悠久休暇


本編



全ての命には限りがある。
生きている限り生物はその命を全うし、死に至る。それが極当り前のことであり、自然のサイクルだ。
しかし人間という生き物は、ほんの些細なきっかけで簡単にその命を自ら終えてしまう。
自らを殺すと書いて自殺。
この国では年間およそ数万人の人間がこの自殺という方法で命に終止符を打っている。
理由は様々だ。人間関係に悩む者。家庭に悩む者。経済的に悩む者。将来について悩む者。何らかの形で人は悩みを抱き、苦しみ、最終的にはそれらから逃れる為に自殺という形で全てを終える。
しかし、中には命を終えたいと思っていても、中々実行することが出来ない者もいる。
何故なら死ぬことはとても怖いから。
自殺というものはこれがまた曲者で、綺麗に、そして安らかに死ぬことはとても難しい。
電車に轢かれる。これは駄目だ。肉体が粉々になるし、一瞬ではあるものの、轢かれる瞬間はさぞ痛いだろう。それに電車を止めてしまうので、遺族に莫大な賠償金がかかってしまう。遺される者など気にも留めない、という薄情な人間なら遠慮なく飛び込むかもしれないが、小心者だったり、遺族に迷惑をかけたくないという変な優しさから、これを実行出来ない者も多いのではないだろうか。
では、と。別の方法を検討してみる。
溺死。これも駄目だ。溺れている間はさぞ苦しいだろうし、我慢出来ずに水の中から出てきてしまう。無事死ぬことが出来たとしても、身体が水を吸って外見的にはさぞ悲惨なことになっているに違いない。そんな状態で見つかるのは御免だ。
首吊り。これも駄目だ。まず首を吊るその瞬間。つまり、ロープを首に通すという段階で恐怖心が生まれて逃げてしまう。この手法は脳へ血液がいかなくなり、酸欠となることで意識を失う。つまり、約十秒程で意識はなくなりそのまま死に至る為、意外と苦しみが少ない手法だ。それ故に、恐怖心を抱かず遠慮なく首を吊れるという者にはお勧めしなくもない。だが成功したとして、穴という穴から、やれ涙やら涎やら糞尿やら体液という体液を噴き出しているだろうから、綺麗に死ぬことはまず不可能だ。
死ぬということはとても簡単だ。
けれど、その死という行為に及ぶ為の過程に人は苦悩する。
恐怖や未練、そして後悔。そういった類を振り払うことを生業としている人間がいる。

第一話 永遠の暇を望む者

数多の人間が往来する街中にある無数の路地裏。そのうちの一つに入り込めば、それはあった。
まだ人通りの多い朝方にも関わらず、スーツ姿の男は鞄を抱きかかえたまま、通常であれば電車に揺られ、会社に向かうべき足はこの路地裏前にある扉の前で立ち止まっている。
明朝体で悠久休暇と記載された看板を下げたその店は、店と呼んでいいのか悩んでしまう程簡素で味気ない。ドアノブには同じく明朝体でOPENと記載がされたプラスチック製のプレートがかかっているのだから、入ってしまっても差し支えはないのだろう。
木製の扉をコンコンとノックをしてから、ノックしたにも関わらず返答を待たずにドアノブを捻る。ギィ、と鈍い音を立てて開かれた扉の隙間から、香のような、眩暈がする程に甘ったるい香りが鼻を突いた。あまり嗅ぎ慣れないそれに思わず不快感が募る。例えば香水とか、少量であれば心地のよい香りでもつけすぎてしまえばそれは鼻に突く厭な臭いになるだろう。この香の度合いはそれと似たようなものがあった。
この店の店主は、こんなところに丸一日はいるのだろうから、その異常性は想像出来る。
否、そもそもこの店自体、まともなものではないのだから店主に常識を問うても仕方ないのだ。一部の者に都市伝説だと言われてしまう、この店では。
それにしても、この店は全体的に薄暗い。窓もカーテンがかかっていて光が外界から遮断されているし、唯一ある照明は扉から入って来てすぐ目の前にあるテーブルの上に置かれた蝋燭だ。橙色の明かりが怪しげにゆらりゆらりと揺れている。そのテーブルを挟んで椅子が二つ。一つは手前側なので、来客者が座るためのものなのだろう。奥の椅子は、客人用のそれよりも大きめで座り心地もよさそうだ。椅子の背後に黒いカーテンのようなものがあり、奥にカーテンがあることが伺えることから、きっと店主用だ。
しかし店主は何処なのか。部屋を見回すが、人がいるような気配はない。

「いらっしゃいませ。で、いいのかな?お客様、だよね。」

突如として聞こえた声は、黒いカーテンの奥からだった。聞こえて来た声に緊張で思わず身体を強張らせる。カーテンを退けて出て来たのは、ごく普通の青年だった。
青年を見た第一印象は「黒」。艶やかな黒髪。そして、その髪と同じ色の、本来であれば教会の聖職者が身に着けているのであろう祭服。安心感を与えるその服は、この異質な空間では不安感を煽るような形となっている。髪も服も黒いからか、白い肌が良く映える。長い間陽に当たっていないであろう肌は雪のように白く、その雪に彩を添えるような赤い瞳が、長い前髪の間からでもよく見えた。
じっと見つめて来る赤い瞳に飲み込まれそうになり、思わず目を逸らしながらごくりと生唾を飲んだ。緊張のせいだろうか、口の中がやけに乾いて仕方ない。

「あの、店主、は。」

発した声は思いのほか掠れていて聞き苦しいものだった。しかし青年には何を言ったのかきちんと伝わっていたようで、人畜無害、人当たりのよさそうな穏やかな笑みを浮かべた。安心感と、不安感と、二つの感情が頭の中で混ざり合う。

「僕だよ。ふふ、想像と違ったかな?よく言われるんだ。」

やはりこの青年が店主らしい。確かに、店主にしてはやけに若い外見をしているし、そもそもこんな甘ったるい香の充満する店の店主が好青年とは誰が想像するのだろう。好青年よりも、黒いローブに包まれた老婆方がを想像する者が多いはずだ。それに、こんな空間では想像通りの老婆よりも、それとは不釣り合いな祭服姿の青年の方がよっぽど気味が悪い。
お掛けよ、と青年は客人用と思われる椅子を手で示す。此処は遠慮なく座るに限るのだろう。変に断るのもそれはそれで厭だったので、言われた通り椅子にゆっくり腰かける。椅子のクッションが思いのほか柔らかく、身体がゆっくりと吸い込まれるような感覚に襲われる。これは長時間座っていてもちっとも苦ではないし、いっそこのまま眠りこけることも出来そうだ。
青年は相手がしっかり座ったのを確認すると、自身も店主用と思われる椅子へと腰かける。当然といえば当然なのだろうが、店主用の椅子の方が上質らしくひどく居心地がよさそうだ。青年は口元を手で覆いながら小さく欠伸をし、眠たそうな顔で椅子の心地良さを堪能している。こんな光景を見ていると思わず緊張感が解れるが、それが目的なのか、それともただ単純に眠いだけなのか、恐らく真実は後者だ。
青年は整った顔立ちをしているが、よく見ればどことなく幼さが漂っている。外見年齢としては二十台半ばのようにも見えるが、緊張感のない欠伸をしたり、眠たそうに眼を擦ったり、その仕草の一つ一つから、まるで十代のような幼さが見受けられた。だがたまたま童顔で、そのように見えるだけなのかもしれない。あまりにもじーっと青年を見つめ過ぎていたせいか、はたと青年の赤い瞳と目が合った。気付けば青年は再び優しく、大人びた笑みを顔に浮かべている。

「で。」

本題だよと言わんばかりに青年は声を放つ。

「今日はどんな用で来たのかな?此処がどんな店なのか、多少は噂として聞いているはずだよ。」

悠久休暇。
そう呼ばれる店は悠久、つまりは永遠の暇を提供する店だとしている。
永遠の暇と言えば聞こえはいいが、この店が提供するものは「死」だ。
それもただの死ではない。生きることに疲れた者。逃げ出したい者。そういった者達が一度は思考として辿りつく「自殺」。しかし、人生に終止符を打ちたいと願う者の大半は死という果実を得る過程や代償を恐れ、死ぬことが出来ないままでいる。そんな人々の「自殺」を手助けすることを目的とした店が、この悠久休暇だ。
悠久休暇の噂は都市伝説に近い。そもそもこのような話が何時、何処で、何をきっかけに出て来るようになったのか定かではないが、一部のネット掲示板ではよく話題となっている。書き込みをしている者の中でも何人かは悠久休暇と書かれた店…つまり、此処を見たことがあるという情報を発していた。しかし目撃した場所はバラバラで、各地で目撃されているという奇妙さが、都市伝説扱いされている理由の一つだろう。
悠久休暇は死を求める者の前に現れる。そして、その店を訪れた者は必ず死という永遠の休暇を得ることが出来る。だから、悠久休暇を見つけたという話は出ても、その店を訪れ、再びネット上でその後の報告をした者はまだいない。
現在客人用の椅子で腰かけているこの男も、その噂を聞きつけ、足を運んだ者の一人である。
店主の言葉に目を泳がせながら、少しずつ瞳は下を向いていく。その瞳には、生きる希望を持った者には少なからず宿っている輝きが一切ない。もしこの店に用がなければ、男は今頃電車に揺られ、職場のある駅へと足を踏み入れているところだ。それが出来ないからこそ、男は此処に座っている。

「なにか、辛いことでもあったのかい?」

青年に諭されるように声をかけられ、下へ向いていた瞳をなんとか上へと持ち上げる。しかし人の顔がよく見ることが出来ず、視界は店主の瞳ではなく、首元を捕えていた。
何から話せばいいのか、そもそも話してもいいのだろうか、そんなことを迷っていると訪れる、長時間の沈黙。

「まぁ、無理に話す必要もないけれどね。此処はそういう場所ではないし。ただ、生きる希望を亡くした者が来る場所だから…何かあったのかなって。ま、お決まりの挨拶みたいな言葉だし。」
「…もう、嫌になったんです。」

話そうと思えたのは、恐らく店主が無理に聞き出すつもりがなかったからだろう。ただ同情する為に、説得する為に、話を聞きたがる人はテレビでもよく見かけた。よくもまぁ人のプライバシーに土足で踏み込むようなこと平気でするものだと、そういう番組を見る度に思っていたし、そういう善人ぶっている人の方が、人の不幸を純粋に嘲り笑う奴よりもよっぽど性質が悪い。
一度開いた口は、決壊したダムが水を一斉に放出するように、つらつらと言葉を放っていく。

「仕事で、ミスしたんですよ。そんな大きなミスではないです。ミスとしては、ただ謝れば済むような、小さなミス。でも、上司が細かい人なんですよ。小さなミスも許せない、っていう、完璧主義みたいな人、いるじゃないですか。うちの上司はまさしくそれ。小さなミスも、まるで重箱の隅をつつくように、ネチネチと怒って来るんですよ。そりゃぁ、ミスっていうのはあってはならないものです。でも、人間誰でもミスってするじゃないですか。上司だって人間なんですから、ミスしたことがない、なんてことはないはずですよ。それなのに毎日毎日、もうたくさんなんです。せっかく勉強して、いい大学行って、いい就職先に就けたと思ったのに、これですよ。だからって転職する気力もない。転職したら、更に職場のランクは下がります。簡単には出来ません。今の苦痛を逃れるために転職しようとしたところで余計苦労するのは目に見えてます。頻繁に異動があるような職場じゃないから、その嫌な上司が異動するまで待つ…なんてことも出来ないですし。それなら、いっそ楽になりたいなぁ、って。楽になるにはもう死ぬのが一番手っ取り早いなぁって。だって、上司と話し合いをしたところで結局無駄ですし、今度こそ嫌がらせされるのがオチですし、ほんと、死んでしまいたいっていうか。」

言葉は思いのほか饒舌に口から零れ出て行く。我ながらくだらない動機だ。こんなこと、テレビカメラの前でつらつら述べようものなら、世の中にはもっと辛い思いをしている人がごまんといるとか、上司だって話せば通じるはずなんだからよく話し合ってみようとか、そんな綺麗ごとを熱く語られておしまいだ。しかし、目の前の店主はその話をうんうんと小さく頷きながら黙って聞いている。
男が一通り話を終えると、店主は人当たりの良い好青年な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと立ち上がった。
 
「ちょっと待っていてくれないかな?」

店主はそう言うと、再びカーテンの奥へと姿を消していく。じっとカーテンの奥を覗き見ようと試みるが、奥の様子は見える気配がしない。強いて言うのであれば、香の甘い香りとはまた別の甘い匂いがほんの少しカーテンの奥から漂っている位だ。これ以上甘い香りを充満させてどうするのだろうかと思いながら店主の帰還を待っていると、店主は二つのカップをおぼんに乗せて再び戻って来た。
目の前のテーブルに置かれた白いカップには琥珀色の液体が淹れられている。甘い匂いの犯人は恐らくこれなのだろう。ふと顔を上げると、店主はそのうちの一つに口をつけているところだった。カップだけでなく、白いミルクの入った小さな陶器もある。

「話してくれてありがとう。そして、よく此処まで来てくれたね。嬉しいよ。」

また一口、店主は琥珀色の液体を口に運んでからそのカップをテーブルへと置く。
店主はカップの中に更にミルクを注ぎながら、口を開いた。

「まったく酷い上司だ。少しの過ちでこんなにも責め立てるなんて、君の心に全く配慮が欠ける。辛いよね。きっとその上司だけではない。この世の中の誰もが君の苦しみを理解しようとは思わないだろうし、理解してくれないだろう。そんな世界で生き続けたって、それは死んでいるのとほぼ同義だ。どうせ死んでいるのと同じなのであれば、いっそのこと、本当に死んでしまった方が今後苦しむ必要がないし、遥かに楽になる。よく来てくれたよ。おかげで僕は、君を苦しめるこの世界から、君を救い出すことが出来る。もう苦しむことはない。もう悲しむことはない。全てが終わるんだ。そう、君は死という果実を無償で得られる。代金?そんなの必要はない。君の心が救われることが、僕にとっては財産だ。過程?何も迷うことはない。ただ僕に委ねてくれれば、一瞬で終わる。苦しみはない。恐怖もない。代償?当然ない。寧ろ、代償を払うのはこの世界だ。君を苦しめた上司。君の苦しみに気付かなかった世間に、君は死を持って復讐することが出来るんだ。そして君を苦しめた上司は罵られる。君を死に追いやった愚か者だと。そして、君は救われる。」

男の手を握った店主の手は、ひどく冷たかった。先程まで暖かいカップを持っていたはずなのに、人の手はこんなにも冷たいものなのだろうかと驚いてしまう。だが、その手の冷たさ故に恐怖を抱く、ということはなかった。寧ろ、手を握ってもらうことで、安心感さえ抱くことが出来る。
苦しむのは自分ではない。そして自分は救われる。その言葉が、酷く魅力的に思えた。自分は救われ、そして、自分がこうなる原因ともいえる上司が代わりに苦しむことになる。こんな結末を聞いて、気分が良くなってしまうのは人間の性ではないだろうか。

「僕も生きていることが辛いから。君の気持ちはよくわかるよ。僕も君と同じだ。そして、死ぬのが、怖い。」

愁いを帯びた赤い瞳に男の顔が映り込む。今まで逸らし続けていた赤い瞳と自分の瞳が、遂に見つめあうような形となった。深紅の瞳はまるでブラックホールのように男を惹きつけて離さない。男がこの深紅と目を合わせまいとしてしまった無意識は、危機意識からだったのかもしれない。何故なら、男は理解してしまったからだ。この深紅を見つめてしまった今、自分はもう、引き返すことが出来ないのだと。
店主の顔が近付いて来る。鼻と鼻とがぶつかってしまいそうな距離。甘い吐息が鼻を擽る。この甘さは、ミルクと紅茶…きっと店主が先程まで口にしていた琥珀色の液体、その正体だろう。
少し高めの、安心感ある声が鼓膜を震わせる。

「僕と同じような人は作りたくないんだ。僕のように苦しむ人を、僕は見たくない。だから、ね。助けてあげる。君のこと。」

店主は優しく微笑んだ後、ゆっくりと離れた。そして君の分だよ、と言いながら全く口のつけられていないもう一つのカップを手で示す。琥珀色の液体がゆらりと揺れ、まだ白い湯気がほんのりと漂っている。
促されるまま、男はその白いカップをそっと手に持つ。

「暖かいミルクティーだよ。それを飲めば、楽になる。」

この中にある琥珀色の液体を飲み干せば、楽になれる。全てが終わる。カップを口へ寄せ、琥珀色の液体を口内へと運んでいく。ミルクや砂糖がたっぷりと含まれているからか、ひどく甘いのだが、それでも何故か飲みやすい。気付けばカップの中身は空になってしまっていた。
カップが空になったのを見て、店主は満足げに微笑んだ。
ミルクティーを飲んで、身体が温まったからだろうか。椅子の心地よさと相まって、自然と瞼が重くなっていく。

「嗚呼、眠くなっちゃったかな。大丈夫、ゆっくり休んで。」

言われるがまま、ゆっくりと瞼は閉じられる。意識がふわりふわりとまどろんで、身体がぷかぷか浮かぶような心地よさを感じていた。意識が手放される直前、店主が何かを言ったような気がしたが、その言葉を確認する為に目を開くということも出来ず、男は意識を手放した。

「毎度、ありがとうございます。」

男は数日後、遺体で発見された。見つかった場所はなんと、男が務めていた職場。まるで眠るように、穏やかな顔で職場のデスクに横たわっているのを出勤してきた同僚が発見したのだ。遺体のその異様さから、テレビで報道されるまで然程時間はかからなかった。男の胸の上にはボイスレコーダーが置かれており、そのボイスレコーダーには、生前の男の悲痛な思いが語られていた。
当然、上司は責任を追及されることとなり、仕事を解雇せざるを得ない状況へと追い込まれる。上司はそれから数日後、家族の前から姿を消して行方不明となった。その直前、ネットの掲示板でとある記事を夢中で読んでいたという証言が家族から得られたが、それから上司が何処へ行ってしまったのか、語るまでもないだろう。

「いらっしゃいませ。」

店主は優しく微笑み出迎える。自身の店を訪れる、多くの自殺志願者を。
さぁ。今日も死にたがりを導こう。




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