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教室の窓にかけられた淡いクリーム色のカーテンが風で膨らむのをぼんやりと眺めていた。梅雨の湿気を含んだ生ぬるい風が吹いたところで教室内の澱んだ空気は大して良くならない。むしろじっとりとしていて気持ち悪い。梅雨なんてなくなればいいのに。洗濯物は乾かねーし、ルナマナ公園に連れて行ってやれねーからストレス溜まるし、バイクにも乗れねぇし。そんなことを考えていたらぽつりぽつりと雨が降り始めた。
「…ちょっと考えさせてほしい」
この一言を思い出しては自己嫌悪で死にたくなる。苗字は絶対うんって言ってくれると思っていたなんて、自惚れんのも大概にしろよ俺。つーか自分で自分に引く。どんだけ自意識過剰なんだよ。
正直苗字と顔を合わせたくはなかったけれど、ここで俺が学校をサボったら苗字が気にするよなぁ…と思ってちゃんと来たというのに、「あれ、苗字休み?誰か聞いてる人いるー?」という担任の声に首を縦に振るものはいない。朝のHRが始まっても、授業が始まっても右隣は空席のまま。
苗字が休みやがった。しかも無断てことはサボりだろう。くっそ…マジでふざけんなよあいつ。
苗字は昨日あれから千冬のところへ行ったんだろうか。だとしたらもしかして朝帰り、とか。千冬もインフルならさすがに手を出すほどの体力はないかもしれないけれど、看病とか言って朝まで一緒にいたとか…そんでそのまま寝落ちして今もまだ一緒にいる、なんてこともあるんじゃないか?俺の考えすぎであってほしいけれど、本当にありえそうだから怖い。苗字は場地相手ですらあの距離感なんだ。小さい頃から一緒に過ごしてきた幼馴染なんてもっと距離感バグってるに決まっている。つーかいくら幼馴染だからって、男の部屋に1人で上がるなんて無防備すぎねぇか?それだけ千冬のことを信用しているということなんだろうか。
1人でいるとどんどん思考が悪い方向へと傾いていく。
「はぁ…」
思わずこぼれ出た深い溜息は誰にも拾われることなく、湿気を含んだやけに重たい空気に溶けてなくなった。
午前の授業が全て終わっても苗字は学校には来なかった。俺、何しに来たんだろ。今日は部活もないし帰って課題でもしよう。今の時間なら家に誰もいないしひとりで静かにできる。そう思って鞄を手に取り昼休みに入り騒つく教室を出た。
廊下ですれ違った友人と「三ツ谷帰んのー?」「おーまたな」なんて言葉を交わしながら昇降口に向かうと、昼休みに入ったばかりで誰もいない下駄箱の前に大きめの紙袋を持った苗字がいた。いや、今来んのかよ…。
「あれ、三ツ谷くん帰っちゃうの?」
「…そういうお前はこんな時間までサボってなにしてんだよ」
「あー、えっと…まぁ、色々…?」
色々ってなんだよ、とは聞きたいけど聞けなかった。
「ふーん…じゃあな」
なるべく抑揚のない声でそう言って、靴を履き替えて歩き出そうとした俺の腕を小さな手が掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
「…なに?」
「あの、これ」
これ、と言って苗字が差し出したのは持っていた紙袋だった。
「遅くなっちゃったんだけど、その、誕生日おめでとう」
「え?」
「本当はちゃんとプレゼント用意したかったんだけど時間なかったから」
手作りで申し訳ないんだけど…と苗字が差し出した紙袋を受け取り中を覗くとカラフルなクリームが乗ったカップケーキが数個、可愛らしくラッピングされていた。
「これ作るために午前サボったの?」
「えー…うん…」
「お前バカだろ」
「だってもうとっくに誕生日過ぎてるから早く渡したかったし…」
恥ずかしそうにしながらそう話す苗字にじんわりと胸の奥が温かくなって、さっきまでのモヤモヤとした気持ちがゆっくりと解けていく。いつもそうだ。苗字に振り回されて自分らしくない嫉妬をして、でも苗字の行動ひとつでそんなのは全部どうでも良くなる。
いつのまにこんなに好きになっていたんだろう。
そう思えば思うほど、昨日焦って言ってしまった言葉を取り消したくなる。もっと大切にしたい。そう思っていたのに、苗字はいつだって俺の予想の斜め上を超えていくらしい。
「あと、昨日のことなんだけど、」小さな声で切り出した苗字に、心臓が一度どきっと大きく鳴って緊張で途端に息苦しくなる。
「前向きに検討したいとは、思ってます…」
俺から目を逸らして相変わらず顔を真っ赤にしてぼそぼそと小さな声でそう呟いた苗字に、緊張していた全身の力が一気に抜けてたまらずその場にしゃがみ込んでしまった。でも心臓の鼓動は未だうるさいままだ。
「あー…やばい…」
「えっ、あの…」
「めちゃくちゃ嬉しい」
そう言えば赤い顔をさらに赤くした苗字が「その顔ずるい…」とまた俺から目を逸らした。俺からしたらその顔の方がずるい。可愛いけど。そんなことを考えていたらまた苗字が俺の予想の斜め上をいく分けわかんねーこと言い出した。
「でっ、でも今すぐは無理だから!」
「は?」
「心の準備をさせてほしいというか…」
「…ちなみにそれってどれぐらい?」
「3ヶ月…?」
「却下。1週間でなんとかしろ」
「それは無理!」
「3ヶ月は俺も無理」
3ヶ月ってふざけてんのかこいつ。どんだけ待たせるつもりだよ。
「え…じゃあ2ヶ月」
「舐めてんのか」
「いや、ほんと無理なんだってば!今でもかなりいっぱいいっぱいだから…!」
そんなもんは付き合ってる間にしろ。と言いたいけれど、俺とまともに話せるようになるまで1ヶ月かかったことを考えると仕方ないのかもしれない。「お願いなんで2ヶ月ください」と頭を下げた苗字に渋々了承した。
「ちなみに準備期間中どこまでしていいの?」
「どこまで、とは?」
「キスは?」
「だ、だめ!」
苗字にぐっと顔を近付けると、勢いよく後退った。
「手繋ぐのは?」
「だめ…」
「もうどっちもしたのに?」
「み、三ツ谷くん!」
「じゃあ、一緒に帰るのは?」
「そ、それぐらいなら…」
じりじりと壁際に追い詰めた苗字の目を見下ろしながら、たまには振り回されんのも悪くないけど、やっぱり真っ赤になって狼狽える苗字を揶揄う方が性に合ってるな、なんて考えていた。でもあんまイジメすぎるとまた距離を取られそうだからこの辺にしておこう。
「あと一個だけいい?」
「なに?」
「2人で会うなとは言わねぇけど、」
「千冬の部屋で2人きりになるのはやめてほしいんだけど」
「…………わかった」
今やけに間があったけど。ホントに意味わかってる?ともう一度顔を近付けると「わ、わかってるから!三ツ谷くん近い!」と慌てて俺から距離を取ろうとする苗字の様子を見ているとやっぱり3ヶ月ぐらい必要そうだなと思った。