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暖かい布団の中で目を覚ますと、なまえさんがすぐ隣にいた。既に起きていたらしい。おはよう、って小さな唇から紡がれる彼女の柔らかい声が好きだ。「寝癖付いてるよ」とくすくす笑いながら頭に手が伸ばされた。なまえさんは「あんまり見ないで」って言うけれど、いつもよりちょっと幼く見える化粧をしていない顔の方が実は好き。俺だけに見せてくれる無防備な顔だと思うとたまらない。暖かい布団の中で冷えた爪先を悪戯に俺の脚に押し付けてくるような、たまに見せるちょっと子どもっぽいところも好き。細い腰に腕を回すと、嬉しそうにぎゅうっと背中に腕を回して抱きしめ返してくれるところも、すげー好き。まだ2人分の体温の残る布団の中で、もう一度腕の中に彼女の小さい身体を閉じ込めた。

夜眠りにつく前も、朝起きてからも、あぁなまえさんのことが好きだなあって毎日のように実感する。

家と、学校と、バイト先ぐらいの狭い俺の世界でなまえさんと出会えたのは奇跡みたいなもんだなって、たまに思う。彼女にはもっと広い世界があって、俺よりずっとたくさんの人と出会いながら生きてるのに、高校生の俺を選んでくれたのはもっと奇跡だ。


「なまえさん、疲れた?そろそろ休憩する?」
「えっ…あ、ううん。大丈夫」
「そう?ならいいけど…」

「また来たいね」と旅館を出たあとの帰りの車の中で、行きよりも明らかに口数が減ったなまえさんの横顔をなんとなく眺める。時々遠くを見つめるなまえさんの顔がキレイだなぁ、なんてぼんやりと考えていた。早くこの人の隣を、当たり前に並んで歩けるような大人になりたい。そんなことを言ったら彼女は嫌がりそうだけど。なまえさんの考えていることは分かるのに、自分ではどうにもできないのがもどかしい。いつまでこんなことを考えるんだろう。俺が高校を卒業するまで?成人して二十歳になるまで?でもその頃にはきっとまた違う悩みがある。

「なまえさんってさ、」
「んー?」
「何歳ぐらいで結婚したい、とかある?」
「……うーん…27、かな」
「へぇ…」

自分で聞いておきながら、まさか返答をもらえるとは思っていなかった。なまえさんが27歳になる頃、俺は21歳か。…無理じゃん。まだ大学も卒業してねーわ。せめてもう2年待ってくんねーかな、なんてのはわがままだよな。それきり会話の途切れた車内には、エアコンが吐き出すやけに熱い空気が充満していた。

レンタカーを返してからなまえさんを家に送るまで、お互いにほとんど無言だった。なまえさんは相変わらず何か考え事をしているようでずっと上の空だ。2人でいる時間をこんなに気まずいと思ったのは付き合ってから初めてで、彼女の家が近付くにつれて心臓がやけにうるさくどくんどくんと嫌な音を立てる。手には変な汗が滲み始めた。足が重い。息苦しい。あと少しでなまえさんのマンションに着く。あと少し、

「…あのさ、千冬くん」
「うん」
「話したいことがあるんだけど」
「……」
「聞いてくれる?」

俺の顔を伺うように見上げながら、困ったように笑うなまえさんの言葉に「うん」とだけ返した声は、小さく掠れてしまった。


「あれ、鍵どこ入れたっけ」

なかなかキーケースを見つけられずにカバンの中を漁るなまえさんを見ながら、ポケットに入れた指先がヒヤリとした合鍵に触れる。このまま鍵が一生見つからなければいいのに、なんてくだらないことを考えていた。あー、やばい。既にちょっと泣きそう。この部屋に入りたくないなんて思ったの、これが初めてだな。

「あ、あった!」

いつもと違うカバンだったからどこに入れたか忘れてた、と笑うなまえさんはいつも通りだった。なんて言ったらなまえさんは考え直してくれるだろうか。それとも、もう何を言っても無駄なのかな。「いやだ」って言ったところでやっぱり子どもだなって思われるだけかもしれない。でも、大人しく「わかった」なんて頷けるわけがない。そんな簡単に終わらせられるような想いじゃない。いつものように部屋に通されて、なんとなくここ最近の定位置になっているソファの前の床に2人で並んで座った。ソファじゃなくて床なのは、ホットカーペットが暖かいからだ。この前はそのまま床でヤって「背中が痛い」と怒られた。

「あのね、」

俺の方を見ることなく切り出したなまえさんの言葉を待っている数秒間が、信じられないほど長く感じた。さっき付けたばかりのエアコンの音がやけに耳につく。口から内臓が出そうなほどの緊張感に心臓はさっきまでよりも煩く鳴っている。背中までじっとりと汗をかき始めた。

「今更だけど、付き合うときにした約束をやっぱりちゃんと守りたいなって思って」
「……う、ん?え?」

予想と違ったなまえさんの言葉に、俯いていた顔を勢いよく上げる。彼女はそんな俺の様子には気が付かず、「その、親に内緒で旅行行ったり、心配かけるようなお付き合いはやっぱりしたくないなぁって…」と相変わらず予想とは違う言葉を続けた。てっきり、わたしたち終わりにしよう、とかもう別れよう、とか言われるんだと思って身構えていた俺に、なまえさんは数ヶ月前にした「約束」の話を持ち出した。

「え、待って」
「本当にごめんね、今更こんなこと言って」
「待って、なまえさん……話ってそれ?」
「え?うん」

はあぁぁー、と大きく息を吐き出した俺を見て、どうしたの?と可愛らしく首を傾げている。…どうしたの、じゃねーし。ホッとしたら身体の力が抜けて、そのまま床に寝転がった。「え?なに?」と言いながら隣にいるなまえさんが「千冬くん?」と覗き込んできたけれど、ごろんと寝返りを打って顔を背けた。こんなダサい顔、見せられるわけがない。

「……別れ話、されんのかと思った」
「えっ、なんで!?」
「なまえさんがめちゃくちゃ深刻そうな空気出すから」
「そ、そうかな?」
「そうだよ」

むくりと起き上がり、なまえさんの柔らかい頬を指で摘む。「いひゃい」と言われたけれど、口元がにんまりと笑っている。あーーー、ムカつく。

「昨日のあの流れで別れ話なんてするわけないでしょ」
「…そんなんわかんねーし」
「わたしがどれだけ千冬くんのこと好きか分かってないの?」
「そういうわけじゃないけど、」
「わたしが大人だから?」
「そっ、うかもしれない…」

好きだけじゃ上手くいかない、っていうのは少女漫画を読んでるだけでも分かる。でも好きだけじゃなくても上手くいかないこともあるんだって、なまえさんと付き合って初めて知った。好きだからこそ、俺じゃだめなのかもしれないって思った。

「なんか帰りからずっと気まずいし」
「だって、あの約束の話したら千冬くん嫌がるかなって思って」
「27で結婚したいとか言うし」
「千冬くんが聞くからでしょ。それはあくまで希望だよ」
「じゃあ…俺がもう2年待ってって言ったら、なまえさん待ってくれんの」
「当たり前じゃん。手放す気ないって言ったのはそっちなんだから、ちゃんと責任取ってよ」

即答された言葉に、思わず泣きそうになる。なんだよこの人、ほんとズルい。

「本当に、いいの」
「いいよ。全部あげる」
「…ズルい」
「大人だもん」

そう言って笑ったなまえさんの、さっきまで抓っていた両頬に手を添えて、触れるだけの口付けを落とした。包み込んだ頬が幸せそうに緩むのを見ているだけで、心臓がぎゅうっと絞られたように苦しくなるのに全然嫌な感じじゃなくて、身体の真ん中が言いようのない感情で満たされていく。


「高校卒業まで、この関係は誰にも言わないこと」
「うん」
「お泊まりと、えっちもだめ」
「あ゛ー…はい」
「キスは、1日3回まで」
「…それはもうよくない?」
「だーめ」

今日はあと2回だけ、と悪戯っぽく笑ったなまえさんの後頭部を引き寄せてそのまま唇を塞いだ。普段2人でいるとあんまり感じないけど、やっぱりなまえさんの方が俺よりもずっとずっと大人だった。でも彼女は俺が思っていたより子どもだってことも、もう知ってる。

「…多分これから先も何回も同じようなことでうじうじ悩んで、その度に千冬くんを困らせちゃうと思うんだけど…」

それでもいい?と困ったように笑うなまえさんの頬をもう一度抓る。そんなの、いいに決まってる。

「やばい、なまえさんが可愛すぎてシたくなってきた」
「えー、もうだめだよ」
「わかってるけど…あと1ヶ月も耐えられるかな…」
「えっちできなくても浮気しないでね」
「ばか」

そんなことで浮気なんてするわけないし、できるわけがないのに。この人はいい加減、俺にどれだけ好かれてるか思い知った方がいい。



なまえさんとの約束は、高校卒業までこの関係は誰にも言わないこと。お泊まりとえっちは禁止。キスは1日3回まで。あれから約1ヶ月、全ての約束をちゃんと守って、ようやく今日の卒業式を迎えた。さすがに『イマジナリー彼女』とかいう汚名は晴らしたい、と話すとなまえさんは相変わらず山岸のネーミングセンスがツボらしくケタケタと笑ってから「卒業式が終わったら、仲の良い友達には言ってもいいよ」と言っていた。

卒業式が終わって、ホームルームが終わるのと同時にクラスメイトとの別れを惜しむ間も無く教室を飛び出したタケミっちを見送る。ヒナちゃんの高校まで花束を渡しに行くらしい。あの2人を見ているとやっぱりタメで付き合ってんのっていいなと思うこともある。でも周りの付き合ったとか別れたとかそういう噂を耳にするたびに、俺の彼女がなまえさんで良かったなと思う。

高校生なんて付き合っても数ヶ月で別れたりなんて良くある話で、俺だって今までそんな経験をしてきて、半年以上付き合った彼女もなまえさんが初めてだった。なまえさんが当たり前のように「これから」の話をしてくれるのが、高校生の俺にとってはどれだけ嬉しいことなのか多分彼女は分かってないんだろうな。
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