2005年 7月@



 2ヶ月が経ち、高専内の緑色はより濃くなった。光沢と厚みのある葉が眩しい太陽の光を引き立てる。すっかり夏が来てしまった。
 高専は山の中で緑に囲まれているお陰で少しばかり涼しいような気がするが、そう言っていられるのも今この瞬間だけだろう。夏本番はまだ先に控えている。
 
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 逢坂は夏油と家入と結界術と式神術の強化特訓をすることで、遠距離での戦い方を得意と言えるようになった。そして、任務に鬱屈とした暗い気持ちを同伴させることも少なくなった。
 そうなるには思ったよりも時間がかからなかった。逢坂が担任から言われていたように呪力操作は、呪力操作を初めてとするには上手い方だったし、結界術にいわせれば、きっと歴代に新入生の中では上出来だといえるセンスがあった。その柔軟さには一緒に訓練に付き合った五条が文句を言わないほど。もちろん夏油の教え方が親身だったのと、一緒に練習している家入がいたというのも大きいけれど。
 
「家入さん、どう?」
 
 逢坂は己の得意とする結界術で自分と家入を取り囲む形で正方の結界を作り、そこで地図を広げる家入に声をかけた。
 結界の周辺では、蠅頭が結界に体当たりし、4級呪霊が術者の体力と呪霊と呪力の消耗を待っていた。
 どん、と勢いのまま結界を突き破ろうとし、生卵のようにぐしゃりとつぶれ祓われた蠅頭は数知れず。
 呪力の薄いだろう場所を探すために四方八方を切り刻み綻びを見つけ出そうとした4級は、傷をつけることができずに、硬い結界に己自身が負けてダメージを受けていた。
 
 それからいくつかの呪霊は結果に張り巡らされた逢坂の呪力にあてられて勝手に祓われていった。それをみて、わっと方向転換し逃げ出そうとする呪霊を2人を囲んでいるのとはまだ別の結界術で囲むと、光が弾けるように、からからに干からびた地面に水分が与えられた時のようなスピードでジュッと祓われる。
 
 五条や夏油が、本人には言わない代わりに家入含め3人でいるとき「呪術師なんか辞めてしまえ」「補助監督になったほうがいい」と再三こぼしていたのはつい最近までの話であったのに、すっかりそんなをする必要がある無くなるほど逢坂は呪霊そのものに慣れた。
 けれどそれは、呪霊ときちんと距離を取れている場合に限る。呪霊が侵略できないほど大きな結界を身の回りに張って、遠く距離を保ったまま呪霊を祓う。大半の場合、最低5mほど距離を取った。
 五条は燃費の無駄だと、信じられない表情で苦言を本人に言っていたが逢坂はこれが今の自分の精一杯だと項垂れた。
 その燃費の悪さから、数多くの任務をこなすのは避けていた。仕方なく任務がいくつか重なると、最後の任務に1番階級の低いものをしたがった。
 呪力の最適な使い方が苦手なことと、呪霊とはできるだけ距離を取りたいことが合わさると、自分自身を守るための最低5m四方の結界が長時間張れるのは体力を消耗していない最初の任務だ。
 
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 今日は朝一の任務で、実を言うと家入と一緒に任務地に向かうのは今回が初めてだった。それは家入が反転術式を他者に施せる希少な呪術師で、その彼女を守れるほどの力量も頼りがいもなかったからだ。けれど、燃費の悪さに目を瞑れば、結界術をコツコツ極めようとした逢坂の術式解釈は家入を危険に晒すことはないだろうと昨今に置いて判断されたに他ならない。そして呪術師不足であるけれど、記憶喪失で2級以下の逢坂を1人で任務に行かせることはありえないため、家入が今回の任務の同伴者に選ばれた。
 
「んー、もう少し中央かも」
 
 結界術を展開し続ける逢坂に代わって家入が呪物回収のために、封印されている呪物の残穢を探り、補助監督から教えられた呪物封印場所が書いている地図を広げていた。
 まま強力な呪物ではあるが、その呪いに当てられて集まる低階級に呪霊たちを見る限り呪物から漏れ出す残穢は微かなものだろう。
 地図を見て少し進み、足を止め、また地図を確認し、移動する。それを繰り返した。
 
「場所はここであってると思うけど」
 
 家入の指示のまま閑散とした細い住宅街を歩き進め、辿り着いたのが広い公園。ブランコと砂場、中央には海賊船を模した立派な滑り台があった。
 海賊船は年季が入り、年少の子供たちが触れたり掴んだりする低さは手垢で塗装が剥がれ、濃い茶色の本体が赤く変色している。広い滑り台の上で飛んだり跳ねたりしたのだろう、銀色の斜面は太陽の光に反射したなだらかな凹凸がみえた。ブランコも同様の様子で、塗装が剥がれていた。
 
 公園の奥にある幼稚園は今日は日曜日なこともあって静まり返っていた。周りは住宅街であるのに、みんな家族揃って出払ってしまったのか、公園の周りは鬱蒼とした木々があるせいか、似つかわしくない静けさで満たされている。
 呪物はこの公園内にあると地図では示されていたが、呪物が収まるような小さな祠は見当たらない。
 逢坂と家入はお互いに顔を見合わせて、公園を隈なく探すことにした。
 逢坂は結界の範囲を公園全域に広げて、汗を拭った。
 
「家入さん!」
 
 じゃあ、手分けして探すかと声を掛け合ったとき、逢坂は家入を力の限り突き飛ばした。
 突き飛ばされた家入が立っていた場所には逢坂の背丈ほどの大きさの顔をもった呪霊が地面から生えていた。家入を飲み込む気だったに違いない。
 
 ――まずい。
 
 ぎょろり、としたいつくもある目が四方八方を映し出す。そのうちの一つは逢坂の姿を捉えたままだ。
 
 ――2級だ。一体どうして。呪物に引き寄せられて?
 
 特級呪物や死体が埋まっていない限り2級なんて現れないはずなのに。一体なぜ。
 呪霊を挟んで向かい側にいる家入は無事だろうか。
 彼女は戦闘要員ではない。ここで戦えるのは逢坂しかいないのだ。でもまだ呪術師として毛が生えたレベル。4級なのだ。2級を相手になんて到底できない。
 
「家入さん! 大丈夫!?」
 
「大丈夫!」
 
 よし、声の張り方からして外傷は負っていないだろう。万が一怪我をしても家入は反転術式が使えるから、そこまで心配はしなくてもいい。彼女は呪霊から逃げ延びることだけを考えればいいのだ。
 片手は胸の前に上げたまま。いつでも掌印を結べるように。視線も正面の呪霊から離さない。
 ずずず、と這い寄る呪霊にはっとして、腰が引けて、後退りをしそうになって思い止まった。
 
 ――ダメだ、私がなんとかしなくちゃ……。
 
 五条も夏油もおらず、任務の階級からは応援が来ることは絶望的だ。時間がかかっても、道に迷っているで済まされてしまうような場所だし。
 逢坂が頑張らなければ、2人に待っているのは死だ。
 
 カチカチと音が鳴る歯を食いしばる。砕けそうな腰は少し落として重心を安定させる。
 それから、吐き気がするほど恐ろしい呪霊を見つめる。
 さっと、全身が泡立つ。逃げ出したい。
 
 ――でも、私が家入さんを守らないと……!
 
 公園の範囲に広げている結界を解く必要がある。目の前の呪霊を祓うために拡散させている呪霊を自分自身に収縮させて、それから高精度の結界を作って貫けば、勝機が見えてくるかも。
 けれど、結界を解くことは恐ろしい。自分の背後や左右、意識していないところから呪霊が忍び寄って眼前に踊り出された時には、気を失ってしまうかもしれない。使い物にならなくなるだろう。家入も守れず、五条との初任務の時のように醜態を晒して……。いや、醜態を晒すだけならまだマシかもしれない。何にも後悔できずに、心残りもわからず、記憶も戻らないまま命途絶えてしまうだろう。
 
 呪霊から目線は外さずに周りの様子を伺う。影が、ない。どうやら頭上に太陽がいるらしい。朝早くから高専を出発したというのに、結構な時間迷っていたようだ。
 呪物のせいだろうか。方向感覚を狂わせる類のものだったのかもしれない。報告書にはそんなことは書いていなかったが、予測できないこと、わかっていない情報の方が多かったりすることも多い。
 ジリジリと灼熱の日が身を焦がす。夏本番がまだ控えているとはいえ、すでにもう十分暑いのだ。吸い込む空気も喉や肺を焼かんとしているかのように感じだ。ポタタ、と全身から汗が噴き出ている。ブラウスが肌にペタリとくっついている気がするし、掌印を結ぶための手は汗でぬめっている。
 
 ハッ、ハッ、と短くなっている呼吸には気が付かなかった。全身の血液も暑さにやられて沸騰していると勘違いしそうだ。
 一度はぁ、と腹の底から息を吐き出す。
 
「一度結界を解きます!」
 
「わかった! 自衛はできる!」
 
 家入の返事と同時に結界を解く。あたりには呪霊の気配が濃くなった。逢坂の結界の硬さに諦めて離れて行った呪霊たちが戻ってくるのも時間の問題だ。そう猶予はないだろう。
 
 呪力を集中させる。
 鋭利に。硬い金属をも貫くように。触れた途端にキレる刃物のように。鋭く。
 汗ばんでいる手で掌印を結んだ。
 
 呪霊のいくつかある下卑た目に向かってイメージした結界を展開する。
 ぐずり、と刺さり呪霊は動物に似た呻き声をあげた。
 手応えが薄い。あまり深くは刺さらなかった。
 逢坂が今出せる最高硬度の結界では蟻が象をチクチクと攻撃するものだろう。
 逢坂は蟻と違って1人しかいない。協力し倒すことはできそうにない。
 そうなれば、今この瞬間で成長して呪霊を祓うしか残された道がない。
 
 きちんと面と面がある優等生な結界術しか使えない。自分自身の術式がなんであるのかまだわかっていないから。
 じゃあ、一体どうすればいい。今まで習って強化してきたものが使い物にならなかったら。どうすれば。式神なんて出してもたかが知れている。この場を逃げ切るための時間稼ぎもできないほど脆弱な出来だ。
 家入と逢坂が生き残る道を考えるんだ。
 
 結界が刺さった呪霊は動いていない。じっと目線を外さずにどうすればいいか考えなくては。
 暑くて脳みそが煮えてしまったのか、呪霊に太刀打ちできないとわかり考えることを放棄してしまったのか、思考は四方に散らばってしまった。どうすれば、一体どうすれば。その焦燥ばかりが込み上げる。
 
 呪霊は立ち尽くす逢坂を潰れていない目で姿を捉えて、ずずず、と離れた。
 向きを変えて家入の方へ進もうとしている。
 犬のように短く吐き出す息が多くなる。
 
 ――そっちはダメだ。家入さんがいる。ダメだ。ここで引き留めなければ。私が。
 
 家入の方に行かせてはいけない。その思いが脳内を一瞬で締めた。けれど、家入との距離感がわからない。呪霊が大きすぎる。先程のように結界で貫いたとしても、効果はないし、大きさによれば家入に危害を加えてしまうかも知れない。
 家入に危害を加えることなく呪霊を祓う方法はないのか。
 
 ――ダメだダメだ。一体どうすればいい。私には何ができる。どうすればいい。教えて。お願い。何をすればいいの。
 
 ぐちゅ、っと音がした。
 頭上から氷水をぶちまけられたような衝撃。
 音の出先はもちろん家入の方面だった。もう逢坂はわからなかった。恐怖も不甲斐なさも後悔もなにもかも。ただわからずに掌印を結んだ。




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