わざとだったのだろうということがわかった。
しかし、それを理解していなかったフェレトは、驚愕の表情を浮かべている。
まさか、わざと敵を、アルバの元へと送り出したとは思わなかったのだろう。

「み、ミスト?!君、何を言って…わざとって…」
「言葉通りだ。わざと通した。俺がすんなり通したら、お前反対するだろ?」
「当たり前だろう!?アルバさんを裏切るようなこと出来るはずないじゃないか!イノセントさんを裏切っただけでなく、アルバさんも裏切る気かい!?」
「そうじゃない。そうじゃないよ。」

ミストの服を掴み、取り乱すフェレトの手を優しく握り、引き離す。
フェレトの青い瞳は潤んでいて、戸惑いと焦りが滲み出ているようにも見える。
あらゆるものを敵に回すのもやむを得ないと、そう思って、そう信じて、此処まで来たのだから、ミストの行動が理解出来なくて当然なのだろう。
そしてそれは、アリステアたちにとっては尚更だった。

「何で、わざと通した?罠でも張っているのか?」
「罠を張ってたらとっくにお前たちもみぃんな通して、全員あの世逝きを狙うと思わないか?」
「…確かに。」

ミストの言葉に、アリステアは頷く。
確かに罠だというのであれば、全員を呆気なく通してから一網打尽にするだろうし、そもそも最初の段階でやるだろう。
それをしていないということは、紛れもなく、アルバやアベルの元へ二人を通したということになる。

「あの二人と対峙すべきは、繋がりの深かったイノセントさんやエイブラムだ。そう考えると、俺等は外野に過ぎないからね、留まってもらったのさ。それと、交渉っていうのは…あくまで、俺の私的な話なんだが。」
「私的…?」
「俺に万が一のことがあったら、フェレトと…フェリシアの面倒を頼みたい。」
「フェリシア?」

聞き覚えのない名前に、アリステアは首を傾げる。
協会の人間の中に、フェリシアという名の人間は存在しなかった。
しかし、フェレトはその名前を理解しているのか、戸惑うような表情を浮かべている。先程から、彼女はずっと戸惑いっ放しな訳ではあるが。

「嗚呼。フェリシア=アディンセル。俺の妹だ。」
「妹?!妹なんていたのか!?」
「心外だな…いるよ。丁度、お前たちと同じくらいの年齢だ。今は。」
「今は?」
「フェリシアは、同じ姿のまま、何年も時間を止めて、眠らされてたんだ。正確には、眠らせるように、俺が頼んだんだけどな。」

フェリシア=アディンセルは、ミスト=アディンセルの唯一の妹である。
心臓に神器を宿す者の多くは短命で、十代より長く生きられた例は、現時点では確認されていない。
そして、心臓に神器を宿しているが故に、心臓に負担がかかり、病弱な子供になるが、普通の医師はそれをただの心臓病と診断する。
故に、ミストも、他の家族も、そしてフェリシア自身も、身体が弱いのは心臓病故だと思っていた。
父母が亡くなり、ミストとフェリシアだけになった時も、ミストは幼いころからの夢を諦め、妹を通院させ、薬を与える為に働いていた。
アルバとミストが出会ったのは、その時である。

「フェリシアも、フィオンと同じ神器を心臓に宿した子でさ。身体は弱かった。そして、フェリシアに残されている時間は、長くなかった。」

フェリシアが十六歳の時、限界は来た。
今にも全ての生命力を奪われ、衰弱をした細い身体、青い肌、冷たい体温、このまま全てが奪われてしまうのではないかという恐怖がミストを襲ったのだ。
唯一の家族。
大切な肉親を、もう出来ることならば失いたくない。

「その時に、フェレトに頼んだんだよ。フェレトの神器で、フェリシアを助けてくれって。」
「フェレトの、神器…?」
「自分の神器は、時間を操る神器だからね。神器の力を発動させて、フェリシアの時間を止めた。だから、ミストとフェリシアは外見年齢上は年の差がだいぶ出てしまったけどね…もう何年も、フェリシアはそのままだったんだよ。」

そうしなければ神器に命を奪われるから。
フィオンの場合は神器の存在を知らない第三者の存在もあったからそういった手段が出来なかったが、ミストは事情を理解していたからこそ、フェレトに頼んだのだろう。
それを頼んだミストもだが、請け負い、ずっと彼女の時間を止め続けたフェレトの力も凄まじいとしか言えない。

「フェリシアは今、フェレトにかけてもらっていた神器の効果が切れてる。アルバさんに、アイツの身体から神器を取り出してもらったから。フェリシアもいずれ目覚める。その時、お前たちにフェリシアと…後、フェレトのことも頼みたいんだ。二人とも、俺のエゴに振り回したから。」
「そんなの、お前がついていてやればいいじゃないか。」
「それは無理だよ。」

アリステアの疑問を、ミストはばっさりと切り捨てる。
何故かと戸惑うアリステアに対し、ミストは少し困ったように眉を八の字に下げて笑った。

「俺はもう長くねぇからな。」

その言葉と同時、ミストは勢いよく、ナイフを放つ。
一瞬アリステアとベイジルは身構えるが、突然、素早い速度で放たれるナイフに対し学生がすんなりと反応出来る訳がない。
避けられないと咄嗟に目を閉じたが、不思議と痛みを感じることはない。
ナイフは、身体を貫いてはいなかった。
それ処か掠りもしていない。
それは、全く別の何かを、狙っていたかのようで。

「!」

ナイフが放たれた方向、つまり、アリステアたちにとっては背後を振り向く。
後ろに、人が立っていた。
ゆらりゆらりと迫り来るその姿に、手に持つ凶器に、放たれる狂気に、思わず腰を抜かしそうになってしまう。
服を彩る朱は、人の身体から溢れ出たものなのだろうと想像出来た。

「アリステア!ベイジル!フェレト!早くこっちへ!」

ミストが叫ぶ。
ミストは階段を指で示し、上へ逃げるよう促していた。

「け、けど…!」
「下へ行かせてやりたいのはやまやまだが、アイツがいるんじゃ通せない!ひとまず、上へ行ってくれ…!此処は、俺が足止めするから…!」
「でも、それじゃあミストが…!」
「死体になっても、通せんぼ位は出来る!早くいけ!」
「でも、ミストっ…!」
「フェレト…」

今にも泣きそうな顔を浮かべるフェレトに対し、ミストはにこりと、この場には似つかわしくない程の眩しい笑顔を見せる。
その笑顔に、余計、フェレトの涙腺は壊れて行った。

「こんな事今更だろうけど、結構好きだったんだぜ、お前のこと。」

フェレトたちが階段へと向かったのを見計らい、ミストの耳についたピアスが光る。
フェレトたちの目の前が霧で包まれたかと思うと、突如、周囲の気温が下がっていく。
霧は凍り付き、パキパキと音を立てて目の前に氷の壁が出来上がった。
これで、ミストの元へは戻れない。

「…フェレト、今は上に。」
「厭だ…そんな、そんな…いや…厭だよ…」

アリステアに腕を引かれ、フェレトたちは上階へと駆けていく。
視界に映る氷の壁は徐々に小さくなっていき、その透明な壁は、突如真っ赤に染まっていった。

「ミストオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ…!」

それが何を意味するか理解した時、フェレトは、叫び声をあげずにはいられなかったのだった。

 


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