バシッという音がぼんやりとした頭に反響した。
おもむろに目を開ければ、視界はすでに明るく輝いていて、朝が訪れたのだということがわかる。
上体を起こし一息吐けば、微かに開いた部屋の扉からナギニが入ってきた。
『アリス、おはよう。』
『ん…おはよう、ナギニ。』
『荷物が届いたようだよ。』
そう言ったナギニに、私は部屋に視線を走らせた。
すると机の上に包装紙にくるまれた何かが置いてあった。おそらく制服だろう。
ということは、先ほど聞こえた音は姿くらましの音だったということか。
そう思いながらふと時計に目をやり、その時間を読んだ。
もう十時近い。かなりの間寝てしまっていたのだと気づき、私は慌ててベッドから下りた。
長く伸びた横髪を掬い上げ、後ろでひとつにまとめる。
鏡でクセになっているところがないか確認し、机の上の包みに手をかけた。
紐を解くと、中にはホグワーツの制服がたたんであった。
まだ寮も決まっていないのでローブもネクタイも黒く、これから入学するのだと改めて感じさせた。
制服を広げ、私は今着ているものを脱ぎ、袖を通した。
やはり新しいためか少し布が慣れていない。けれど、サイズはぴったりだった。
制服を着た私は、枕元に置いてある黒の手袋を左手につけた。
左手の甲にある印は手袋の中に姿を消し、見えなくなる。
もう一度私は鏡の前に立ち、自分の姿を見つめた。
おかしいところはないはず。
しかし一年生にうまく紛れることができるのか、私は緊張に心臓を跳ねさせた。
そんな私の姿をじっと見ていたナギニは、クスクスと笑いをこぼした。
私はナギニに不安げな視線を向ける。
『おかしくないですか…?』
呟くようにそう言えば、ナギニはしっかりと頷いた。
ローブを纏い、そこに杖をしまう。
ドクンドクンと脈が強くなり、私は息を大きく吐いた。
緊張が強くなり、なんとか落ち着かなければと深呼吸を繰り返した。
もう一度時計を仰ぎ見れば、三十分だ。
そろそろ出発しなければ。
急かすような心音に、私はひたすらそう考える。
微かに、胸の奥が切なく締め付けられた。
心細さが、一気に胸を突く。
「…っ、」
行きたくない。夢中でそう思っている自分がいた。
なぜそう思っているのか、自分でもわからない。
ただ押し潰されてしまいそうな不安に、ひとりは嫌だと繰り返していた。
『ナ、ギ…ナギ、ニ…っ。』
震える口が、喘ぎながら言葉を紡いだ。
窒息してしまいそうに息が詰まる。苦しい。
自然と身体が震え、立っていられずにその場にペタンと座り込んでしまった。
名前を呼ばれたナギニは、ちゃんとこちらに這い寄ってきてくれた。
あの黄金に輝く瞳がじっと見つめてくる。
私の口は無意識のうちに言葉を出していて、その言葉に自分でも目を見開いた。
『…いっ、しょに…来て…っ。』
『…いいのかい?
私は主人側だ。主人のことを裏切らないよ?』
ナギニは私の言葉に慎重に繰り返し聞いた。
その言葉に、私は迷いなくコクコクと首を縦に振った。
縋るようにナギニに手をのばし、その身体を抱き締める。
ナギニはそれを払うこともせず、落ち着くまでそっとしてくれた。
ひとりではない。そう考えれば、だいぶ息の通りも楽になる。
落ち着き始めた私に、ナギニは小さく息を吐いた。
『本当に、仕方のない子だね。』
『ごめ、っなさい…。』
『いいさ、気にしなくていい。
でも、ずっと傍にはいられないよ。』
『…っ、ん。ありがとう、ナギニ…。』
何よりも頷いてくれたことが嬉しかった。
けれど、迷惑をかけてばかりだ。私は視線を下げ、その情けなさに唇を噛んだ。
ナギニは苦笑し、私の頬に顔をすり寄せる。
ひんやりしたナギニの肌に、私はぎゅっと瞳を閉じた。
『ほら、アリス。
そろそろ行かないと遅れてしまうよ。』
『ぅん…。
姿現わしでもいいですか?』
『あぁ。』
ナギニはしっかりと頷き、私はナギニの身体をしっかりと抱いて姿くらましを使った。
一瞬のうちに身体が内側に引っ張り込まれ、バシッという弾ける音が響く。
邸には誰もいなくなり、キングズ・クロス駅にその姿が移った。
キングズ・クロス駅の9と3/4番線のプラットホームはざわついていて、姿現わしの音に気づく人は誰一人としていなかった。
幸い、姿現わしを見られてもなさそうだ。
私はほっと息を吐き、周りを見回した。
周りには別れを惜しむ家族が数えられないほどいた。
元気でね、手紙書いてね、しっかり勉強するんだよ。
そんな言葉があちこちから聞こえてくる。
ホグワーツの生徒と思われる人は、皆大きなカートを押していて、そこには籠に入ったふくろうがちょこんと乗っていた。
ホーホーとふくろうの声が聞こえ、ナギニが小さく反応していた。
ナギニに視線を移してみれば、きゅっと細くなった瞳孔の瞳を周りに向けている。
私はその様子にくすと笑ってしまった。
ちょうどその時、出発が近くなったことを告げる笛が鳴った。
私はナギニが誰かに踏まれてしまわないよう、身体に登るようにして歩き出す。
周りを見ても、蛇をつれている生徒はひとりもいなかった。おそらく、規則として動物はふくろうと猫とヒキガエルしか許可が出ていないからだろう。
私の姿を見たほとんどの生徒達はひっと息を呑んでいた。
私は汽車に足を歩ませながら、ふと目が合った生徒には曖昧な微笑みを向けていた。
ホグワーツ特急の中は生徒であふれかえっていた。
「席探すの、大変そう…。」
ぽつと呟けば、人混みにうんざりしたようにナギニが顔を首に埋めてきた。
すると汽車の扉が閉められ、出発を告げる汽笛が鳴った。
ガコンと一度大きく揺れ、汽車はホグワーツ城を目指して進みだした。
手を振る家族達が通りすぎていくのを横目に、私は空いたコンパートメントを探して歩き出した。
乗ったのはホグワーツ特急のちょうど真ん中のところだ。
けれど見通せる限りのコンパートメント内はいっぱいで、どこも空いていなかった。
後ろの車両に向かって歩きながら、後ろの方が空きがあるのに気づいた。
私はもう制服に着替えているし、カートに乗せて押すような荷物もない。
一人分のスペースさえあれば十分だが、私にはナギニがいる。それにすれ違うほとんどの生徒がナギニを見ると腰を抜かしそうな勢いで壁にはりつくのだ。
蛇にある程度免疫のある人がいいかな。そんなことをぼんやりと考えていた。
けれどそんな人はほとんどいないだろう。普通の大きさの蛇は平気な人がいても、ナギニは比べものにならない。
ふうと小さく息を吐いて、最後の車両に入った。
ナギニはまだ顔を埋めていて、たまに首筋にあたるナギニの舌がくすぐったい。
早くナギニを楽にしてあげないと。
そう思ってふとのぞきこんだコンパートメントには、男の子一人しか座っていなかった。
男の子は外の景色を見ていて、人を待っている様子もなさそうだ。
私はコンパートメントの戸を軽くノックして開いた。
「あの…ここって、あい…、っ!」
「?」
男の子がこちらを向き、その瞳と目が合った。
銀の縁の、丸い眼鏡。
その奥にあるのは、アーモンド型の明るい緑色。
男の子の髪は黒くくしゃくしゃしていて、誰かの姿を思わせた。
その姿を見て私は息を呑み、目を見開く。
不思議そうなキラキラ輝く瞳がじっと私を見つめていた。
「…ハ、リー……?」
賢者の困惑
(知っていても、実際に目にすると普通じゃいられなくなる)
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