2005年 6月@



 雲ひとつもない空をみるのが難しくなって、燦燦とした太陽が休憩するんだとばかりに雲隠れし始めるようになった。
 そのおかげで、すっきりとしない天候が続いていた。
 パラパラと予告なしに雨が降ることもこの時期は了承しなくてはいけなかった。
 気まぐれに翳り、突然思い出したかのように降り出す雨のおかげで校内の緑は美しく強い彩りを放っていたが、夏冬一貫で作られた生地が硬い制服をいつもよりおもく感じさせた。
 
 不快感。吐き気。めまい。
 ずっと気持ちが悪い。
 黒くモヤモヤしたものが腹の底で散々暴れ回った挙句やっと決まりがいい場所を見つけたのか、それはしばらくの間胃の中に留まることに決めたらしい。
 
 煮え切らない天候のせい。気が滅入る気圧のせい。新しい環境のせい。そういった外的要因のせいだ。と言い切れればよかったのに。
 
 最初は任務のたびに高専の曲がりくねった永遠と思えるほど長い山道を車で登ったり降ったりするせいでバランス感覚をつかさどる三半規管が根を上げたのかと思っていたが、どうやらそれは違うらしかった。
 もちろん、遠心力に従って振り回される体についていけなくて乗り物酔いをしている可能性もゼロではない。けれど、高専内から出ない日だって、胃がムカムカして不快感が喉元に競り上がってくる感覚が常習化していた。
 みぞおちがきゅっと鈍く痛み続けるのだって、あまり食欲がないのだって、夜寝る時何度も何度も寝返りをうってしまうのだって。
 慣れない環境でストレスが溜まっているんだろうと、明確な原因の元に辿り着ける。
 そうわかってはいても、慣れないことが次から次へと飛び出し、目の前に叩きつけられる。新しいことに対して常に対処させられ続け、自分自身を鑑みる余裕は持てなかった。
 
 座学をしているときが1番マシだった。
 先生が黒板に板書することを、ノートに書き写して、教科書を前もって読んでいれば、特段困ることなんかなかった。
 難しいことも、馴染みがなくて理解し難いなんていう困りごともなかったのに。それに、同級生に助けを求めれば、日を跨いで悩むような疑問なんぞ生まれなかった。
 でも、高専はそんなお行儀のいい机上だけの生活を送らせてはくれない。
 午後は実習か任務に送り出されるのがほとんどだった。知識だけ持っていたとしても使い方を学ばなければ意味がないのだから。
 
 5月中はみんなより1ヶ月遅れて入学したということと、記憶がないからという理由で午前午後問わず座学でみっちりと呪術師のいろはを叩き込まれ、その甲斐あってか飲み込みも悪くないと太鼓判を押されていたのだ。
 基礎の基礎である呪力の制御だって、センスがあると褒めてもらった。
 じゃあ、そろそろ知識面は3人に追いついただろうから実践の経験を得て、自分自身がどう呪霊と対処していくのがいいのか、適切な見本を見てみようとみんなと同じように午後は実践が中心になったのは6月に入ってすぐだった。

 :
 
 初めての任務、意気揚々と車に乗り込んだのだ。
 高専の山道を下っている最中、補助監督は弱い呪霊なので、構えなくても大丈夫です、なんて優しい言葉をかけてくれたし、同行するのは五条で、彼は渡された資料をチラシを読むかのように斜めに目線を滑らせて「雑魚すぎ」と不満げに悪態をついたので、ああ、よかった、と不安を抱いたままの逢坂は胸を撫で下ろした。
 呪術師は常に人手不足。手に余る任務を請け負うことは多々ある、と担任が重々しく言っていたのもあって、1番最初の任務が同行している誰しもが、心配していないという事実に感謝をしたいぐらいだったのだ。
 
 目的地について補助監督は「大丈夫ですから」と再三励ましの言葉を送ってくれた。それに対してぎこちない笑みが返ってくると「緊張してますね」とほほえましく思い、借りてきた猫のように元気のない逢坂を送り出した。
 きっと、そんな不安を抱えているのも今のうちだけだ。数回も任務や実習を重ねれば過度な心配をし過ぎた任務だった、と過去の笑い話になる。不安でいっぱいいっぱいな呪術師を見るのはこれが見納めだろうと、まだ気持ちの整理がついていないのはわかっていたがもう一度励ましの言葉を送って呪霊を祓うように補助監督は指示を出した。
 
 こちらのやり取りには関心がないといった様子で、首を左右に傾け、上体を前後にそらしたりといった柔軟ストレッチと呼べるかわからないものは終了を告げられた。五条が「いくぞ」と逢坂に声をかけた。同級生の面倒をきちんと見れるような、他人の世話を焼ける性分だったのか、それとも任務前にまともな同級生から注意を受けて大人しくしていたのか。
 逢坂は口を固くつぐんで五条の後をぴたりとくっついて追いかける。
 
 気難しいと思う。扱いにくいとも思うが、五条ほど頼りになる呪術師もいない。彼は現段階、いやひょっとすると今いる呪術師の中では1番の実力を兼ね備えている。さすが呪術界の重鎮五条家、一緒に働けて嬉しいかぎりだ。御三家が高専に入学すること自体稀なため、この経験はいつまでも仲間内で自慢できるエピソードになる。
 五条がいるのならば、すぐに任務を終えるだろう。補助監督は車内でラジオを聴きながら待つことを決めた。

 :
 
 大きさは動物園にいる象ぐらい、色はありえないほど暗くくすんでいて、きっと匂いがあれば鼻が曲がりそうな悪臭だろう。ついつい呼吸を浅くしてしまうほどに劣悪な。
 図体は大きいが大した呪力もないと補助監督は言っていた。脅威は少なく最下級とされる呪霊だ。
 それは、こちらに気づいているのかいないのか、どこを向いているかわからない目の玉をぎょろぎょろと回して、ときおり弾かれたように金属同士がぶつかり合うような鳴き声を上げた。
 
 隣に立つ五条の様子を伺ってみると、腰に手を当てていた。遮光の真っ黒なサングラスは呪霊からこちらの方に向けられて、顎で呪霊を指した。
 
「行ってこいよ」
 
「はい……」
 
 一応返事はしたものの、すぐに動き出さない逢坂に「ただでかいだけだから」と言ってから今度は「ん」と唇を尖らせてまた顎で呪霊を指した。
 
 五条のコテでも動かないという態度に、ああ、自分自身でなんとかしなければならないんだと突きつけられ、一度息を吸い込んだ。
 呪符をいくつか取り出す。自身の呪力を流し込み、息を限界まで吐いてから、呪霊に近づいた。
 
 :
 
 リスナーによってリクエストされた今流行りのJーPOPが終了し「いつ聞いてもいいですね」とラジオDJがリクエストに感謝し「そういえば……」と本日のゲストがアーティストについて蘊蓄を話し始めた。
 このラジオはDJが音楽狂いなのはもちろんだが、ゲストもこの番組を盛り上げるのに十分な熱量を持った人々が招待されるから、リスナーの信頼度は絶大だった。
 DJとゲストの会話のテンポが軽快で間のとり方も絶妙で小気味良い。集中するために瞼を伏せた。
 伏せようとした。
 
 帳が上がり、薄暗いビルの間にささやかながらに陽の光がさす。
 こんなに早く、いやそれとも、そんなにラジオに意識を持っていかれていただろうかと急いで左腕を見た。
 20分だ。
 彼らを見送ってから20分しか経ってない。
 確かに、窓の報告では呪霊の数も少なく階級も最低のものだったけれど、編入して1ヶ月の新人が20分でいとも容易く祓えるような任務ではなかったはずだ。
 慎重に確実に遂行して、怪我はしないだろうけれどくたびれるぐらいの任務のはずだ。しかも、五条は見守り要員だから、手助けはないはず。手助けも必要ない案件であるし。
 本人のポテンシャルがよほど高いのだろうか。本人は呪符を使うと言っていたので、どれだけ強力なものを作ったのか、呪力が桁違いなのか、想像を絶するほど優秀でセンスがあるのか、あんなに頼り気なかった逢坂からは想像もできなかった。
 
 そんな期待に胸を膨らませる補助監督の目の前に現れたのは五条に担がれた逢坂だった。片手の自由が効くように、逢坂の上半身を肩の上に乗せて、担いだ逢坂の左足の膝裏を抱きその腕で左手を掴んでいた。五条はその持ち方で右手の自由を確保していた。
 呪術師が術式を使うためには印を結ばなければならないのは知ってる。意識のない人間を運ぶ体制として五条の方法は文句のつけようないけれど、担いでいるのは異性であり右も左もわからない呪術界に足を踏み入れたばかりの一般人なのだから、横抱きにするとか、そういう配慮をしてやった方がいいんじゃないかと、まっすぐこちらに向かってくる足取りを見て思った。
 ただ目の前のからわかったことは、今回の任務で逢坂は大した活躍ができなかっただろうということだ。
 
 息を吐き出し、五条は肩に抱えていた逢坂を後部座席に転がした。
 
「一体何があったんですか?」
 
「呪霊にビビって気絶した。使い物にならないから俺が代わりに祓った」
 
 うんざり、といった様子を全身から漂わせていた。
 
「向いてない、呪術師なんか」
 
 そう吐き捨てた五条に補助監督はなんといっていいのか言葉が見つからず、高専に戻るためにエンジンをかけた。五条は助手席に乗り込んだ。
 
 :
 
 初めての任務だった。
 身の丈にあった任務だったと思う。同行している誰しもが、心配していないという事実もあったし。
 
 けれど無体を晒してしまった。
 どこを向いているかわからないぎょろぎょろとした目玉に萎縮して、こちらに金切声をあげて迫ってくる姿に足がすくんで、うごけなかった。
 目を背けたい欲求を抑えつけて、体を叱咤した結果は、尻餅をつくという結果になってしまって、目の前に迫る逢坂の顔ほどもある呪霊の歯を、迫ってくる黄ばんだ白色を、スローモーションのように感じていた。
 
 本来なら呪力を込めた木製バットで祓えるレベルだ。授業のノートを読み返して自分の非力さになぜ? と問いかけたくなる。
 呪力操作はセンスがあると褒められていたし、座学だって担任が頭を抱えるような生徒ではなかった。
 ただただ自分自身の覚悟の無さが今回の醜態を生み出してしまったのだ。
 
「異形とはいえ生き物の形をした呪いを、自分を殺そうとしてくる呪いを躊躇せず殺しに行く。それが呪術師」
 
 車内で目が覚めた逢坂に五条が言った言葉はまだ消化できていない。

  :

 五条との任務の一件から、現れた体調不良とうまく付き合えず、午後が近づくにつれて胃がキリキリし始め、顔色も良くないと指摘されるようになって数日が経った。もちろんその間に任務に行く機会は何度もあったけれど、4級以下、蠅頭レベルの補助監督でも祓えるような呪霊ばかりを相手にしていた。その程度だとなんとか祓うことができた。
 
 今日も午後から任務だ。心からどろりと濁った感情が溢れ出そうになる。
 
 ――きっとこれは恐怖なのだろう。
 
 それらをぎゅうぎゅうと押し潰してから座席を立ち上がる。
 今日はいつもよりその儀式に時間がかかった。気付かぬうちに浅くなった呼吸に意識を向けて胸いっぱいに酸素が行き渡るように胸に手を当てて膨らみを感じながら、深呼吸を繰り返した。
 
「逢坂、そろそろ時間だよ」
 
 これから逢坂は夏油との任務だった。五条の任務の時と同じ4級案件だ。
 
「才能があっても呪霊に対峙する恐怖と嫌悪に打ち勝てず挫折する呪術師だって多くいる。まして逢坂は記憶がないから初めて呪霊を見る状況だし、すごく怖いと思う」
 
「はい」
 
「術式を持っているから絶対呪術師にならなくちゃいけないということはないんだ。補助監督だっていいし、窓でもいい、呪力を持っているだけで、呪霊が見えるだけでもできることは沢山あるよ」
 
 夏油は慎重に言葉を選びながらなんとか励まそうとしてみたけれど、逢坂の曇った表情は晴れることはなかった。
 こちらの気遣いを察してか、うんうんと相槌をうち、逢坂が自分にとって良い影響を与えられるように言葉を咀嚼し受け入れようとしている様子さえ見てとれた。
 こんなことを言ってしまうと本末転倒かもしれないが、最初の任務の同行者が五条だったというのは問題だっただろう。
 彼は生まれも育ちも呪術界とは切ってもきれない関係で、呪霊に対しての恐怖心という、一般人がまず最初に立ちはだかる壁の存在を知らなかったのだし、なによりも、説明をしてやろうという意識がない。
 きっと家入か夏油であれば、状況は少しはマシだった。2人とも一般家庭出身だし、少なくとも五条よりかは逢坂気持ちに寄り添えたはず。今となっては悔やむことさえ無意味だ。
 
「本当にありがとうございます。今回こそ頑張ります」
 
 悲しそうな瞳でそういう逢坂は呪詛師ではないと確定してもいいと思った。心のもろそうな逢坂が呪詛師がするような非道な行いを出来るわけがない。
 
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 高専の玄関で2人を待っていたのは、黒い一般的な乗用車と黒いスーツの補助監督だった。高専所有の車で、高専指定のスーツだ。
 逢坂が少しばかり気まずいのは、補助監督が初めての任務を担当した人物であることだった。もちろん彼も同じ気持ちだろう。4級呪霊も祓うことが困難で、まるで頼りにならない呪術師というレッテルを貼っているかもしれない。でもそれは実際事実であるし、これから先逢坂が一人前の呪術師になれるまではきっと変わらない。




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