声を聞き、クィレル先生は表情をなくして鏡に向き合い鏡越しにその先を睨んだ。
聞き覚えのある声に、私はそちらに顔を向ける。
恐る恐る階段を降りてくるその姿に、私は微かに呼びかけた。
「…ハ、リー…?」
「アリスっ!」
私の姿を見てハリーは目を見開いた。何故私の姿がここにあるのかとその戸惑いがはっきりと見てわかる。
ハリーの意識が私に逸れたのを見て、クィレル先生はゆっくりとハリーに身体を向けた。
ハリーは私の方を気にしながら、我に返ったように言葉を続けた。
「ま、さかっ、そんなっ…スネイプの筈だ!だってっ、」
「…そう。彼はいかにも怪しげに見えるねぇ。」
ハリーの困惑した姿に、クィレル先生はニヤニヤと笑っていた。その姿に、胸が痛む。
役者が揃ってしまった。
あの人の敵であるハリーが来てしまったことで、クィレル先生はいよいよ戻れなくなってしまったのだ。それもこの最後の部屋で会ってしまった。
それが示すのは、本当の最後の時が来たのだということだろう。賢者の石を手に入れられるか、手に入れられないかだ。
クィレル先生の状況をわかっていないハリーにとっては、目の前に立ちはだかるのは敵でしかない。ただハリーにとって思いがけないことは、ずっとそう信じてきたセブルスではなかったことだ。
クィレル先生は先程の様子を見せることなく、ハリーを嘲笑うかのように猫撫で声を出していた。
「スネイプがいれば誰がこんな…"ク、クク、クィレルきょ、教授を怪しむかなっ…?"」
クィレル先生はいつもの"どもりのクィレル"をやってみせた。今まで生徒に見せていた顔がそこにあり、今まで見たことのない冷徹なクィレル先生がいる。
一体何が本当で信じるべき事なのかハリーは混乱しているに違いない。
今まで確信に近いものを持っていたハリーは、驚きに声を上げた。
「でも、スネイプはっ…クィディッチの試合で、僕を殺そうとしてっ…!」
「スネイプではない。私が殺そうとした!あのとき、スネイプのマントが燃えた拍子に、目を離さなければっ…うまくいっていたのに!
スネイプは、反対呪文で邪魔していたのだ!」
「ッ、スネイプが僕を助けようとしたっ…!?」
ハリーは信じられない事実に目を丸くしている。そのハリーの心情も手に取るようにわかった。
セブルスはハリーに嫌らしいほどの姿しか見せていなかったのだ。冷遇され、嫌悪されている様子の相手をよく思うはずがない。
そのハリーの様子が愉快で堪らなかったのか、クィレル先生はニヤニヤ顔をこちらに向けた。
ハリーにも聞こえるような大きい声で、私に話しかける。
「皮肉なものだな、アリス。お前のことだ、犯人はスネイプではないと何度も言ったのであろう。
だが、愚かなポッターたちは信じようとはしなかった…それが真実だと気付かずにな。」
「ッ、!」
「その意味がわかるか?アリス、お前は信用されていないのだ。
そいつ等に味方していても何もないと、」
「ッ僕たちはアリスを信じてる!」
「…。」
クィレル先生の言葉を遮り、ハリーが叫んだ。
思わず目を丸くした私からクィレル先生はハリーに視線を移した。
その冷たい瞳と同じような声が、ハリーを責める。
「ならばなぜアリスの言葉を信じようとしなかった。
お前はアリスをお優しい母とでも思っているのか?全てを許してくれるとでも?」
「!」
こちらからクィレル先生の顔は見えなかったが、ハリーが息を呑んだのがわかった。
彼のその冷たい言葉は向けられていない私でも身震いしそうなほどだった。しかしなぜクィレル先生はハリーに対して私を擁護するようなそんな言葉をかけるのだろう。ハリー達がセブルスを怪しみ注意が自分から逸れていた方がよかったろうに。
目的のわからないその言葉に、私は困惑していることしかできなかった。
クィレル先生は言葉を失ったようなハリーを鼻で嗤った。
「ポッター。お前は私にとって目障りだったのだよ、特にハロウィーン以降。」
「じゃあ、トロールを入れたのもっ…!」
「そう、私だ。」
ハロウィーンという言葉にハリーははっとした。あの夜、不思議とホグワーツ城に入り込んだトロール。誰かが手引きしたのではと思い、てっきりセブルスだと疑っていた。
現にセブルスは足を怪我していた。私はそのときのことをほとんど思い出せないが、ハリー達が確信を持ったのを知っている。
クィレル先生はその言葉に冷静な声で返し、ハリー達の確信が間違っていたものであったと撥ねのけた。
目を瞑り、苦虫を噛み潰したかのように語り出す。
「だがスネイプは、騙されなかったがな。皆地下室へ急いだのにあいつだけは3階へ向かった!
…あいつは常に、私を疑っている。」
クィレル先生は静かにそう言うとハリーから目を離して身体を鏡に向ける。
そこでハリーがみぞの鏡の存在に気づき目を見張った。
その様子も気にとめていないクィレル先生は言葉を続ける。
「独りきりにはしなかった。だがあいつは知らん。
私は独りではない…決して!」
その言葉に、私は小さく反応した。そう。クィレル先生はひとりになったとしても決してそうではないのだ、あの人がいる限り。
クィレル先生は夢中になったように鏡を見つめていた。
私は大きく脈打ち始めた心臓に緊張しながら少しずつクィレル先生から離れてハリーの元へ行こうとした。
「さぁ、鏡には何が映る?」
そう呟いたクィレル先生は私達のことを気にもしていない様子だった。
私とハリーは半ば呆然としたようにその姿を見ていた。けれど自然と粟立つ肌に、身の危険すら感じる。
独り言を言うクィレル先生の姿に自然と辛く胸が締め付けられた。
「あぁ見えるぞ…賢者の石を持つ私…、どうやって手に入れる!」
「その子を使え…。」
おぞましいほどの低い声が告げた。
その声を聞き、焦って苛立たしげなクィレル先生が落ち着いたのがわかった。
あの人だ。私は、荒い息を吐き出した。声を聞いた瞬間に、ビクリと身体が反応し身体が熱くなる。焦がれているのが自分で痛いほどわかった。
「ここへ来いポッター!早く!」
「ッハリー…!」
クィレル先生が声の言う通りにハリーを指差し声を荒げた。
抵抗するのは危険だと感じたハリーはたどたどしい足取りで鏡へと足を歩ませる。
あの人の存在、そしてハリーが気になり私は焦る心を落ち着けられないでいた。
どうしよう、どうしたらいい。自分のすべきことがわからず、顔を歪める。
鏡に向き合ったハリーに、クィレル先生は静かに言い聞かせた。
「答えろ…何が見える。」
ハリーは何も言わなかった。否、言葉を失った様子だった。
はっと息を呑んだ様な姿に次いで、瞬きが増える。何かが起きたのだとわかるには十分だった。
ハリーが何も言わないことに、クィレル先生は待ちきれないように声を荒げた。
「どうした、何が見える!?」
「…ぼっ、僕がダンブルドアと握手してるっ!…グリフィンドールが優勝してっ、」
「嘘だ!」
「ッ!?」
ハリーの言葉に、ここの誰のものでもない声が叫んだ。
ハリーは目を見張り、クィレル先生を凝視する。クィレル先生から聞こえてくる声だということに気付いたのだ。
クィレル先生は憤慨して怒鳴った。
「本当のことを言え!何が見えるんだ!」
ハリーは言葉が出ないようだった。恐怖に身体を喰われてしまったのだ。動けず、言葉も出ない。
その様子に、私はハリーが何らかの方法で賢者の石を手に入れたのだと感じた。
跳ね上がる心臓に私は息の仕方を忘れてしまったかのように喘いだ。なんとか、しなければ。
そう思うのと同時に、冷たい声が響き渡った。
「俺様が直に話そう。」
「っ、」
「あなたはまだ弱ってらっしゃる…。」
「そのくらいの力ならある…!」
クィレル先生の顔に恐怖が過ぎったのを見逃さなかった。その声はハリーに向けるものとは打って変わって弱々しい。
クィレル先生は声の言うことに覚悟を決めたかと思うと、自身のターバンに手をかけ外し始めた。
私もハリーも動けなかった。指一本すら動かすことができない。ただ夢中で打開策を考えていた。
ハリーも、クィレル先生も、彼も、失わない道はあるのだろうか。ここまで来てしまったことに情けない心情になるが、それでも私は考えなければいけないのだ。
クィレル先生のターバンが全て解かれると、ハリーが絶句した。声こそ出なかったが、その顔は恐怖で引きつっていた。
クィレル先生の鏡越しに映っている後頭部には、あの日と同じようにあの人がいた。血の気のない蝋のような白い顔、そこに妖しく浮かびあがるような紅い瞳、蛇のように裂けた鼻孔。顔と言うにはあまりにもおぞましかった。
鏡に映ったあの人はハリーに不適な笑みを向けた。
「ハリー・ポッター…また会ったな。」
「ヴォルデモート…!」
ハリーは信じられないような顔をしてその名前を呼んだ。
私は胸が熱くなり息をするのすら苦しくなった。喉が焼けてしまっているみたいだ。苦しくて苦しくて、ひくっとしゃくり上げて喘ぐように息をすれば涙が溢れてきた。
とめどなく溢れて堪らないそれに、手で顔を覆う。特別なあの声が私の名前を囁いたように思えた。甘くも思えるその囁きが、さらに私の目を霞ませる。
言葉にできない心情に、私はひたすら堪えるように身を震わせた。
「…ハリー、見ろこの姿を。こうして、人の身体を借りねば、生きられぬ…寄生虫のような様を!
一角獣の血で辛うじて生きてはいるが、身体は留められなかったっ…!」
ハリーに語りかけるその声はまさしくあの人の声だった。
胸が締め付けられる思いに、困惑した気持ちが大きくなっていく。
私に一体、何ができるというのだろう。
そんな私の思いは誰にも知られることはなく、あの人は言葉を続ける。
「だがある物さえ手に入れれば…自分の身体を取り戻せる!
そのポケットにある石だっ…。」
「ッ、アリス、立って…!」
よろめいた足音がこちらに向かったかと思うと、手首を掴まれ引っ張り立たされた。
ハリーが、私の手を引いて駆け出す。私は涙で濡れた顔をそのままに、なんとかハリーの力に従い足を動かしていた。
ふと後ろを振り返ると、あの人が鏡越しにハリーを睨んでいるのが見えた。
「捕まえろ!」
あの人が叫ぶと、クィレル先生は指を鳴らした。するとハリーが向かおうとしていた扉への道を遮るように周りを炎で囲まれる。身の丈ほどに燃え上がっている炎を超えられるはずもなく、私達は足をその場に止めてしまった。
ハリーは何とか抜けられる道がないか辺りを見回す。私の足には力が入らず、そのままカクリと膝から折れてしまった。その間も、涙は頬を伝って流れ落ちる。
ハリーが私を見て焦ったように声をかけた。
「ッアリス、怖がらないで!僕が守るから!」
その言葉に、ハリーが私の涙の意味をあの人を怖がっているからだと思っているのだと感じた。
確かに魔法族にとってあの人の存在は恐怖の対象で恐れられている。それを知らないにしても、今の状況で私にそう声をかけてくれるハリーはなんて勇敢なんだろう。私はハリーに薄く笑いかけた。
ハリーが諦めず何か逃げられる道はないかと探していると、低い声が聞こえてきた。
「ハリー、馬鹿な真似はよせ。
死の苦しみを味わうことはない…俺様と手を組んで生きればよいのだ。」
「イヤだ!」
「勇敢だな。親によく似ておる。」
叫んだハリーにあの人は高笑いをした。その冷たい声に思わず耳を塞ぎたくなる。
彼の手にかかったジェームズとリリー。その姿を見たわけではないが、二人なら愛しい息子を守るために勇敢に立ち向かったのだろう。
締め付けられるような苦しさに、私は荒く息を吐いた。
「どうだ、ハリー…父と母にもう一度会いたくはないか?
2人でなら、呼び戻せる。その代わりに、ある物をよこせ。」
あの人がそう言うと、ハリーは辛い瞳でそちらを見つめていた。その視線を追うと、みぞの鏡を見ているのがわかった。
ハリーの望みは、家族に囲まれる自分。失った両親と笑い合う姿。もし二人がその命を絶たれていなかったら、明るく温かい家庭がそこにあっただろう。
私は声が出なかった。ハリーがおもむろにポケットに手を入れ、取り出すとその手には血のように赤い石が握られていた。賢者の石だ。その石の断面は炎の光に反射してかキラキラと輝いている。
「そう、それだよハリー…。
この世に善と悪などないのだ。力を求める強き者と、求めぬ弱き者がいるだけだ。」
輝く石を手にしているハリーに、甘い甘い声がかけられた。
ハリーは切ない顔で石を見つめる。
あの人はそんなハリーに、力強く告げる。
「俺様とお前なら、全て思いのままに出来る!
さぁその石をよこせ!」
「ッやるもんか!」
ハリーが力の限り叫んだ。
石を離してしまわないように握り、私を立たせようとする。
ハリーの手が私に触れたのと同時に、彼の紅い瞳がギラリと光ったように思えた。
「殺せ!」
鳥肌の立つような冷たい声が聞こえたかと思うと、ハリーは飛びかかってきたクィレル先生に組み敷かれた。
ハリーの首をクィレル先生が力の限りに絞めている。ハリーが苦しげに藻掻いていた。
私は夢中でクィレル先生のローブを掴んだ。やめて、と叫ぶと奇妙なことにクィレル先生は自分からハリーを離した。
げほげほと咳き込むハリーと私はクィレル先生の様子に訝しげに眉を寄せる。
クィレル先生は自分の手を見て、怯えていた。
「ぁ、あ、あ…ぅわああぁぁぁあ、ああぁぁあ!
何だ、この魔法はっ…!?」
悲鳴を上げたクィレル先生の手は信じられないことに砂になり、その粒子は流れ、やがて崩れてしまった。
私とハリーはその光景に目を疑った。
するとその間を置かずに冷たい声が怒鳴った。
「馬鹿者!早く石を奪え!」
賢者の石は先程ハリーが組み敷かれたときにその手から離れ床に転がっていた。
その賢者の石に、クィレル先生が命令通り石を取ろうと手を伸ばしたのが見えた。
そんなクィレル先生に、ハリーが顔めがけて掴みかかる。
「あ゙あ゙あ゙ぁぁぁああぁぁあ!」
ハリーとクィレル先生、どちらのものともわからない絶叫が耳を突いた。
クィレル先生はハリーに顔を掴まれ、離れようと藻掻いていた。ハリーはとてつもない痛みに顔を歪ませて必死に抵抗していた。
私は思わず唇を震わせた。待って、待って、やめて!
思わず耳を塞ぎたくなるが重い身体をなんとか動かして掴みかかっているハリーを抱きしめた。
その瞬間、ハリーの痛みに共鳴するかのように左手の印が燃えるような熱をもった。皮膚がただれ焼け付き、まるで骨まで熱されているかのような痛みだ。何か熱く硬いものが手の甲をぐりぐりと押しつけている。
私は痛みに身体を震わせながら堪えた。喘ぐように、やめてと繰り返した。
ハリーがやっと手を離した感覚があり、手の甲の熱も引いていったように感じた。
ハリーは呻いており、息が荒かった。汗もすごくかいていた。
「ッハ、リー…ご、め…ごめん、ね…ごめんね…ッ。」
私はハリーを抱きしめながら、魘されるように謝った。何に謝っているのかと聞かれたら明確には答えられないが、ハリーの姿が堪らないほどに辛かった。
ふと顔を上げてクィレル先生を見上げると、私は自分が悲鳴をあげたかと思った。
よろよろと定まらない足元で、顔を上げたクィレル先生の顔面は、あの手のように砂になっていた。それは瞬く間に首元に広がり、腕に広がり、身体全体に広がっていった。
そんな姿になっても、クィレル先生は石を取ろうと手を伸ばしたのだろう。こちらに崩れるように被さってきた。
砂を被る直前、クィレル先生の頭が目の前にあったとき、微かな声が聞こえた。
「……すまなかった…。」
確かにそう聞こえた気がした。私は驚いて目を見開くが、その瞬間クィレル先生の身体は形をなくした。
サァッと溶けるように広がった砂に、私は大きく顔を歪ませた。ポタポタと落ちる涙が私の身体に覆い被さるクィレル先生のローブを濡らしていった。しかし、その彼はどこにもいないのだ。
目の前で起きたことに、心が捩れて悲鳴を上げていた。どうにもできなかった自分の事実が、目の前にある。
転がった賢者の石をハリーが手に取り、私の名前を囁いた。涙で頬を濡らしたままハリーを見れば、その顔は奇妙なことに恐怖に戦いていた。
その瞬間、身体を突き抜けるような苦しさを感じた。辛うじて見えたのは私とハリーの身体を突き抜ける影と霞。
「っ…卿…、」
ハリーは堪らず絶叫していた。そのまま崩れるように倒れ込む。
扉を通り抜ける霞に、私は顔を歪ませた。また、遠いところへ、行ってしまう。
そのまま、私は引っ張られるように意識を手放した。
賢者の哀悼
(守りたいと、思っていたのに)
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