悠久休暇


本編



「人殺し!」

その言葉と共に、バシャリと水がかけられた。ぽたぽたと髪先から零れ落ちる水滴を、ただ茫然と眺める。
周囲の、同い年くらいの子供たちはくすくすとこちらを横目で見ながら含み笑いを浮かべていた。
バケツを持った男子生徒は口角をにいっと持ち上げて口で三日月を作っている。嗚呼、目も三日月みたいになっているね、気持ち悪いと投げかけてやりたかったが、その言葉を小鳥遊はごくりと飲み込んだ。
無表情でいたのが気に喰わなかったのか、男子生徒はその青色のバケツをこちらへと投げつけた。ガン、と音を立てて見事バケツは小鳥遊の頭に命中した。ズキズキと頭が痛むが、無言でいることがせめてもの反抗だった。

「ちょっとーぉ、あんまりひどいことしちゃだめだよぉ、タカナシくん可哀想じゃぁん。」

うすら笑いを浮かべた女子は足をくねらせながら男子に注意とは呼べない注意をする。
目はいいぞもっとやれと言っているようにしか見えなくて、彼女が実際にはどうかは知らないが、このビッチめと罵りたい衝動に駆られる。それでも実際にそんなことを言えば集団リンチが目に見えているので、やはり小鳥遊は口を閉ざしたままだった。
別に、このようなイジメは今に始まったことではない。そもそも、これは初等部時代から始まっていた。しかし初等部と中等部では、やはり中等部の方が色々な知識を吸収して小賢しくなって来る分厄介だ。
初等部も初等部で、机を数ミリ離されるとか、小鳥遊が触れたものはタカナシ菌と称されバイ菌のように扱われるとか、上履きや体操着を隠されるとか、そんなものだった。
ちなみに解説をすると、今行われたバケツの水をかけられるという行為は「浄化」だそうだ。水道水はどう足掻いても水道水で、決して聖水の役割は果たさないと思うが、中二病というものにでもかかっているのだろうか。
酷い時はトイレに顔を突っ込まれたこともあるが、トイレは尚更、浄化の効果を発揮しないと思う。寧ろ汚れるだけだ。ただ単純に水をかけて楽しみたいと言ってくれた方がまだマシだろう。
小鳥遊を人殺しと称する理由は、単純に両親が死に、小鳥遊だけが生き残ったから。だけではない。実は小鳥遊を引き取ったかつての一家が、皆薬物中毒で死んだのだ。つまり、小鳥遊に深く関わった者は皆、何かしらの形で死亡しているということになる。それが故、人殺しとか、死神とか、そう言って小鳥遊を罵る者が後を絶たないのだ。
それでも小鳥遊が反論しないのは、両親が死んだのは自分のせいだ、という責任が小鳥遊の中にあったからだ。

(嗚呼、早く死にたい。)

窓に映る青い空を眺めながら、小鳥遊はただそれだけを胸の中で呟いた。

第八話 予想外の実現

中等部にあがってからは祖父の形見であるロザリオを、肌身離さずつけていた。少しでも手放せば誰かに盗まれるような気がしたし、身につけていることで、家族を身近に感じられそうだったから。幸いにも、体育は常に見学だったので学校でロザリオを手放すことはなかった。
本来であれば授業に参加しないのはよろしくないのかもしれないけれど、チーム戦の多い体育では誰も小鳥遊とチームを組みたがらなかったし、教師も小鳥遊とその他大勢の仲裁をわざわざするのが面倒なのか、放置をしていた。つまり、教師が事なかれ主義のクズであったおかげで、なんとかなったという訳だ。
小鳥遊の成績は決して低い方ではなかったのも、教師からなにも言われることがなかった理由の一つかもしれない。
多少の自殺願望と死への恐怖が入り混じった中学時代は、結局惰性のままに過ぎて行った。
高等部へ進学しても、クラスの面子は変わらない。これ以上悪くなることはあっても、これ以上よくなることは、なかった。
流石は人間という種族だ。いくらサルのような脳みそを持っていても唯一道具を使い、進化し、進歩して来た種族なだけあり、彼らも進化はするようだ。
イジメは確実に悪質になっていた。軽いものであれば、クラス全員で存在の否定という名の無視を行い、教科書を隠し、財布を隠し、という出来事があった。そして大きなものになってくると、このように水をかけるだけでなく、上履きに画鋲を入れたり、集団で殴りかかったり、一歩間違えれば大怪我にもなりかねないものまであった。

(机の中に虫が入っているよりは、マシだけれど。)

中にあるノートを取り出そうとすれば、グサリと、痛み。チクリ、ではない。グサリなのだ。

(誰だよ、机の中にカッター入れたやつ。)

指先を少し刺しただけでこの痛みなのだから、もし自殺するのであればリストカットは止めようと小鳥遊は強く決めた。元々痛そうではあったので、候補には入れていなかったのだけれど。
ぽたぽたと指先から流れ落ちる鮮血を茫然と眺めていると、周囲からは、笑い声。かつては異変に気づいて「どうした、小鳥遊」と一応声をかけて来た教師も、どうやら今は無関心らしい。それがいい。それが正解だ。
嗚呼、今はそれが正解でも僕が自殺という形で人生の終止符を打てばこの教師の評価はどん底に落ちるのだろうか。
多くのマスコミに揶揄され、ネット上に晒され、まともに外を歩けないような、そんな未来が訪れるのだろうか。そんな未来が訪れれば、小鳥遊にとって自殺は大きな価値のあるものになる。
死にたい。死んで楽になりたい。自分の死という名のラッパ吹きで、彼らを社会的に終焉へと導いてしまいたい。でも、残念ながら小鳥遊に自ら命を絶つ勇気はなかった。何故なら、死ぬのは痛いし怖いから。
今日も胸元にあるロザリオを抱き締めながら惰性のままに生きている。こんな想いを抱えながらも毎日学校に通ってしまうのは、やはり社会の枠から外れるというのが怖かったというのがあるだろう。今でも十分社会の枠から外れているのかもしれないが、世間一般では有名学校に通っているという事実が残っている。もしも引きこもりとか、中退とかになれば、それこそ将来に影響が出るし、こんな奴等のせいで社会的に自分が不利になってしまうのがどうしても許せなかったのだ。
「その日」、小鳥遊は屋上で心地よい風を浴びながら、下を眺めていた。転落死もいいかもしれないけれど、やはり、そんな勇気は出ないなぁ、とか、そんなことを漠然と考えながら。

「お、居た居た。」

そうしていると、聞き覚えのある声がして思わず振り向く。そこには三人の見知った生徒が立っていて、名前は覚えていないけれど、同じクラスの虐めっ子ABCであるということは理解出来た。
いつもは無関心な癖に、一体なんの用なのだろうか。わざわざ虐めるために此処まで探しに来たのだというのであれば、彼らは相当暇人なのかもしれない。そんなことを考えながら虚ろに三人を見つめていた。

「な、な、おれたち暇してるからさ。遊んでくれないかな。」

やはり、相当の肥満人らしい。
にやにやと歪めているその顔は、もう見慣れてしまった。見慣れ過ぎて逆に真顔が気持ち悪いのだから、小鳥遊の常識はもうとっくの昔に麻痺してしまっているのかもしれない。
着ていた制服を無理矢理引きはがされ、ブチブチと音を立ててボタンが取れると、制服の下に隠されていたロザリオが露わとなる。三人はいい玩具を見つけたと言わんばかりに、小鳥遊のロザリオを取り上げた。

「おい、こいつ十字架持ってるぞ。いまどき中二病か?」
「うっえー、汚い。ぼろぼろじゃん。趣味悪ぅ。」
「おい、返せ!」

思わず小鳥遊は怒鳴り声をあげた。滅多に喋ることがなかったから、声を出すのも久々かもしれない。小鳥遊の声を聴くのが久しかったのはこの三人も同じのようで、一様に驚いた顔をしてこちらを見た。
ロザリオが錆びているのも、汚いのも、ボロボロなのも認める。この際中二病だということ肯定しても構わないし、残りの高校生活が全て虐め一色になってしまっても構わない。それでもそのロザリオだけは、祖父の形見だけは、唯一の家族だけは、返して欲しかったのだ。それは小鳥遊にとって唯一の心の支えだったから。
しかし、いつもは表情を変えない小鳥遊がこんなにも必死になっているという事実は、三人を更に愉しませるだけだった。

「おい、返せ、だってよ。」
「必死じゃない?だっさい。」
「ほら、返してやれよ。」
「えー、どうしよっかなぁー」

彼らは顔に張り付けた笑みを崩さずに、祖父の形見をぶらぶらと目の前でぶら下げている。まるで馬にニンジンを見せているかのようだ。止めろ、そんな扱いをするな、それは大事なものなんだ。沸々と湧き上がる怒りが、小鳥遊の判断能力を鈍らせる。

「返せっ」

小鳥遊は勢いよくロザリオに向かって飛びついた。いつもやられてばかりいる小鳥遊がこんなにも素早く、しかも必死に飛びついて来たことが驚きだったのだろう。小鳥遊はロザリオを握り締め、相手の手から引き剥がそうともがいている。
その必死さが余計に相手を恐怖させ、嫌悪させたのだろう。

「うわっ、なんだよコイツ!」
「必死過ぎるだろ、気持ちわりぃっ」
「おい、離せ、離せよっ!」

どん、と小鳥遊の身体は一人の生徒によって強引に後ろへ突き飛ばされた。ガシャンと身体の体重が後ろのフェンスにのしかかる。
その時、ガコンと何かが抜け落ちる嫌な音が聞こえた。

「あ」

その声は誰の声だったのか。小鳥遊の声だったのか、それとも目の前にいる三人の生徒の声だったのか、それとも両方だったのか。
小鳥遊の身体が宙を舞っていると自覚したのはその時だった。そういえば、と思い出す。屋上のフェンスが錆び始めていたから、来週業者が入って点検をする予定だと教師が言っていたような気がする。しかし、まさか人間ひとりの体重…しかも細見の小鳥遊の体重すら支えられないと誰が思っていただろうか。きっと誰も想像していなかったし、だからこそこの屋上は立ち入り禁止とまではなっていなかったのだ。
視界に移るのは、青い空と白い雲。今日もいい天気だ、と的外れなことを考えてしまう。
取り戻そうとしたロザリオは、自分の手を離れ、小鳥遊と共に宙を舞っていた。かつて胸元にあった温もりを、再び取り戻そうと手を伸ばすが、その手は届くことはない。独りぼっちで、堕ちて逝く。

「かえ、し、て」

口からは怨念が。瞳からは涙が零れて逝く。
けれどもそれらは彼らに届くことはないだろう。きっと小鳥遊の死は不幸な事故として片付けられる。そしてお茶の間を適度に賑わせ、すぐに忘れられる存在と化すのだ。遺書を遺し、彼らを社会的に傷付けて命を絶つという小鳥遊の計画は、結局実施出来ずに終わるのだろう。別に積極的に自殺をしたい訳でもなかったけれど、どうせなら自分の命は自分で終止符を打ちたかった。
まさかこんな形で自分の死を実現させてしまうなんて、こんな無理矢理な結末なんて、こんな、あっさりとした結末なんて、あんまりだ。
それが出来ないなら、せめて、せめてせめてせめてせめて。独りぼっちで死ぬのではなく、胸に家族を抱いて、最後くらい、家族と慰させてくれたって、いいじゃないか。それすらも、自分には許されないのだろうか。

「がっ…」

思わず、声が漏れる。
蛙が握りつぶされたようなこの声が、自分から漏れていたのだと認識するのに少し時間がかかった。
空から堕ちて来たロザリオは重力によって勢いを付けられ、小鳥遊の喉元を貫いていたのだ。痛みと苦しみで、顔が歪む。
呼吸がままならず、喉も燃えるように熱い。ロザリオを喉から引き抜こうと手を動かそうとしたその時、小鳥遊の身体は、頭から地面に勢いよく激突した。
 
(僕の人生って、なんだったんだろう。)

ぐしゃりと、何かが潰れる、音がした。

 


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