page

きみの紡いだ染色体のこと

「千冬ぅ」

会ったことのないはずの父親と同じように俺を呼ぶ声に、心臓がぎゅっと苦しくなる。彼の母親が同じように俺を呼ぶのを聞いたことがあるからかもしれないけれど。それでもその声に、姿に、あの人の面影を感じずにはいられなかった。

「糸、どうした?」
「新しい子が入ったって聞いたから見に来た」

きょろきょろしながら、ねぇ一虎は?と聞く女の子はランドセルを背負ったままだった。どうやら学校から直接来たらしい。

「裏にいるけど。仕事の邪魔はすんなよ」
「分かってる!」

あれから12年経って、糸と名付けられたあのときの赤ちゃんは今年の夏で12歳になった。子どもの成長とはこんなに早いものなのかと毎年糸の誕生日を迎えるたびに思う。たまにしか会わない親戚のおじさんおばさんが「ちょっと見ないうちに大きくなったね」と言う気持ちが最近分かる。

糸は相変わらず場地さんに良く似ていて「わたしの遺伝子ほんとどこ行ったんだろうね」と名前さんは笑っていた。マイキーくんは糸が生まれてからすぐに姿を消した。「もしも俺に何かあったら、名前と子どものことを守ってやってくれ」と、マイキーくんが俺に言ったあのときには、もう既にいなくなることが分かっていたのかもしれない。

2年前出所した一虎くんは初めて糸を見ると目を見開いて、それから「ごめんな…」って泣きながら謝った。それを見た糸は初対面でいきなり泣き出した男に困惑して「ねぇ、これどうしたらいいの…?」とドン引きしていて、その顔がまた場地さんそっくりで。俺と名前さんは思わず声を上げて笑ってしまった。それと同時に心からホッとした。今ではすっかり俺より一虎くんに懐いている。それまでは俺にべったりだったのに。正直ちょっと悔しいのは糸には内緒だ。

糸は自分の父親がどうして死んだかは知らない。「いつか話せるときが来たら言う」名前さんはそう言っていた。いつか、そんな日が来るんだろうか。


俺はといえばこの12年間変わらず2人のそばにいる。それはマイキーくんに頼まれたからだとか、糸が場地さんの子どもだからだとか、もちろんそれもあるけれど。名前さんに対する下心、なんかもあったりするわけで。最初は糸のことを見守りたくて一緒にいた。場地さんの代わりには到底なれないけれど、少しでもこの子の寂しさを埋められたらいいと思った。でも一緒に過ごしているうちに次第に名前さんに惹かれていって、この人のことを1番側で支えたいと思うようになった。それは俺にとってごく自然な感情だった。でも名前さんは何年経っても変わらず場地さんだけを想い続けているのも分かっていた。こんな感情を抱えたまま名前さんの側にいても辛いだけだと思って他に彼女を作ったこともあったけれど、もちろん長続きするはずもなく。かと言って今更大きくなりすぎたこの思いを捨てることもできず。ここ最近は、もう一生誰とも結婚しないで2人のことをを見守っていくのもいいかもしれない、ぐらいの境地に達していた。それぐらい、名前さんと糸のことが大切だった、はずなのに。

「千冬はさぁ、」
「ん?」
「お母さんと結婚しないの?」
「ぶふっ」

裏で事務処理をしていたときのことだった。店に遊びに来ていた糸の突然の言葉に、思わず飲んでいたコーヒーを吹き出した。「ちょっと、千冬汚い」と俺を見る目は相変わらず場地さんとそっくりだ。慌てて近くにあったティッシュで机の上を拭く。

「なんっ、おま、何言って…!」
「千冬ならいいよ、お母さんあげても」
「それ本気で言ってる…?」
「うん」

それから、「千冬見てたら誰でも分かるよ、気付いてないのお母さんぐらいだもん」と言って呆れられた。そう、12歳の小学生にすら見抜かれている俺の想いに、名前さんはこれっぽっちも気付いていない。

あの人はこの12年、場地さんしか見ていない。


この前パーちんくんの結婚式に行ったとき、誓いの言葉を聞いて真っ先に名前さんのことを思い浮かべた。いつどんなときでも、呼吸をするのと同じぐらい、毎日当たり前のように彼女のことが好きだと思う。名前さんが笑ってくれたらただそれだけで嬉しくて、俺まで幸せになれるような、心が温かくなるような想い。それは彼女が場地さんの元恋人だからじゃない。糸の母親だからでもない。糸を見るときの優しい目とか、笑うと目尻が下がって幼く見えるところとか、ちょっと空気が読めないところとか。涙腺が緩くて映画やアニメを観てすぐ泣いてしまうところも、実はブラックのコーヒーが飲めないところも。名前さんの全部が愛おしいと思う。できれば、俺のこの先の人生全部かけてこの人を守っていきたい、なんて、思っていたりもするわけで。

場地さんも名前さんのこういうところが好きだったのかな。俺が名前さんの隣にいたいって言ったら場地さんはどうするかな。怒るかな、笑うかな。俺、場地さんに殴られるかな。

でも名前さんと糸のそばにずっといられるなら、場地さんに殴られてもいいやって思えたんだ。


「糸、デートしようぜ」

バイクで糸の通う小学校の前まで迎えに行ってから、これ名前さんにあとで怒られるんじゃねぇかなって思ったけど、糸が嬉しそうに「後ろ乗っていいの!?」と飛びついて来たからまぁいいかと思った。どこでも行きたいところ連れて行ってやる、と言えば目を輝かせて某テーマパークの名前を言ったからそれは即却下してやった。「どこでもじゃないじゃん」と不貞腐れた顔をしながら「じゃあ海に行きたい」と糸が言った。いつもよりずっと遅いスピードで、なるべく綺麗な砂浜を目指して少し遠出した。砂浜を歩くと靴に砂が入ったから、2人で靴を脱ぎ捨てた。波打ち際で散々遊んだあとで「タオルとかなんも持って来てねぇわ」って言ったら「はぁ?何しに来たの?」と言った糸の顔はやっぱり場地さんそっくりで思わず笑ってしまった。そんな俺を見て「千冬がそういう笑い方するときは、お父さんのこと考えてるときだよね」なんて言うから、今度は泣きそうになった。日が傾き始めた頃、「デートだし、どうせなら夕日も見て帰ろうぜ」と言えば「そういうことはお母さんに言いなよ」と呆れたように返された。何も言い返せない俺に悪戯っぽく笑った顔は、名前さんにもよく似ている。

糸の服に砂が付いたら名前さん怒るだろうなと思ったけど、構わず2人で砂浜に座ってゆっくり沈んでいく夕日を眺めた。

「なぁ…俺が名前さんにプロポーズするっつったら、どうする?」
「えっ…」
「…やっぱ嫌?」
「あ、ごめ、違くて…びっくりしただけ…」

あー、とか、うーん、とか言いながら言葉を探す糸がもじもじと指を動かしているのを眺める。大きくなったなぁ。少し前まではこの小さな手を大事に包むようにして繋いで、隣を歩いていたのに。糸と最後に手を繋いだのっていつだったっけ。

「…前にさぁ、なんでお母さんと結婚しないのって言ったの覚えてる?」
「うん」
「そのときも言ったけど…千冬ならいいよ。わたしも千冬と家族になれるなら…嬉しい」

そう言って照れたように笑った糸の横顔は場地さんにも名前さんにも似ていて、あぁ、やっぱり2人の子どもなんだなって思って、じんわりと目の奥が熱くなった。

「えっ嘘、泣いてる?」
「泣いてねぇよ…」
「ちょっとうるうるしてるじゃん」

揶揄うように笑う糸も、あと3年もすれば場地さんの歳を追い越してしまう。

「なぁ、糸が4歳ぐらいのときにさ、大きくなったら俺と結婚するって言ってたの覚えてる?」
「全っ然覚えてないけど千冬がそのときの動画何回も見せてくるから知ってる」
「ははっ、あのとき本当に嬉しかったんだよなぁ…」

「糸とずっと一緒にいていいって言ってもらえた気がして、すっげぇ嬉しかったんだ」

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -