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文化祭が終わってからも俺たちの関係は特に変わることはなかった。三ツ谷くんとの間に何があったのかは結局聞けないまま、あの日以来名前に触れるのがどうしようもなく怖くなった。しかし反対に名前から俺に触れることが増えた。
場地さんに殴られて帰った日、ぼろぼろになった俺を見て泣きながら抱きしめれた。何があったのかと聞かれても何も答えられなかったけれど、それでも名前に抱きしめられているとひどく心が落ち着いて、よく知った匂いと温もりにやけにほっとした。場地さんが東卍を辞めてからずっと毛羽立っていたところが優しく撫で付けられたように穏やかな気持ちになった。名前から触れられるたびにやっぱり手放したくないって独りよがりな感情が顔を覗かせる。その度にごめんって心の中で謝っていた。このままじゃだめになるのは時間の問題だって分かっていたけれど、ずるずると先延ばしにして変わり始めたお互いの感情に気付かないふりを続けていたのは多分名前も同じだった。
「……っ、聞きたくないんだってば!」
場地さんの病室に向かう途中、名前の声が廊下に響いた。その言葉に身体が思わず強張ってしまう。あぁ、もう終わりなんだってどこか冷静な頭で考えていた。
「名前!」
「…っ、千冬?」
走って逃げる名前の腕を病院の中庭で捕まえると一度びくりと肩を大きく跳ねさせたけれど、振り返り俺を見た瞬間ほっとしたような顔をした。
「…三ツ谷くんの話、聞かなくていいのかよ」
「わたしは話すことなんてない」
「バーカ」
「い゛っ」
デコピンしたところを手で抑える名前に「痛いよ」と睨まれた。痛くしてんだよ、バカ。
「ないわけねーだろ」
「………」
何も言わない名前を静かに抱き寄せると、おとなしく俺の腕の中に収まった名前がしがみつくようにぎゅっと背中に腕を回してきた。ほんっとズルいよなあ、と思わず苦笑いがこぼれた。そんなことされたらやっぱり手放したくないって思ってしまう。でも俺から離してやらないといけないのも分かっていたから、もう一度確かめるように名前を強く抱きしめてからゆっくりとその身体を離した。
「行ってこいよ、三ツ谷くんのとこ」
「…いやだ」
「名前、」
あぁ、やだな。やっぱり離したくねーや。名前が好きだって心が叫ぶ。なんとなくだけど、三ツ谷くんが名前と付き合わなかった理由が分かった気がした。好きだから手放すって、多分こういうことだ。
「まだ好きなくせに」
「……っ」
「あー、もう泣くなって」
服の裾で涙で滲む名前の目元を拭ってやるけれど、次から次へと溢れてくるそれは止まりそうにもなかった。ひっくひっくとしゃくり上げて泣く名前の姿は幼い頃から変わらない。ずっとずっと、好きだった女の子だ。
「ごめん、千冬…」
「謝んなよ」
心にぽっかりと穴が開くという表現を少女漫画で良く見かけるけれど、あーこんな感じなのか、って三ツ谷くんの元に向かう名前の後ろ姿を見ながら考えていた。身体のど真ん中がまるくくり抜かれたような気分だった。なのに心臓は重たいまま。息苦しくて、気を抜くと涙がこぼれてしまいそうだった。
「お前はそれでいいのかよ」
「まぁ、俺が力不足だっただけなんで…」
名前と三ツ谷くんのやりとりを聞いていたらしい場地さんは俺を見て顔を顰めた。どうやら今の俺は相当情けない顔をしているらしい。
「初恋ってやっぱ実らねーもんなんスね」
「おい」
「……すんません」
無理して笑おうとしてみたけれど、失敗に終わったらしい。呆れたような顔をした場地さんはそれ以上何も言わなかった。
「今、正直ちょっとホッとしてるんスよ」
ふぅ、と息を吐き出すと少しだけ心臓が軽くなった気がした。名前といると心から幸せだなと思うし、ふわふわとした感情に浮き足立つ気持ちももちろんあったけれど、それ以上にいつも不安だった。いつこの関係が終わるのかと、毎日不安で仕方なかった。
「はは、情けねー…」
「いーんじゃねーの、そういうのも」
俺は良くわかんねーけど、と続けた場地さんからの不器用な励ましに思わず吹き出すと、照れ隠しなのか1発頭を叩かれた。
「名前がさ、今度千冬ぼこぼこにしたら俺のこと殴るって言ってたわ」
「はは、つよ」
「お前だって大事にされてんじゃねーか」
「…そっすね」
俺にとって名前は特別で、名前にとっても俺は特別だったと思う。でもそれは同じ気持ちではなかった。
病院からの帰り道、なんとなくまだ家に帰りたくなくていつもは通らない道を歩いた。名前はちゃんと三ツ谷くんと話せただろうか。2人が付き合ってもおめでとうなんて絶対ぇ言ってやらねー、と思ったけど、名前が幸せならそれでいいと思う気持ちもあって。曖昧な感情を持て余したままひたすら足を動かした。
…こんなもんなのか、初恋の終わりって。意外と呆気なかったな。こんなに早く終わってしまうのなら、もっと名前に気持ちを伝えておけば良かった。もっと名前の喜ぶことをしてやれば良かった。そんな後悔ばかりが浮かぶ。結局、一度も名前から好きだとは言われなかったな。
すぐに諦められる気はしないけれど、前に名前が言っていたように時間が経てばこの思いも消化できるんだろうか。ぽっかり空いた穴も綺麗に塞がって、俺が名前以外の女の子を好きになる日が来るんだろうか。そんな日が一生来なければいいのにと思ってしまうことぐらい、しばらくは許してほしい。
笑った顔も怒った顔も、昔からずっと好きだった。いつから、なんてもう覚えていないぐらいずっとだ。幼い頃、泣いてる名前を泣き止ませられないのが情けなくて、名前の泣き顔を見るのが嫌だった。当たり前のように映画に誘ってくれるのも、毎年スケジュール帳に俺の誕生日を書いてくれているのも、いつも嬉しかった。風邪を引くと誰よりも心配してくれるのが擽ったくて、でもいつでも俺を優先してくれるのがどうしようもなく幸せで。自分に向けられている感情には鈍感なところも、そのくせ他人の感情にはどこか鋭いところも、背が高いところも、名前の持つ緩い空気も、三ツ谷くんに片想いしているで姿さえも、全部全部好きだった。大好きだった。
「あーあ、めちゃくちゃ好きだったなあ…」
目の奥が熱くなって視界が滲む。想いと一緒に溢れてきたそれが零れ落ちてしまわないように慌てて上を向いた。鼻の奥がツンとして、小さく漏らした声は掠れて震えていた。