悠久休暇


本編



ガタンゴトン。ガタンゴトン。
電車音が響く駅のホーム。次の電車が到着するというアナウンスがホーム全体に響き渡った。軽やかなメロディが耳に突き刺さり、電車がやって来るであろう方向へ視線を向ける。その先には、くねくねと身体を曲げながらこちらへと進む鉄の蛇。
あの身体にぶつかれば、ひとたまりもないだろう。身体のパーツというパーツは、抱え込んでいる憂鬱と共にあちこちへと飛び散ってくれるに違いない。一歩一歩、右足を前へと踏み出す。
もう一歩、左足を前へと踏み出せば、身体はホームから落下し、あの鉄蛇の身体へと直撃するだろう。
そうすれば、全てが終わる。全てが終われる。
さぁもう一歩、後もう一歩、頭の中ではイメージが出来ている。にもかかわらず、身体は動かない。
ごうんごうんと低い音を立てて、大きな鉄の身体は目の前を通過していった。
風が吹きあがり、髪は乱れる。
ゆっくりと速度を緩めたそれはぴたりと停止し、口を開いて何人もの人間を吐き出した。
いつも通りの朝。いつも通りの光景。

「…ふ、ふふ…」

口から思わず笑いが零れた。

「ふふ、は、はは…あはは、あははははははっ…」

笑い声は次第に音量を増していく。
しかし狂ったようなその光景を気に留める者はいない。最初からそこに存在していないかのように人々はすれ違う。
ある人は出口へ向かうために階段を登り、ある人は次の駅へ向かうために鉄の身体へと吸い込まれていく。
高笑いする彼を、誰も視界に入れることがない。

「はは、ふふ、あはははは…」

彼は確かに笑っている。確かに笑っているのだが、その瞳からは、大粒の涙が零れていた。

「また、死ねなかった…」

男は膝から崩れ落ち、笑い声は、次第に嗚咽へと変化していくのだった。

第二話 人魚姫になりたい女

情報化が進んだこの世界はとても便利なもので、欲しい情報は簡単に手に入る。特に何を考えるでもなく、悠久休暇の店主、小鳥遊浮はコンピュータと睨めっこを続けていた。目の前のページは都市伝説の特集を組んだものとなっており、その中に、自身が経営する悠久休暇の内容も記載されている。
自殺者を支援する店。それは誰にでも見つけられて、誰にも見つけられない異質な店だとか、店主は実は地獄からの使いなのだとか、一度入れば二度と生きては出られないとか、何を根拠にしているのかもわからない内容が数々記載されていた。

(大袈裟に書かれているなぁ。)

記載されている記事の殆どが、あながち間違ってはいない。けれど二度と生きて出られないというのはあまりにも大袈裟だと小鳥遊は遺憾に思いながら、手元にあるミルクティーを口にした。こちらとて別に好きで出さない訳ではないし、生きたいのであればそれを否定はしない。生きるか生きないか、それを決めるのはあくまで顧客であり、自分ではないのだから。
中には、一度は絶望に染まり切った心に一点の希望を宿して店を出た者だっている。結局、その客は次の日にはまた同じように絶望した瞳で店へと戻って来たのだけれど。

「僕はただ、死にたいっていう人の手助けをしてあげているだけなのに。」

頬杖をつきながら、独り言を呟く。当然誰もその呟きなど聞いている訳がなく、辺りはしんと静まり返っていた。
唯一聞こえるのは、コンピュータの機械音と祖父の代からあるという大きなのっぽの古い振り子時計の音位だろうか。そういえばおじいさんが生まれた朝にやって来た古時計の歌も小学校時代によく歌った気がする。あれは歌う地域によってはちくたく動いてる年数が百年だったり九十年だったりするのだから、自分の店よりも時計が何年動いているかということの方がよっぽどミステリアスだと感じる。そんなくだらないことを思い出す位には、今の小鳥遊は退屈をしていた。
はぁ、と深い溜息をつく。
年間数万人と自殺者がいるとはいえ、そう頻繁にこの店を訪れる客がいる訳ではない。現在のように、客もいなく退屈するという時の方が多かったりする。
退屈を持てあました小鳥遊がうんと身体を伸ばせば、運動不足の身体が軋み、パキパキと全身が楽器のように音を鳴らす。どんなに暇でも、自殺者のためならえんやこら、三百六十五日年中無休を抱えるこの店では、休みという言葉と店仕舞いという言葉は存在しない。その代わり、客が来るまでは惰眠を貪っていたりすることが殆どなのだが。現に今も、重い瞼と戦いの火蓋が今、嗚呼戦うまでもなく負けてしまいそうだ、いやもういっそ負けてしまおう眠ってしまおう、そう思考を巡らせ瞼を閉じた時、ぎぃ、と扉の開く音が聞こえた。
扉の開く音。そして魂の気配。閉じられた瞳をはっと開けば、視界の先には女性の姿があった。白髪が多く、すっかり老け切った様子の女性だが恐らく本来の年齢はそれほど老けていないだろう。何故そう思うのかといえば、ただのカンでしかないのだけれど、女性の手足はすっかりやせ細っていて、服も汚れが目立っている。まるでホームレスのようだ、と思ってしまうのは少し失礼かもしれない。

「いらっしゃい。さぁ、こちらへ座って。」

小鳥遊がそう促せば、女性は小さく頷いてゆっくりと椅子に座る。目に生気は感じられず、よく見れば身体の所々に青痣が浮かび上がっていた。小鳥遊の感想としては「これは酷い」の一言だったが、こういった状態で現れる女性客は珍しくもない。寧ろ多い方だ。

「今日はどのようなご用件で…なんて、聞くまでもない、かな。」

パソコンをぱたりと閉じながら小鳥遊は挨拶代わりの問いかけをする。別に要件を言ってほしい訳ではないし、理由や事情を聴きたい訳でもない。何故なら自分の仕事は死ねない自殺志願者の支援、ただそれだけだ。事情を知ったところで目的は変わらないし、強いて言うのであれば死体を晒したいのか、晒したくないのか、知りたいのはそれくらいだ。
自殺をしたいという人間の中では、死体の扱いは主に二つに分かれる。一つは思い切り世間に知らしめて欲しい場合。この場合は職場や学校といった場でトラブルを抱えた者が申し出ることが多い。自分の死を知らしめることで、少しでも自分を死へ追いやった者の心にダメージを負わせることが出来れば…という思いからだ。もう一つは、なるべく姿を隠した状態にしてほしい場合。この場合はなんらかの事情で社会的にダメージを負い、尚且つ遺族がいる場合だ。世間的には行方不明という扱いにしてほしい。しかし、自分は実際には死んでしまいたい。こういった場合が多い。それをきっかけに自分が死んだのだと遺族が知れば悲しむから、世間的には家族を見捨てた身勝手な人間として葬ってほしいという気持ちからだ。残された家族に自分のことを引きずってもらいたくないからだろうが、こういった場合は前者よりも少ない。自殺を望む人は、なんだかんだ自分を見てほしいという欲求が強いのだ。
さて、少し思考が脱線したな、と小鳥遊は再び今目の前にいる女性のことを考えるべく思考を引きもどす。

「夫の、浮気や暴力が酷いんです。ほぼ毎日、夫は気に入らないことがあれば私を殴り、罵ります。それだけであれば、私が至らないから、私がしっかりすればいいのだと、そう思えるのですが、浮気まで…子どもが生まれれば、何か変わるかもしれないと思ったのですが、子どもが生まれても何も変わらず、酷くなる一方。両親はもう亡くなっているので頼れないですし、義理の父母は…当然、夫の味方です。離婚をしたくても、私は専業で…大学を卒業してすぐに結婚をしたので、働いた経験もありません。もし仕事を見つけられたとしてもパートがせいぜいでしょうし、それでは子どもを満足に育てられるかも怪しいです。だからといって、私だけ耐えるといっても、こんな生活があと何年と続くと思うと…もう、耐えられないんです…」

女性はぽつりぽつりと小さな声で想いを吐露する。瞳からは大粒の涙が同じようにぽろぽろと溢れ出ていた。
彼女はまるで愛玩用に飼育された動物だ。餌の捕り方を知らない愛玩動物は、野生に放たれれば後は死を待つだけだ。しかし愛玩動物ではなく、人間である彼女はそんな絶望的な未来を予測し、死を待つ位であれば今すぐ死んでしまおうという結論に達したのだろう。その結論が間違っているのかはわからないし、きっと彼女を咎める権利や勇気付ける権利は、誰も併せ持っていない。

「子どもはどうするんだ、って、思うかもしれません。でも、大丈夫なんです。義父母は子どもには優しくて…子どもはいいから、嫁はいらん、なんていう位です。子どものことは、きっとよくしてくれます。子どもが男の子でよかったと、今程思ったことはありません。」

彼女はそう言って、弱々しく笑った。妻であることも、母であることも放棄せざるを得なかった女性。きっと、彼女を思いやってくれる男性と出会っていれば、彼女は年相応の若々しさを保ったまま、親子仲睦まじく生き続けることも出来たであろうに。

(でも、それは僕にも、今の彼女にも関係ないことだ。)

小鳥遊はミルクティーを用意して、女性へ差し出す。女性はカサカサに荒れた手でその白いカップを持つと、琥珀色の液体を生気のない瞳でじっと見つめている。

「それを飲めば、貴女は全ての苦しみから解放されるでしょう。そうすれば、全て、楽になります。」
「ありがとう。……ねぇ、店主さん。一つ、無理なお願いをしてもいいかしら。」
「なんですか?」

この後の彼女の言葉は、だいたい想像が出来た。そして、彼女はやはり、想像通りの言葉を小鳥遊に放った。

「私を、抱いてくださらないでしょうか。最期位、優しく抱かれて、女として、死にたいのです。」

この手の願いを乞う女性は珍しくない。心も身体も粗末に扱われてばかりの日々。優しく、一人の女としてみてもらいたいという願いを抱いても不思議ではない。そんなことをしても、更に虚しくなるだけだし、そこに彼女たちが本当に求めているものは存在しないのに。
小鳥遊は優しく女性に微笑みを向けながら、女性の頬にその手を触れる。
肌も唇も荒れている。本来であればさぞ綺麗な女性だっただろうに。否、今のままでもきっと十分に綺麗だ。辛い理不尽に耐えながら、今まで闘って来たのだから。もう彼女の闘いは、終わりにしてあげるべきだ。

「私の遺体は、人魚姫のように、してほしいです。」

泡となって消えた人魚姫。つまり、遺体は知らしめず、跡形もなく。そういうことなのだろう。

「かしこまりました、お客様。」
「名前で呼んでください、店主さん。私の名前は…」

教えられた彼女の名前を、小鳥遊は耳元で優しく囁く。
きっと、もう何年もその名前を呼んでくれる人はいなかったのだろう。彼女は瞳の大粒の涙を浮かべながら、それでも満面の笑みを浮かべていた。そんな彼女の唇と、自身の唇をゆっくり重ねながら、細い身体をそっと優しく抱き締めた。

 


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