■ ■ ■

「なんで…」

名前が小さな声でそう言った。名前の大きな瞳に涙の膜が出来ていくのが分かった。泣かせたくはなかったんだけど。いや、ていうかこっちが泣きたい。なんでってなんだよ。そんなの理由なんてひとつしかないって、もう分かっているくせに。

昔から名前の泣き顔が苦手だった。小さい頃、どうやっても泣いている名前を泣き止ませられない自分が情けなかったから。

「名前のことが好きだから」

泣かせたくなんてないのに、俺のせいで泣いている名前を見るはほんの少しだけ気分が良かった。やばい、俺ちょっと変態っぽいな。


「か、帰る…っ」

ごしごしと制服の裾で涙を拭った名前が俺の腕を振り払うと、鞄を掴んでうちから逃げるように飛び出していった。ガチャンと玄関の扉が閉まる音がして、そのすぐあとに階段を駆け降りる音が響く。

「はっや」

窓の下を見下ろすと全速力で走る名前が見えた。相変わらず足速いなあいつ。小学生の頃は何回勝負しても勝てなかった。多分今なら勝てるけど。


部屋を振り返ると床には名前のスケジュール帳が置かれたままになっていた。どうやら慌てすぎて鞄に入れ忘れたらしい。それを拾い上げると間に挟まっていた写真がひらりと落ちた。別に、見たかったわけじゃない。拾ったそれを見て、やっぱりなってちょっとだけ思った。

その可能性を考えたことは何度かあった。名前と同じ中学だし、喧嘩強いし、面倒見良いし、男の俺から見てもかっこいいし、そういえば誕生日は6月だって言っていた気もする。八戒が。

思った通り、写真の中の名前は三ツ谷くんと微妙な距離を空けて、少し恥ずかしそうに笑っていた。


少ししてから冷静になって、なんであんなことを言ってしまったんだろうと後悔が押し寄せた。でも言わなきゃ名前はいつまで経っても俺の気持ちに気付かないんだから…と考え直して、それでもやっぱり言わなければ良かったという後悔の方が大きくて。そんなことをぐるぐると考えていたら、いつのまにか外は明るくなっていた。

「すげークマ」

朝、欠伸をしながら団地の階段を降りてきた場地さんが俺の顔を見て一言、そう言った。

「なに、夜更かし?」
「そんなとこです」

また遅くまで漫画を読んでたか、ゲームでもしていたと思われているんだろうって、そう思ったのに。

「名前となんかあったんだろ」
「えっ」
「昨日名前が走って帰るの見えた」

俺の前を歩き出した場地さんの背中に向かって「…名前のこと泣かせちまって」と小さく言えば、振り返った場地さんは顔を顰めて早く仲直りしろよ、と呆れたように言った。仲直り、か。別に喧嘩したわけではないんだけどな。






あれから3日経った。名前からはなんの連絡もないしもちろん会ってもいない。一度自分からメールを送ろうとして、そういえばいつも名前から送られてくるのに返信するだけで自分から送ったことは今まで一度も無かったことに今更気がついて、なんて送ればいいのか分からなくなってやめてしまった。

名前が忘れていったスケジュール帳をいい加減返そうと名前の住むマンションの前まで来て、封筒に入れたそれをポストに入れようとしたとき「あら、千冬くん?」と声をかけられた。

「久しぶりねー」
「あ、どうも…」
「いつも名前が押しかけて本当にごめんね?」

久しぶりに聞いたのんびりとした柔らかい声は名前の母親のものだった。

「名前なら部屋にいるけど、あの子まだ熱下がらなくて…」
「え?」
「あれ、聞いてない?もう3日も寝込んでるのよ」



不用心というかなんというか。年頃の娘が1人で寝ている部屋の鍵を、いくら幼馴染とはいえ男に渡してしまうとは。名前の母さんは昔と変わらずどこまでものんびりした人だなと思った。そういえばおばさんが作る甘い菓子が好きだったな、なんてことも思い出す。それはこの部屋にあるものがどこか懐かしい、見覚えのある家具ばかりだからだろうか。


「…名前?」

名前のネームプレートがかけられたドアをノックすると、なかから布団の擦れる音と人の気配を感じた。それから掠れた声で「千冬…?」と小さく俺の名前を呼ぶ名前の声がした。

「入っていい?」

返事はなかった。でも少ししてからパジャマ姿でおでこに冷えピタを貼った名前が静かにドアを開けた。

「なんでいるの?」
「おばさんが鍵貸してくれたから?」
「そうじゃなくて」
「これ、返しに来た。つーかお前は寝てろよ」

冷えピタを貼った名前のおでこに軽く触れると、手のひらにじんわりと熱が伝わってきた。


大人しくベッドに横になった名前に「気分は?」と聞くと「あんまりよくない…」と力のない返事が返ってきた。

「手帳の、」
「ん?」
「中見た?」
「写真だけ」
「そう…」

それきり黙ってしまった名前との間に微妙な空気が流れる。名前と一緒にいて気まずさを感じたのはこれが初めてだったからどうしていいか分からなくて、気が付けば「馬鹿でも風邪引くんだな」なんて言っていた。

「千冬のせいだよ」
「は?人のせいにすんな」
「……ごめん」

いつもの調子で返そうとしたのに。ごめんと謝って布団の中に潜り込んだ名前の鼻を啜る音が聞こえてきたからやっぱり俺はどうしていいか分からなくて

「…嘘だよ、俺のせいにしていいから」

「だから泣くなよ」

布団から少しだけ出ていた名前の頭をできるだけ優しく撫でた。多分、泣いて不貞腐れた幼い名前に、そうやっているおばさんを見たことがあったから。

「名前の泣いてる顔見るの、苦手なんだよ」
「ごめん千冬…」
「うん」
「ごめんね、」
「…うん」

いつもより掠れた名前の声を聞きながら、もう元には戻れないんだなと思うと、どうしようもなく泣きたくなった。
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