2005年 6月A



 低い山をいくつか超えて、たどり着いたのはなだらかな斜面に等間隔にして石が建っている場所だった。見渡せる限りは全て墓石で、墓石はベージュ、黒、薄いピンクなどバリエーションがあり、空がひらけている場所ではあったけれど、鬱屈とした暗い雰囲気があたりを包んでいた。そう、今回の任務先は墓地だった。
 定期的に溜まる呪いを祓う。難易度は高くない。ただし、呪いが溜まる速度が異様に早い場所だ。未熟な呪術師が練習としてこの場所を初めての任務地に指定されることがままある。簡単な任務だ。きっと呪霊の数が多くなければ補助監督でも事足りるかもしれない。その程度なのだが、補助監督だけでは到底太刀打ちできない数の呪霊が湧き溜まるため呪術師にお鉢が回る。
 
 車から呪術師たちが降りたことを確認した補助監督が帳を下ろし、励ましているのか、軽蔑の表情の誤魔化し方がぎこちないのか、口角だけを上げたなんとも言えない笑顔で夏油と逢坂を送り出した。
 
 :
 
 大丈夫。任務慣れしていない呪術師のための任務だ。何も難しくない。蠅頭はこれまで数多く祓ってきた。夏油くんもいる。大丈夫。
 そう逢坂は言い聞かせる。
 心臓が激しく存在を主張する。それを少しでもなんとかしようと胸に手を当てて、深呼吸を繰り返した。吸って、吐いて、また吸って、また吐いて。繰り返せども心臓のけたたましい鼓動は変わらなかった。でもきっと大丈夫。
 まだ言い聞かせる。
 あのギョロリとした目の玉が、逢坂の頭ほどの大きさがある濁った瞳がまたこちらを射抜くんだろう、とか気味の悪い肌色がおぞましさを倍増させるんだろう、とか、やっぱり呪術師には向いていないから辞めてしまいたい、とか。
 けれど、呪術師をやめたところで記憶がない逢坂を保護してくれるところなんてない。衣食住に過不足がなく、同年代だっているし、仕事を与えてもらっているから肩身の狭い思いなんかはしなくてもいいのだし。うん、まだ大丈夫。
 まだできる。また我慢できる。まだ耐えられる。
 言い聞かせ続ける。この身可愛さにゆえに。
 胸に同居した不快感なんて休みの日には軽くなるし、優しい同級生は逢坂の不慣れさを慰めてくれる。何の不満はないはずなのに。呪術師という仕事に疑問を抱いてしまっている自分自身がいることに気がつく。
 
 怖い、のだと思う。
 目覚めたら右も左もわからない状態の逢坂を保護してくれたことは感謝しなくてはいけない。それはいくら記憶を失っているからと言っても分かっている。自分自身に関する以外の記憶は失っていなかったから、一般常識に関することはしっかりと覚えていたし。
 でも、目覚めて、あなたは他人とは違う能力があります。それも極めて珍しい。力の使い方を覚えなさい。そう示された。
 うん。なるほど。ありがたい限りだ。言葉を四角四面で受け取る。
 じゃあ、その力を使うためには実践方式が一番いいから、少しばかり大変かもしれないが任務をしなさい。
 不安がむくりと生まれるけれど、それは気付かないふりをして、ままその通りだと納得する。
 凄惨で精神が辟易するような物事に直面するけれど、それが呪術師だから。仕方がないことだと割り切りなさい。
 ここらで一旦頭をもたげる。
 いったいなぜ? いたいけな青少年が命を賭してまで行わなくてはならないの。恐怖に鞭打ってまで、任務に赴かないといけないの。
 そんなことをいちいち考えていたら、親もおらず、自分が誰だかわからない逢坂に死ねと言っているようなものではないのか。
 記憶のない自分自身が悪いと、卑屈になれと言わんばかり。自分の不運を呪えと言わんばかりだ。
 
 :
 
 なんとかして乗り切った。夏油が細やかにフォローを入れてくれたことと、きちんと指示を出してくれたから、逢坂はなんとか泣き喚かずに任務を完了した。
 今回も大丈夫だった。だから次回もきっと大丈夫。そう思えればよかったのに、寝不足でろくな思考もできない脳みそは肯定してくれなかった。
 心にのしかかるのは灰色の冷たい鉛。細く息を吐くたびにそれが冷えていく気がした。
 
「呪霊にはまだ慣れない?」
 
「はい」
 
「人々の心に平穏をもたらすことが呪霊の発生を抑制する、と習ったよね? 非呪術師は弱い。私たちは呪術師なんだ。弱きを助け強気を挫く。呪術師は、呪術は、非呪術師を守るためにある」
 
 墓地の隅々まで歩き呪霊を一体と残らず祓った重い足取りで補助監督がいる駐車場へと歩いて向かう。
 夏油はこのところずっと暗い顔をしている逢坂を励ますために声をかけたが、いまいち効果はなかったようだ。
 逢坂の表情は変わらず、俯いていた。
 
「仕事だと割り切れるほど簡単じゃないことはわかってる。まして逢坂は呪霊をみるのも祓うのも初めてなわけだし。……慣れれば大丈夫なんだけど、慣れるまでがキツいからね。でも、正直戦いっぷりは悪くないと思ったよ。状況判断も的確だと思うし」
 
 いまだに上の空、と言った様子の返事を返す逢坂に夏油は続きを言うか迷い、言葉を切ったが再び口を開けた。
 
「回数をこなすだけだと思うよ。本当に慣れだと思うんだ。でも後方支援型の戦い方が向いているかもしれないね」
 
 夏油の言うことはわかる。弱気を助け強気を挫くと言う志も立派なものだ。けれど、呪術界に対しては生まれたての赤ちゃんのような逢坂にとれば、正義感が強すぎて気後れしてしまう。眩しすぎる。
 
「自信がない、です」
 
 呪術師として、と蚊の鳴くような小さな声で地面に吐き出したのは逢坂の心の底からの言葉だった。
 てっきり返事は返ってこないものだと思っていたので、すこしばかり夏油の口角が上がる。
 
「今でこそ強者は弱者を守るために、とか言ってるけど、私も初めは怖いものを遠ざけたいという自衛からだったよ」
 
「自衛ですか?」
 
「うん。まあそれもすぐにカッコをつけるために変わったけどね」
 
「え?」
 
 夏油の思い出せる一番古く、淡い思い出。年長か小学校に入りたて、いや、ひょっとするともう少し前かもしれない。何度も何度も記憶を反芻するが、確かな記憶だと確信を持って言えるものなどひょっとするとないのかも。
 けれど、幼い夏油に庇護欲というものを、自分より弱いものを護らなくては、という思いを起こさせる出来事は確かにあった。
 家の近くに越してきた小さな隣人。夏油はその頃から平均よりも身長が大きめであったから、同年代の子どもたちと比べられては年上に間違われていた。
 同年代よりも小柄だった隣人は奇しくも夏油と同じく呪霊がみえた。
 
 道端にいる蠅頭にも怯えて、それから目を逸らせずに、その場から動けずにいるところを夏油が助けに行った。術式で呪霊玉に変えたそれをごくんと飲み込み、大丈夫だよと笑顔を見せればその子は夏油から離れなくなった。
 蠅頭なんて弱い呪霊は掃いて捨てるほどいる。そのうち夏油は自分が調伏した呪霊で蠅頭を祓うようになった。その頃には、夏油の後ろをぴたりとくっついて歩いていた隣人も手を繋いで隣を歩くようになったし、夏油と同じように術式を持っていたから、自分自身でも呪霊に対処できるようになっていた。
 呪霊にビクビク怯えなくてもいい日々がしばらく続くと、隣人の日焼けしていない不健康そうな青白い肌に赤みがさす。
 笑顔も増えて、夏油の家と隣人を行き来し合い、時には公園でいつまでもブランコを漕いだ。
 
 出会った当初に比べて随分と呪霊になれたように見えたが、少し形が歪であったり、不気味さに拍車がかかっているものがいれば夏油と繋いでいる手にぎゅっと力が入ったし、不安そうに揺れる瞳で夏油を見つめた。
 その度に夏油は「ああ、護らなくては」と強く思うようになった。
 最初は自衛のためだった。でも、そのあとすぐに隣人のお陰で守るための力を身につけたいと思った。
 
 最後の隣人との記憶は玄関の前で、今にも溢れ出しように涙でいっぱいの瞳が何度も何度も瞬きをして、引越しを告げられたことだ。
 どうやら母親が歳のわりに体が小さく、神経衰弱に陥っている我が子にとってどこが一番住みやすいのだろうかと、頻繁に住居を取っ替え引っ替えしているらしいというのは実の母親から聞いた。
 神経衰弱に陥っているのは呪霊が見えるせいだけど、隣人の母親はそれはわからないようだった。
 ただ、引越し先では、恐怖に押しつぶされて、足が地面に縫い付けられたように動けなくなる事態に出くわさないように、もしそういう状況になってしまったら対処できるように呪霊を渡して置くと言ったけど「怖いから要らない」と断られたことも思い出した。
 
「すぐるくんと出会えてよかった。またね」
 
 と、笑顔で言おうと口角を無理やり上げたけれど、とうとう大きな両目からポロポロと涙がこぼれ出してしまって、小さな手で目を擦った。
 静々と泣く彼に釣られて夏油もぐっと、熱いものが胸に込み上げた。ずずと鼻を啜る。
 懐かしい思い出だ。彼は今どこにいるんだろうか。どこに住んでいるのだろう。元気にしているだろうか。いや、元気でいて欲しい。呪霊が今も見えるならきっと呪術界に足を踏み入れるだろうから、再会するのもそんなに遠い未来ではないはず。夏油のことは覚えているだろうか。
 
 逢坂が俯いてじっと辛さを耐えている様子がかつての隣人と重なる。夏油は世話焼きな性分なこともある。
 
「センスはあるって先生から聞いてるし、任務を重ねるより、実践形式の訓練を重ねた方がいいかもね。戻ったら一緒に練習でもしようか」
 
「お願いします」
 
「もちろん。あと、同級生なんだからかしこまらないでよ」
 
「は……、う、うん」
 
 未だに不安そうな面持ちであるものの、夏油の向かって笑顔を見せようと、控えめに歯を見せようとして、やっぱり口を一文字に結んだ。その様子に夏油は思わず笑ってしまった。
 
 :
 
「お疲れ様です。申し訳ありませんが夏油さんはそのまま任務、逢坂さんは帰宅です」
 
 夏油はその言葉を告げられるのをわかっていたかのように、目を細めた。
 今年の一年生は逢坂を除いて優秀なのだ。入学して二ヶ月経つかという短期間に関わらず、今までの新入生の記録を塗り替えている。
 それは任務の数だったり、階級だったり、時には器物破損の賠償金の金額であったり、と。
 
「じゃあ、疲れただろうからしっかり休むんだよ」
 
 ひらひらと手を振りながら夏油は二台止まっているうちの五条が乗っている車に乗り込んだ。
 逢坂はぎこちなく手を振りかえし見送りの言葉をかけた。それを聞いた夏油がパッと表情を明るくさせた。
 
 夏油が乗り込むと、腕を組んだままじっとしていた五条を肘で突き逢坂に気づいた五条は手を挙げた。五条は夏油に指示されて仕方なく、といった様子であったが、逢坂はそれを気にする様子もなく、補助監督が車を出すまで手を振り続けた。
 
「本当に任務お疲れ様でした。この調子で頑張りましょう」
 
「はい。ありがとうございます。頑張ります」
 
 補助監督は最初の任務と今回の任務に向かう途中の逢坂の顔を思い出し、もうすでに見えなくなった車の方向を見送る今の顔を見比べて胸を撫で下ろした。
 彼女はなんとか呪術師としての第一関門を突破したらしい。このまま数が少ない呪術師になれるだろうか、と心配は完全には晴れない。けれど入学して二ヶ月も経っていないことを考えると上出来だろう。
 
「五条さんたちは凄いですよね。でも、夏油さんなんて一般家庭出身なのに強すぎてちょっと怖いぐらい、ですね」
 
 はは、と補助監督が逢坂に笑いかけた。逢坂は弾かれたように顔を上げ、補助監督をマジマジとみつめた。
 
「夏油さんって最初の任務からそうだったんですよね。最初の任務だと逢坂さんの反応が一般的なのになぁ、と。おぞましい呪霊に全く物おじしない夏油さん、怖くないですか? しかも体内に呪霊がいるなんて」
 
 補助監督は一体何を逢坂に伝えたいんだろう。同意? それとも同情? 畏怖? 尊敬? 嫌悪?
 
 逢坂の目の前の人はどういう意図を持っているんだろう。
 補助監督のつるりとした瞳からは、逢坂が想像したことのどれも読み取れなかった。ただの考えすぎかもしれない。任務の後だから気が昂っていて些細な言葉も引っかかるのかも。
 ただ、珍しいケースなんだと、そう言いたかっただけで、他意はないのかもしれないし。
 
「夏油くんのことはまだよく知りません。でも、怖いと思ったことはないです。彼は優しい人です」
 
 けれど逢坂の口からはそんな言葉が出た。彼女にとって補助監督の言葉が夏油に対する冒涜のように感じられたからだ。
 案の定、補助監督は苦笑いを浮かべ、高専に戻りましょうかと運転席に乗り込んだ。
 
 人を嫌悪し、悪態を吐き、遠ざけるのは簡単なことだ。あることないことをでっち上げて、最低でも最悪の人間を作り上げればいい。
 記憶のない逢坂を気遣い、ましてや一緒に訓練をしようと誘ってくれて、校内の案内も率先してくれていたし、家入と共に夏油は何かと面倒を見てくれる。そんな人間が怖い人なわけがない。人を疑うのは簡単だ。誰にだって疑う要素はあるのだし。
 もちろん逢坂の記憶がないという俄には信じがたい言葉を、疑わしい言葉を、彼らは信じてくれている。その上で存在を受け入れてくれているのだ。
 だから、補助監督のいう怖いという言葉がどうしても受け入れられなかった。
 そんな自分自身は狭量だろうか、と高専の曲がりくねった坂道を登る車内で考えた。




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