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まだ3月上旬なのに、すっかり春になったみたいに暖かい日だった。

いつもと同じ仕事終わり、更衣室で制服から先週買ったばかりの新しい春物のワンピースに着替える。ついでに下着も新調した。千冬くんの好きそうな可愛い系。隣で着替えていた先輩に「へぇー、今日デートなんだ」とニヤニヤと笑われた。仕事中はまとめていた髪を下ろして、よれたメイクをささっと直す。ちゃんと可愛くした姿を見せたいと思うけど、早く帰って会いたいとも思う。結局予定の電車に乗るために会社から駅まで走って、乱れた髪を電車の中で手櫛で整えた。

最寄駅の改札を抜けると、珍しく制服のままの千冬くんが待っていた。

「仕事お疲れ様」
「千冬くん、卒業おめでとう」
「うん、ありがと」

付き合い始めたときからずっとこの日を待ち望んでいたはずなのに、彼の制服姿も今日で見納めかと思うとやっぱり少し寂しいなぁ、なんて思ってしまう。

「クラスの打ち上げとか行かなくて良かったの?」
「ちょっとは顔出したし、他のヤツも他校の彼女のとこ行ったりしてるし平気」

わざわざ卒業式のあとに打ち上げを抜けてまで迎えにきてくれたことを申し訳なく思うけど、それ以上に嬉しいと思ってしまうわたしはやっぱりだめな大人だと思う。まぁわたしをだめにしてるのは千冬くんだけど。誰かにもらったであろう、可愛らしい紙袋に入った花束や、ブレザーのボタンがひとつ無くなっていることに気が付いて、見知らぬ女子高生に死ぬほど嫉妬しているわたしは世界一心の狭い彼女だ。


いつもと同じ家までの帰り道、「ちょっと寄り道しよ」と千冬くんに手を引かれてやってきたのは初めて出会った公園だった。この公園の前を通るたびに、まさかあのときの男の子とこんなことになるなんてなぁ、と思う。まさか付き合うとも思っていなかったし、まさかこんなに好きになるとも思っていなかった。あの日と同じように、2人で並んで桜の木の下にあるベンチに腰掛けた。蕾が膨らんでいる。あと数週間もすればきっと咲き始めるだろう。「今度お花見行こうよ」と声をかけようとしてやめた。千冬くんと出会う少し前にフラれた元彼とも、別れる直前にそんな話をしていたことを、ふと思い出したからだ。

「そういえばプレゼントがあるんだけど」
「え?マジで?」

卒業おめでとう、と鞄から取り出したのは10センチ四方の箱。中身はシンプルなデザインの腕時計。春からは私服で大学に通うから、どんな服にも合わせやすそうなものを選んだ。

「えー…めちゃくちゃ嬉しい。なまえさんありがと」
「うん。大学行くとき良かったら着けて」

特別高くはないけれど20歳前後の学生には決して安くはない腕時計は、ささやかな牽制。大学生になった途端、急に人間関係が広がることをわたしは知っている。割と時間を持て余した大学生たちが男女問わず恋に飢えているということも知っている。人当たりも良くて誰からも好かれやすい可愛い千冬くんを、女の子たちが放っておくわけがない。だからこれは、このぐらいの時計ならポンと買えるような年上の彼女がいるんだぞ、という牽制。我ながら大人気ないなと思ったし、実際に千冬くんだってそんなあからさまなアピールはしないだろうけど「彼女に貰ったって自慢しよ」と笑う顔を見ると、つい頬が緩んでしまう。

「あのさ、なまえさん」
「ん?」
「ちょっとだけ、俺の話聞いて」

いつもより真剣な千冬くんの声に、悪い話じゃないってわかっているのに心臓がぎゅっと苦しくなって息が詰まった。

「俺、実はあの日公園で話しかける前からなまえさんのこと知ってて」
「え?」
「2年前ぐらいからかな。駅でたまに見かけて、かわいいお姉さんだなーって思っていつも見てた」
「えっ!?」
「多分、一目惚れ」
「うそ…」
「ホント」

駅でなまえさん見かけた日はそれだけでちょっとテンション上がった、と照れたように笑いながら話す千冬くんの突然の告白に驚きすぎて、次の言葉が見つからなかった。2年前って、わたしがこの辺りに引っ越してきたばかりの頃だ。だって、そんなの、わたしは全然気付いていなかったのに。

「だからあの日公園で1人で飲んでるなまえさん見たときは、チャンスだって思って声かけた」
「……初耳なんだけど」
「うん、初めて言ったし」

「あのとき…なまえさんから連絡きたとき、俺がどれだけ嬉しかったかわかる?」目尻を下げて笑う千冬くんに、思わずこぼれ落ちそうになった涙を堪える。ベンチから立ち上がった千冬くんが、わたしの真正面にしゃがんだ。すっかり冷えた指先を、温かい両手で包み込むように握られた。

「高校卒業しても俺は一生なまえさんより6歳下で、そのせいでこれからも不安にさせることもあるかもしれないけど」
「…うん」
「でもさ、あと40年経ったら58歳と64歳になって、50年経ったら68歳と74歳になるんだから、どうせこれから先もずっと一緒にいるなら年の差を気にすんのなんてきっと10年ぐらいの話だと思うんだよな」
「千冬くん、あの」
「…好きだよ、なまえさん」

千冬くんの声から緊張が伝わってくる。もう一度、確かめるように握り直された手が小さく震えていた。真っ直ぐにわたしを見つめる千冬くんの、冬の空を映したような青い瞳が揺れている。

「俺は10年後も、50年後も、ずっとなまえさんのことが好き」
「……っ、うん、」
「ちゃんとなまえさんのこと守れるような大人になるから」

「そしたら、俺と家族になって」

わたしの目尻に溜まった涙を指先で拭って、「泣き虫」と揶揄うように笑う千冬くんに「千冬くんのせいじゃん」と返すと、「…一応聞くけど、嬉し泣き?」と聞かれた。嬉しい以外に泣く理由なんて、あるわけないのに。頷くとホッとしたように笑う顔が愛おしい。

「かわいい」
「やだ、かわいくない」
「なまえさん、こっち向いて」

絶対かわいくない泣き顔を両手で包み込んで、世界一かわいいって優しく笑う千冬くんに出会えたわたしは幸せものだ。こんなに真っ直ぐに愛情を分けてくれる人、千冬くんの他に出会ったことがないし、この先の人生でも出会える気がしない。彼のこういうところはもう才能なんじゃないかと思う。

「千冬くんは…きっとこれから色んな人と出会って、どんどん世界が広がっていって、楽しいこともたくさんあると思う。わたしよりずっと素敵な人にも、絶対出会うよ」
「それはなまえさんも一緒でしょ。それに…もし、そんな人に出会ったとしても俺は絶対なまえを選ぶよ」
「千冬くん、」
「いつか出会う大切な人にこんなに早く出会えた俺は幸せだなって思ってる」

ブレザーのポケットから指輪を取り出した千冬くんが、わたしの左手に手を添えた。「受け取ってくれますか」という言葉に小さく頷く。

「ちゃんとしたやつは、もうちょっと待ってて」

そのときはもう一回ちゃんと言うから、と薬指にはめられた指輪。左手を翳すと公園の街灯に照らされて控えめに光った。

去年の春、ろくでもない会社の先輩に二股をかけられて振られたのは、千冬くんに出会うためだったのかもしれない。今の会社に入社してこの町に引っ越してきたのも、それまでの人生も全部。全部、千冬くんと出会うために計算されたものだったんだって思った。

「千冬くん、大好き」

「わたし、今この瞬間がこれまでの人生で1番幸せ」

彼と出会ってから、何回そう思っただろう。1番幸せな瞬間を何度も更新し続けて、いっそ怖くなるくらい彼のことが好きだ。

「ありがとう、本当に嬉しい」
「良かった。あー…もう、マジで緊張した」

「つーか緊張しすぎてこれ渡すのも忘れてた」と言って紙袋から取り出した可愛らしい花束を渡されて、「あとこれも」と手のひらにころんと落とされたのはブレザーのボタンだった。見知らぬ女子高生に勝手に嫉妬までしていたのに、自分の手の中に転がり込んできた途端にとんでもない羞恥心に襲われる。


繋がれた左手の薬指を、何度も指先で確かめるようになぞるのがかわいくて仕方がない。

「千冬くんのさぁ、」
「ん?」
「たまに急に名前呼び捨てするの、なんなの」

あれほんと心臓に悪い、と言うと「やめた方がいい?」って笑いながら返された。分かってるくせに。「やめなくていい」って言うのはなんだか悔しかったから「わたしもたまに千冬って呼んでみようかな」って言うと「確かに心臓に悪いかも」とまた笑った。繋がれた左手をきゅっと握り直す。

「ねぇ、今度お花見行こうよ」

3月の初めにしては暖かい日だった。冬の冷たさはもう感じない。ほんの少し生ぬるい風が、2人の間を通り抜けた。
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