悠久休暇


本編



小鳥遊浮は、穏やかな父親と優しい母親の間に生まれた、ごく普通の男の子だった。
否、普通というのはやや誤りかもしれない。何故なら彼の父親は名家の御坊ちゃまであり、母親もまた、血筋そのものは海の向こうの名家のそれだった。
家柄を気にせず誰とも分け隔てなく接した父親と、過酷な幼少時代を過ごしながらも太陽のように明るく強く生きた母親。
二人は誰からも敬われ、愛されていたし、そんな二人の間に生まれた浮は、誰よりも愛情をもらって育っていた。
年相応に活発で、無邪気であどけない、無垢な少年だったのだ。
事件が起きたのは、二十年前。
それは家族旅行の帰りであった。車の後部座席に乗っていた小鳥遊は、たくさんのお土産にかこまれながら窓の外を見渡していた。
幼いころ、誰もが一度は言ったのではないだろうか。

「おとーさま、おとーさま、あのくるまにぬかれたよ!おいこさないと!」

当然、子供のこんな些細な言葉に反応する父親はいないだろう。
小鳥遊の父親も、はいはいと笑って相手にはしていなかったし、きちんと規則正しいスピードで、正しい交通ルールで、車を走らせていた。
しかし、事故は起きた。たまたまスピードを出し過ぎた車が、こちらに突っ込んで来たのだ。
これがきっかけで、小鳥遊は目の前で両親を喪うことになる。
この時、父親が交通ルールをきちんと守っていて、スピードを速めていなかったということが分かる年齢であれば、彼の今後は違ったのかもしれない。

(僕のせいだ。)

しかし、まだ小学生にもなっていない小鳥遊には、それがわからなかった。
彼の発言が、愛しい両親を殺したのだと。自分のせいで、死んだのだと。彼はこの時から苦しみ続けることになる。

第七話 とある店主の回想

両親亡き後、身寄りがなくなった小鳥遊を引き取りたいという大人は多く居た。皆、まるで事前に打ち合わせをしたのではないかという位に口を揃えて「浮くんが不憫だから」「施設に行く位であれば自分たちが引き取る」と語る。
しかし、幼心ながらに彼らの目当てが小鳥遊ではなく、小鳥遊に残された両親の莫大な遺産であるということはわかっていた。
それでも、まだ小学生にもなっていない幼い小鳥遊が一人で生きていく術は当然なく、世間一般でも引き取りたいという親戚がいる中、簡単には施設に送られない。
小鳥遊の父親である小鳥遊帳は、穏やかな人柄でありながら、とても慎重な性格だった。帳も、そして妻であるキーリも、両親やきょうだいというものはいなかった。そうすれば、自然と自分たちが亡くなった後は、その遺産は全て息子である小鳥遊浮に託される。もしも自分たちが若いうちに、遺される小鳥遊が、幼いうちに亡くなれば、彼に継がれる遺産を目当てに、彼を引き取りたいと手を上げる者たちが続出するかもしれない。
それを危惧した帳は、相続人である小鳥遊以外の人間にはお金を使うことが出来ないようにしていたのだ。
今振り返れば、この親戚以外の人間…小鳥遊にとって信用できる人物が、未成年後見人となっていたのだろう。何故なら、学校には問題なく通えていたし、生活費もそれなりにもらえていそうなことを、小鳥遊を引き取った人間が呟いているのを小耳にはさんだことがあったからだ。
それが幸いし、小鳥遊を金目的で引き取った遠い親戚である人間は、遺された金を湯水の如く使う…ということは出来なかった。だからこそ、その分家での小鳥遊に対する扱いは酷かった。
小鳥遊を引き取った「おじさん」という人は、気に入らないことがあればとにかくすぐ殴る男だった。

「だから!さっさと飯をつくれって言ってるだろう!」
「ご、ごめ…ごめん、なさ…」
「ちょっとぉ、早くしてよねぇ。おなかすいてるんだからぁ。」
「ご、めんなさ…」

涙を拭いながら食事に用意をするのは毎日だった。味付けに不満があれば殴られる。殴られるだけならまだいい。使用した直後のフライパンで殴られ、火傷を負ったこともある。この家は本当に小鳥遊の親戚なのだろうかと錯覚するくらい、一言で云えばクズだった。男は毎日代わる代わる愛人を家に連れ込んだ。その男がいない日は、妻である女が代わる代わる愛人を連れ込む。そして小鳥遊の目の前で行為に及び、それを見せつけるのだ。どちらの愛人からも暴行を加えられたこともある。煙草を押し付けられ火傷をした日もあれば、拳や平手で殴られたこともあれば、思春期が近付き、体付きが男性に近づいて来ると、性的な暴行も加えられることになった。
また、そんな男と女の間には、一応娘というものが存在したが、その娘も友達とやらと一緒に家で薬物を嗜んでみたり、それを小鳥遊に強引に嗅がせてみたり、おもちゃにして遊ぶ、なんてことはよくあった。
これだけ暴行されれば、自治体が動いてもおかしくはないのだろうが、皆、見て見ぬ振りをした。それはそうだ。この男女とその娘は、どうみてもヤンキーかぶれだし、不用意に手を出して返り討ちにあったり、自分たちに危害が及ぶのを恐れたのだろう。小鳥遊自身も、それが日常となっていた為、泣き叫んだり、助けを呼ぶなんてことは、しなかった。
 転機が訪れたのは、小鳥遊が十二歳の時。おじさんが酔っ払った拍子に通行人を暴行し、逮捕されたのだ。その時に微量の薬物が検出され、それがきっかけでずるずるとその妻やその娘は逮捕された。たまたま学校帰りだった小鳥遊は、三人が白黒の車に強引に乗せられていく光景を、ただ黙ってみていた。

(どうする?)

逮捕といっても、すぐ戻って来る可能性がある。そうすればまた殴られ嬲られの日々だ。保護を求めたところで暮らしが快適になるとも思えない。幼い小鳥遊が選んだ選択は、逃げることだった。あの家族が食事や洗濯といった家事全般を小鳥遊に押し付け、失敗をすればつらくあたっていたことから、その頃にはもう生活していくにあたり必要最低限の知識は身につけていた。故に、無理してあそこにいる理由はないと判断したから。
小鳥遊が逃げた先は、かつて彼が暮らしていた屋敷だった。

(埃っぽい…)

六年ぶりに訪れた屋敷は、微かに残っていた記憶の中にあるそれとはまるっきり違っていた。
無数の薔薇が咲き誇っていた庭は枯れ果て、手入れする者がいなくなったせいだろうか雑草が無造作に伸びている。
長年こっそりと隠し持っていた屋敷の鍵を使って扉を開くと、ギギギと軋む音がして埃が霧散し、思わず咳き込む。中を見渡せば、蜘蛛の巣が張り巡らされた屋敷内はシンと静まり返っている。
かつて父母と過ごした懐かしい家はもう何処にもないらしい。
まるでお化け屋敷だ。幽霊といった存在を信じるつもりはなかったけれど、やはりまだ十代前半にとってこの手の雰囲気は多少怖い。

「ひっ」

カチカチと、無人の館で鳴り響く音に思わず小さく悲鳴をあげて身体を震わす。
その音は一定のリズムを保ちながら規則正しく鳴っていて、その音は奥の部屋…かつて寝室として使用していた部屋から鳴っているらしい。
恐る恐る部屋を覗き込んでみると、身の丈よりも少し高い、大きな振り子時計があった。何年も無人だったこの館で、この時計だけは止まることなく時間を進めていたのだ。

『浮、この時計はね、私のお父様が遺して下さった時計なのよ。母もとても大事にしていたの。』

亡くなった母の声が、何処からともなく聞こえて来る。否、正確には母の声が小鳥遊の思い出の中で再生されているだけなのだが。

『お父様は亡くなってしまって、遺品も殆どないのだけれど。この時計は、父と母二人の想いが詰まっている気がして。』

母はそう言って、幼い自分を抱きかかえながら時計を優しく見つめていた。そんな、微かな思い出。
母の父、つまり小鳥遊にとっての祖父は、母が生まれるよりも前に亡くなったらしい。何故亡くなったのか。どう亡くなったのかは母も知らないそうだ。
少なくとも、祖父が亡くなった後の祖母と母に対する仕打ちはあまり良いものではなかったらしく、祖母と母は逃げるようにして海を渡り、今の父と出会ったそうだ。
父の家は、祖母と母が逃げる手助けをしてくれた人と交友が深かったらしい。そして、その手助けをしてくれた人というのが、祖父の双子の兄だったそうだ。
両親が死んだ、あの事故よりも前に、その人は亡くなったらしいけれど、どんな事があっても、二度と会わないとの約束をしたために、葬儀には行けなかったらしい。
訃報を知れただけでも幸福なのだと母は語り、静かに冥福を祈っていた。

(兄とか祖母とか色々出て来てややこしい。相関図が欲しいな。)

次第にややこしくなって来た為、一度思考を停止する。
父も母も物持ちが良い方で、あまり遺品と言えるようなものは残っていなかった。それに、品の良いスーツやドレスといったものは、全て知り合いと名乗る者達が形見分けと称して持って行ってしまった。
時計はそれなりに大きく重い。それに古びているし、何処にでもある平凡な安物だった為、相手にされなかったのだろう。
そんな中見つけたのが、祖父の形見である神父服とロザリオだった。ロザリオは古びていて、あちこちが錆びている。確か、これも祖父の形見だと、母が言っていたような気がする。

「見つけた。」

僕はそれらを見つけた時、思わず口ずさんだ。
何を見つけたのかはわからない。それでも、長年引き離された家族と、その時ようやく出会えた気がしたんだ。
何年も喪っていた家族。求めていた家族の温もり。それが、この形見の中に辛うじて残されているような、そんな気がした。

「お父様、お母様…」

掠れそうな声で祖父の遺品を抱き締め、呟く。
視界がぐにゃりと歪み、頬が濡れたことで嗚呼、自分は今泣いているのだと、認識した。

「ただいま、戻りました。」

おかえりなさいと、言ってくれる人はもういない。
それでも、この腕の中に微かに残っている家族の面影だけで、それだけで、小鳥遊はまだこの境遇に耐えられるような気がしたのだ。
あの時までは。

 


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