名前は結局バイトを辞めなかった。今は人手が足りないらしく、とりあえず10月までは辞めないで、とお願いされたらしい。それを聞いて俺は心底ホッとした。

「テスト終わったのかよ」
「うん、やっと夏休みだよ」

久しぶりにバイトに出てきて、今日から長ーい夏休み!と楽しそうに笑う名前はさすがにもう半袖を着ていた。

「地元帰ったりすんの?」
「うん、お盆だけ帰る予定だよ!」
「なんかお前今日テンション高くね?」
「えっ…そうかな…?」

夏休みに入って浮かれてんだなって思ってそう言ったのに、どうやらそうではないらしい。急に曇った名前の表情がそれを物語っていた。なんでそんな顔してんだよって聞きたかったけど、この前名前に言われた関係ない、の一言がどうやら自分で思っているよりも効いているらしく、その日は結局何も聞けなかった。



「お前も暇人だな」
「そっくりそのままお返ししまーす」

ここ数日毎日シフトに入っているらしい。夏休み中こいつどんだけ暇なんだよって思ってそう言えば、そのまま返された。毎日同じ時間にコンビニに来ていたらそりゃそう言われても仕方ない。
俺は暇だから来てるわけじゃねぇけど、そんなことは言えるはずもなく、いつものように言葉を飲み込んだ。

「彼氏とどっか行ったりしねぇの?」

本当に言いたいことは言えないくせに、聞きたくもないことは簡単に聞いてしまえるものだ。

「うーん、平日は仕事だし、なかなかねぇ…」

だからさぁ、ほんとその顔やめろよ。なんで彼氏の話するときいつも暗くなんだよ。この前幸せだって言ってたじゃねぇかよ。そんなんだから、俺だって諦めきれねぇんだよ、バカ。


「じゃあ…俺とどっか行くか」
「え…?」
「嫌ならいいけど」
「え、っと…それは2人で、ってこと…?」
「そう。行くかどうか、今すぐ決めろ」
「えっ!?」

戸惑う名前に考える隙を与えないように、俺はカウントダウンを始める。

「さーん、にーい、いー…」
「い…行く!」

行く、と言ってからはっとして名前は頬を赤く染めた。その顔を引き出したのが自分だと思うとそれだけで胸の奥が満たされるような気持ちになる。

「決まりな?」
「う、うん…」





先日半ば無理やりに約束を取り付けた俺は、ようやく名前の連絡先を手に入れた。ただ連絡先を交換しただけなのに、一歩前進できたという充足感といったらない。

「よぉ」
「えっバイク!?」

名前の次の休みを聞き出し、『9時にコンビニ前集合』とメールを送って、それから動いやすい服で来いよ、と付け足した。

「場地くんバイク乗れるんだ」

やんちゃなバイクだねぇ、と俺のバイクを物珍しそうに見る名前の服装はメールで伝えた通り動きやすそうなジーパンとTシャツ。デートと言うには色気が足りないけどスカートじゃバイクには乗れないから仕方ない。

「どこ行くの?」
「江ノ島」
「え、それ最高」

俺からヘルメットを受け取った名前が慣れた手つきでそれを被った。その様子にバイクに乗るのは初めてじゃないことに気付く。俺よりも2つ年上の大学生なんだから誰かのバイクの後ろぐらい乗ったことあるよな、と思ったけどやっぱり少しだけがっかりした。

「わたし江ノ島行ったことないんだよね、楽しみ!」

今さっきがっかりした気持ちがこんな一言で急上昇するんだから俺もチョロいな、と思った。


都内からバイクを走らせて、休憩も挟んで2時間ほど。後ろに名前を乗せていることもあって一応いつもよりかなり慎重に運転した。道中ほとんど会話はなかったけど、背中に感じる体温と腰に回された腕にどうしようもなくドキドキした。

「海気持ちいいねー」

バイクを降りて伸びをした名前が俺を振り返る。その楽しそうな顔にやっぱり誘って良かったと思った。

「どっかこの辺ぶらぶらするか?」
「…どこも行かなくていいや、海見てたい」

だめ?とこちらを見上げる名前の隣に腰を下ろした。別に、全然ダメじゃない。名前と一緒にいられるならどこでも良かったから。まぁ、本当は色々調べてはあったけど。

「海見てたいって、お前なかなか病んでんな」
「ふふ、そうかも」

冗談で言ったわけではなかった。ずっと気になっていたから。彼氏のことを話す時の名前の暗い顔も、ふとしたときの思い詰めたような表情も。


「別れた方がいいのかなぁ…」

遠くを眺めながらそう言う名前の目からポロポロと涙が溢れた。

「ごめん…なんか海見てたら涙出てきちゃった」
「はぁ…お前本当に病んでんな」
「ごめんねぇ」
「謝んなよ、ばーか」

抱きしめたかった。泣くなよって抱きしめて、そんな男とはさっさと別れて俺を選べよって言ってやりたかった。でも、この時の俺には名前を抱きしめていい理由がなかった。他の男のことを考えて涙を流す名前を抱きしめていい理由が、見つからなかった。


「泣いたらちょっとスッキリしたよ」
そう言って小さい鞄からハンカチを取り出して目尻を拭った名前が俺を見上げた。

「場地くん、連れてきてくれてありがとう」

涙に濡れた名前睫毛がキラキラ光って、目が離せなかった。


その日から1週間、名前はバイトを休んだ。

夏の薄片を探しに

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