「…ん。」



名前を呼ばれているかのように感じて、私は身を捩らせた。

落ち着く、低い静かな声。

囁くその響きは、ベルベットのようになめらかだ。

もう一度静かに名前を呼ばれ、私はゆっくりと瞳を開けた。

ぼんやりと歪んだ視界に、私は軽く眉根を寄せる。

黒い影が、覗くようにこちらを見ていた。

ふと、足が地面についていないことに気づき、柔らかな振動にぎゅっと身体を縮めた。



「…アリス。」

「っ、」



咎めるかのような声色に、びくっと身を竦める。

歪んだ視界も、しっかりとした輪郭を認識できるようになる。

黒い影のようなものを見て、私は思わず嗚咽をもらした。



「っ、きょ…きょ、う?」



紅い瞳がじっとこちらを見ている。

その瞳は以前より深く、熱望しているかのような色を帯びていた。

ゆら、と揺らめく瞳に、私は夢見心地で手をのばす。

彼の整った顔に指先が触れ、ひんやりとした彼の体温を感じた。

思わず笑みがこぼれ、目を細める。

彼だ。ヴォルデモート卿だ。

私は夢を見ているのだろうか。

ほんの少し前は、自分の部屋にいたのに。

どちらが現実で、どちらが夢なのだろう。

あの紅い瞳に映る自分は複雑そうに微笑んでいた。

その顔つきが幼くなく、しばらく見ていなかった自分の姿だということに自然と気づいていた。

もとの身体に戻っている。

それを理解すると、その身体がどのような状況なのかに意識がまわった。

浮いている感覚、そして何かに抱かれている感覚に唇が震える。

彼と密接しているような状況から、私を抱き上げているのが彼だということがわかった。

突然恥ずかしくて仕方がなくなり、私は顔を俯かせた。

するとゆっくりと身体が下がり、ふわりとした場所に降ろされる。

それが自分のベッドであることは無意識のうちに理解していた。



「卿…。」



私は呟くように彼を呼ぶ。その声は掠れて、うまく音にならなかった。

けれど彼はそんな私の呼びかけに反応し、流れるように私の手を取り、ベッドに身体を沈めさせる。

私ははっとしたように目を見開き顔を熱くさせた。

じっと見つめてくる彼の視線に、身体の自由が利かなくなる。



「アリス…今まで俺様のもとを離れ、どこへ行っていた。」

「ぁ、…。」



切ないほどの彼の視線に、私は何も言うことができなくなった。

一体どうしたのだろう。

熱っぽい瞳に掬われるように私の心臓はきゅっと苦しくなる。

これが夢でなく本当に彼のもとへ帰れたのだとしても、離れていたのはほんの数時間。

もしかしたら眠っている時間と大差ないはず。

それなのになぜ、彼はこんなにも切ない視線を向けてくるのだろう。

ふと顔を寄せられ、頬に彼の唇が触れる。

微かな感覚に身を震わせながら、私は彼の言葉に対する引っ掛かりを覚えていた。

すると彼は私の存在を確かめるかのように首筋に唇を落とす。

冷たい唇があたったのを感じ、私は身体をびくりと跳ねさせた。

彼はゆっくりと身体を起こし、下にいる私を熱い瞳で見下ろす。



「8年だ。8年もの間、俺様はお前を探していた。」

「…え?」



"八年"

その言葉に、私は戸惑うことしかできなかった。

私が彼と離れて八年?それはおそらく、もとの世界に戻っていた時のことであっているだろう。

あの数時間が――もしかしたら一時間にも達していない時間が――八年?

私は困惑に唇を震わせた。

その時、はっと頭に浮かんできた。その八年が経った今は、何年であるのか。

深みを増した彼の瞳を見つめ、私はか細い声を紡いだ。



「きょ、卿…いま、は…何年、ですかっ?」

「1981年…10月、31日だ。」



卿は静かな声で年、そして日付を言った。

普通なら、年と日付を聞いただけでは誰も青ざめないだろう。

けれど私は身体中の血がサッと引いていくのを感じていた。

一九八一年十月三十一日。

彼の言った日にち、そしてあの日にちが頭の中でぐるぐると巡っていた。

まさか、そんなはずがない。

彼がハリーを殺しにゴドリックの谷に行く日だなんて。

私は震える身体を止めることもせず、言葉を失っていた。

それでも頭のどこかで行かないことを願っていた。

予言がされなかった、彼が気にもとめていなかった、秘密の守人(ピーター)が秘密を守った…。

理由は何でもいい。ただ、彼が破滅への道を歩まないというのならば。



「こん、や…ハリーのところに、行くんですか…?」



彼がノーと言ってくれることを期待していた。

彼は驚いたように目を見開き、私を見つめた。

その瞳はなんの感情も感じさせない。いや、もっと言えばもう心は決まっていると言っているようなものだった。

彼は紅く輝く瞳を細め、私の頬に手をすべらす。



「あぁ。」

「っ、だめ…!」



彼の静かな頷きに、私は堪らず声を荒げていた。

彼があの家に行こうとしているということは、何も変わらなかったということだ。

胸が苦しくなり、私はひくっとしゃくりあげた。

無意識に震える唇が、言葉を紡ごうと小さく開く。

これが、最後の機会(チャンス)だ。

それをひしひしと感じながら、身体にかかる彼のローブを縋るように掴んでいた。



「やっ、ぁ…行かないで、ください…っ。
ここにいて…っ、行か、ないで…!」



我慢ならないくらい胸が熱く焦がれた。

私の口からこぼれる言葉は、私の本心だ。

彼にゴドリックの谷へは行かないでほしい。

破滅の道を歩まないでほしい。

ここにいて。私に傍を離れるなと言うのなら、あなたも私の傍を離れないで。

乞い願うかのように、私は行かないでと繰り返していた。

嗚咽がこぼれ、何度もしゃくりあげ、いつの間にか流れ始めていた涙で言葉もうまく発せれない。

けれどそれでも、私は声が出なくなるまで繰り返した。

それはまるで子供のわがまま。恋に溺れた私の利己主義(エゴイズム)

彼の前だというのに私は泣きじゃくった。

そんな私を、彼はどういう瞳で見ているのだろう。

しかし彼の姿をこの瞳に映しても、あふれだす涙のせいでぼんやりとして見えない。

ふと彼の冷たい指先が私の首後ろにまわった。

持ち上げるかのような優しい力が入ったかと思うと、目の前が暗くなり熱い息が唇を掠めた。



「んっ、ふ…。」



口を何かに塞がれた。柔らかな感覚に、私は目を見開く。

冷たく、けれど熱く疼く何か。

微かな息づかいに、それが彼のものであることに気づいた。

彼の、唇。ぼうっと夢心地な頭はそれを認識し、そこから与えられるものに身を任せていた。

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