ファム・ファタール/ベクター皇子

――お母様へ。 先日送った薬は飲んでいますか。妹たちはそろそろ嫁にいく歳になりましたが、それらしい相手はいるのでしょうか。もし良ければ、私のほうでも相手を探してみます。

忙しい日だったが、日の落ちる前に対外文書の確認など諸々を終わらせた。
執務室に残り、下女に茶を持って来させた。一口飲んでから、昨晩書きさしになってしまった家族への手紙の続きを、と思って筆を取った。私は字が書ける。そのためにこの戦乱の時代に、女の身でありながらこのような地位にまで昇ることが出来た。学問をさせてくれた父と母のおかげだ。貴族も平民も、女はやはり嫁するが常。私の両親は、私が母の腹の中にいたときから、もし女が生まれても学問をさせ、身を立てさせようと意見が一致したそうだ。その点において、両親は慧眼だったと胸を張って言える。才覚があったのか、私は学問の道をするすると登っていった。
学問を修めてすぐは代筆屋に見習いとして入り、それから書師として貴族の生徒を何人か持った。その中のひとりの紹介で、王宮の書史整理に雇われた。そこで王妃様のお気に召したらしく、目をかけて頂いた。王妃様はお美しく、聡明な人だった。女らしく、たおやかで、しなやかで、悪人にすら微笑みかけるような人だった。彼女の計らいで、私は皇子の補佐につけて頂いた。最初はお断りしようとしたが、王妃様はどうしてもと私を推した。これは男と女の仕事を合わせた中で、最も羨望のまなざしを向けられる仕事のひとつだ。自分の能力に自信はあったが、自分が若い女であることも十分に承知していた。老年の重鎮役人たちもいる中で、皇子の秘書のようなことを私が行うことで軋轢が生じるのではないかと懸念した。だが、王妃様が私にその申し入れをした理由は、私が心配したこと、すなわち歳若いからでもあったのだった。皇子は同年代のご友人と呼べる人がいらっしゃらない。お立場からして仕方のないことではあるが、それには私も同情した。皇子は国民から強い人気があり、強い父と美しい母がいる。羨ましい限りの恵まれた人ではあるが、一個人としての生活は無いに等しかった。皇子は使用人にも頻繁に声をお掛けになった。とても穏やかで優しい気質は王妃様譲りであった。皇子は貴族の子弟と較べても、相当にご自由に振る舞われていたが、やはり皇子と友人として接する人間はいないのだった。
そこで王妃様が私に目を付けたのだった。ただの同年代の人間を無理に友人役としてあてがうのは抵抗があるが、書字の能力があるこの娘なら、皇子の補助として側につけても周囲から文句はでるまいと考えたようだった。王妃様自らに熱心に口説かれては無下にお断りできようもなく、とうとう私は首を縦に振った。
そうして私が皇子の補助に付いてから、懸念したほどは反対する者はなかった。むしろ、反対した人間はいずれも能力の無い人間だったことが段々と分かった。彼らは次々に零落していった。
ここは、薄気味が悪いほど頭が切れる自分が、はじめて能力を真から発揮できる場所だった。友人のいらっしゃらない皇子に同情したのも、自分が似たような経験をしていたからだった。私は頭が良すぎた。同年代の人間とは話が噛み合わず、娯楽も楽しめず、常に孤独を感じた。程度を合せられる器用さと柔軟さがあれば良かったが、気位の高さゆえに、興味の生じないこと――はっきりと言えばくだらないと思っていた――に興味を持つふりも出来なかった。生き方が不器用だった。人は頑固と思うのだろう。友人と呼べる人間はいたが、彼らは私を別世界の人間かもしくは枠組みの違う人間として扱っていることを常々感じていた。
人に合わせようと努力はした。結局のところ、心から楽しいことはなかった。人がどのように娯楽を楽しいと感じるのかという仕組みを機械的に理解しただけだった。自分が人の中で生きづらい人間だとわかったから、学問において秀でる事を早くに決心できた。仕事ができればもっと高い次元の人間の中で過ごせるだろうと踏んでいた。そして、今、この仕事をしている。確かにかつての学友たちよりは知識・経験豊富な人びとが大勢いる環境だ。生きづらさは解消されなかったが、自分の能力を発揮している実感が持てる。だから今は、昔よりもずっと、自分の生を感じられる。
母への手紙には、いつのまにか王妃と皇子のことばかり書いていた。王妃様はお美しく…皇子は聡明で…、と。我が事ながら、王家の方々に夢中な自分がおかしくて、次の休暇に実家に戻った時にはきっと母にその事をからかわれるだろう。そろそろ結婚した方が良いのは妹よりもお前じゃないの、と小言を言われる場面まで想像して苦笑いした。

翌朝、王がお倒れになった。勇ましい王であったが、寄る年波には勝てぬと見えて、前々から体調が芳しくなかった。しかし、ついにほとんど動けなくなってしまうと、家臣一同は不安に駆られた。国の名医も、加持祈祷も効き目はなく、王は衰弱するばかりだった。
ある日、王は戦加持祈祷の類をお断りされた。水路工事の許可について、お話をしに伺ったとき、王は寝台に伏したまま「自らの力で運命を切り拓いた人間にとって神頼みはふさわしくないのだ。」と呟かれた。また、自らの最期まで、皇子に王位を継がせる気はないともお話された。
しかし、王がお隠れになるのも時間の問題で、しかも戦中の国にとって先導する王が倒れたままという訳にはいかなかった。そこで、皇子・ベクター様が王位は継がぬまま、しかし、次期王として王の代理を務めることになった。これには王妃様の強い後押しがあった。皇子は元々優しい方で、虫も殺さぬような人。本人も大層悩んだが、結局は彼も王代理の覚悟を決めた。皇子が王代理を務めることを国民へ告げる日、王妃様は彼に言った。
「ベクター、頼みましたよ。」
王妃と皇子として、また、親子として、二人の間の葛藤は想像に難くない。おそらく皇子の悩む姿を間近でもっとも長く見ていたのは私だった。王代理を宣言する前日に、彼は翌朝国民の前で立つはずのバルコニーで言った。
「私は皇子なのです。王位を継ぐために生まれた。この国に平和をもたらさねばなりません。」
彼はいま、同じ場所で国民に歓喜を持って迎え入れられている。新しい時代の幕開けを皆が喜んでいる。私は後ろに控え、皇子の宣言を聞いた。いつまでもここに居て、王家の方々にお仕えし、お守りしようと再び心に誓った。
皇子がまず着手したのは、隣国との和平交渉だった。あまりに長い間続いた戦争は、軍だけでなく一般国民をも疲弊させていた。慎重に、しかし大胆に、交渉は行われた。皇子は王の代理人として、早々に重圧に耐えねばならなくなった。いつか来るはずの平和な日々を夢にみて、皇子は来る日も来る日も、交渉に励んだ。私もほとんど昼夜を分かたず職務に励んだが、皇子の足元にも及ばなかった。
ある夜、緊張のあまり眠れずに中庭へ降りると、そこに皇子の姿があった。南の空で光る星々を眺めていた。皇子が星に引かれて、どこか遠くへ飛んで行ってしまいそうで、彼の名を呼んだ。
「ああ、***。こんな夜更けにどうしたのですか。」
「皇子に同じことを言おうと思ったのですよ。…もしかして、ほとんどお休みになっていないのではありませんか。」
「今日だけです。眠れなくて。でも、貴女に心配させてしまうからもう戻ります。」
「いいえ…、戻りたくなければここに居てください。つかの間の休息、お邪魔いたしました。」
「少し、一緒にお話しませんか。」
「ご命令とあらば。」
「…命令ではないのですが。真面目ですね。ふふ…。」
「皇子を補佐し、お守りするのが私の務め。そして、誓いでもあります。」
「貴女は強い人だ。母上が私の補佐にと、強く推薦した理由が分かります。」
「お褒めに預かり光栄です。ですが当然の事です。王妃様がいらっしゃらなければ私はこのような恵まれた暮らしはできませんでした。この歳です。ふつうの町娘なら、とうに結婚し、子どもを産んで、家庭の仕事をしています…。市場で魚や野菜を売っていたかもしれません。」
「貴女の妹たちはもう結婚したのですか。」
「いいえ。する気はあるようですが。」
「…貴女は、誰かに嫁ぐ気はあるのですか。」
「ありません。ですが、王家にお仕えし続けることができる相手とならばしても良い、と思います。」
「次期大臣候補の中には独り身もいますでしょう。貴族の中には貴女に思いを寄せる人もいたと思いますが。」
「先ほどの通り、職務を続けられる相手でしたら考えます。彼らは私に仕事を続けさせたくないと思っているようです。」
「ふふふっ、真面目。女性には珍しいくらい、堅物ですね。」
「それくらい、王妃様に御恩を感じているのです。かえってご負担になっていないと良いのですが。」
「いいえ、母上はいつも喜んでいます。私も、貴女なしの日々は考えられません。…あ、見てください、あの月を。私は、月の影が女性の横顔に見えます。月は皆が愛でます。でも、目立たないように月に寄り添う女性がいて、月が存在するのです。あの女性は貴女のようではありませんか。」
「皇子は月ですね…。身に余るお言葉、感謝いたします。」
「***、私は…、」
「皇子、雲が。月にかかります。その先を聞くのは不吉な予感がします…、失礼いたします。」
行きどころを失った掌を見つめ、皇子はうなだれていた。これが、私が皇子に行った唯一の裏切りだ。

皇子と大臣の尽力により和平の交渉は滞り無く進んだ。あと一歩で調停が完了する。王には内密に進めていた交渉も、隠しきれなくなった。王は怒りを露わに皇子を寝所へ呼びつけた。王の怒声が寝所から漏れ聞こえる。王妃様が王を宥めている。扉の前まで付き添った私を振り向いて皇子は言った。
「心配しないでください。」
それが最後に聞いた愛しい皇子の言葉だった。
王の怒声、皇子の弁明、王妃様の細い声。この重い扉を押し開く権限が私にあれば良いのにと唇を噛んで皇子を待った。だが、彼はいつまでも寝所から出てこない。すれ違う侍女たちが不審げな顔をして廊下を行く。とうとう警護の交代の時間になって、私は肩を叩かれて我に返った。
「***さま、いくらなんでも静か過ぎます。無礼は承知ですが入りましょう。」
「あ、…そうですね…。いいわ、私が開けます。」
無礼を咎められるかもしれないが、もはや待っていられない。扉に手をかけたその時、扉が向こうへ引かれた。
「…皇子!」
ゆらりと私の横をすり抜けた皇子は微かに笑みを浮かべていた。手にはいつも腰に下げている剣を、ずるずると引きずって、私と警護の者が見えないかのように歩いて行った。皇子を追いかけるか、躊躇したその瞬間、錆の匂いが鼻を覆った。暗い寝所の中からその匂いは漂ってきていた。ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。
其処にあるものは予想していた。広がる赤い絨毯。折り重なるように倒れた二人の人間。砕かれた髪細工。
「あ、あ、ああああ゛あ゛…あ、あ…。アアアアアアアアアアアアアッ…。」
涙がぼたぼたと血の海に流れ、微かに波紋が広がった。倒れ伏した王妃様の背に赤い花が咲いていた。
「王妃様、王妃様…。」
「王よ、…何故…、何があったのだ…。…っ、皇子は!」
警護の声が遠くに聞こえ、私は血だまりの中に座りこんだまま泣き続けた。

ちち、ちち、と無邪気な鳥の声で目を覚ますと、自分の部屋にいた。
看病に来た侍女の話によると、王の寝所で我を失った私は、数人がかりで運びだされ、看護室でいつの間にか眠りに落ちたらしい。あの時一緒だった警護の者が、事態を城中に伝え、それから皇子の捕縛へと向かったそうだ。だが、彼は城の階段の下の、地下倉庫で死体となって発見された。無論、王と王妃、ならびに警護人殺害の容疑は皇子に向かった。
私は皇子の変貌を最初に見た人間として、大臣や軍から繰り返し証言を求められた。
「私は王の呼び出しに応じた皇子が、王の寝所へ入ってから何時間も待ち続けました。中でなにがあったかは存じません。王のお怒りの声が聞こえました。それから王妃様と皇子の声が少し。…いいえ、会話の内容はわかりません。大きな争うような音はまったく気づきませんでした。…交代に来た警護官に話かけられたときに心配になりまして、扉を開けようとしました。ちょうど皇子が部屋から出ていらっしゃいました。剣を右手に下げていました。…様子? 少し俯いていたのではっきりとはお顔は見えませんでした。皇子はそのまま廊下を歩いていきました。部屋に入ると王と王妃様が倒れていました。王妃様の背中に血が広がっているのを見て、私は度を失いました。それからは覚えていません。」
何度も同じことを繰り返すうち、これが本当のことなのかわからなくなっていった。まるで芝居の筋書きを読み上げているような現実感のなさが、結果的に辛い現実から回復するまでの猶予をくれた。本来なら、こうした事件が起きたときの処理には皇子に関する雑務担当の私も関わるのだろうが、大臣や侍女たちの計らいで、私は事件の証言を口にする以外はほとんど部屋で寝て過ごした。七晩経ち、ようやく事件の概況がまとまったと大臣から話を聞いた。
皇子にかけられた王と王妃殺害容疑については、白とも黒とも言えない。その現場状況に不審な点が多々あった。
ひとつ、王は心臓の発作による自然死とみられること。
ふたつ、王妃に抵抗の痕跡がなかったこと。
みっつ、なぜ皇子が疑いを持たれる状況で犯行に及んだのか。
よっつ、なぜ、凶器を隠さなかったのか。
また、皇子に、彼を疎んでいた王を殺害する動機があったとしても、王妃を殺害する動機がなかった。王の殺害の邪魔をしたのではずみで殺したのだという推測もされたが、王妃に抵抗した様子がなかったため、その線は外された。あの部屋で何があったのか、知る者は皇子ただひとりだったが、いくら追及しても彼は一切に口を噤んでいた。王族内での惨事が外部に漏れぬようにと、関係者に固く口止めをし、事件の追及はそれきりとなった。
しかし、この事件は我が国史上最悪の悲劇の幕開けにすぎなかった。
事件のあと、皇子は監視付きだったが部屋に謹慎するだけの処遇を受けた。容疑が晴れぬ相手であっても彼は王族、手出しすることは躊躇われた。しかも王亡き今、王位継承権は自然と皇子の手に渡る。王と王妃に別の子がいなかったため、血族間の争いが起きなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。王と王妃が亡くなった原因が皇子にあるかもしれないのは皮肉なものだが。王家の葬儀は、皇子の謹慎中に、宰相らによって執り行われた。本来ならば、皇子が彼らの棺の前に立ち、亡き王と王妃が冥府へとまっすぐにたどり着くように祈るものだが、当の本人は葬儀の鐘を耳にしても、まるで興味がない様子だったという。
大臣たちが早急に解決すべき事案は、皇子が王位を継ぐべきかどうかだった。せめて、歳が離れていても弟でもいれば、そちらに継がせることも出来たのにと嘆く声があったが、結局は皇子が王の座を引き継ぐことで意見は一致した。無論、これは正当な継承だ。
惨劇の日から、あっという間にひと月が経過した。いつも通りに食事を持ってきた下女へ、私は今日から職務に復帰することを宣言した。彼女は「皆様に、お伝えします。」と言ったが、眉を下げて心配そうな顔をした。惨劇を見た人間が復帰するというのだから彼女の心配も納得だ。だが、次に彼女の口から出た言葉は予想しなかった。
「回復次第、顔を見せるように、と王が仰せなのです。」
王の寝所の前で別れてから、皇子に顔を合わせるのは今日が初めてだ。惨劇の間から出てきた皇子の顔は、口元以殆ど見えなかった。あの時、彼は私を一瞬でも見ただろうか。
王との謁見の間、その扉の前では警護二名が立っていた。私の顔を見ると、両脇に逸れ、険しい顔で「お気をつけ下さい。」と言って扉を開いた。
ほんのひと月前までは皇子、と呼んだその人は王にのみ許された椅子に腰掛けていた。皇子、いや、王の変貌ぶりは大臣から漏れ聞いていたが、やはり見るに堪えなかった。彼はだらしなく肘かけに肘をついて座っていた。すべての人間を卑しいものと見下す目、卑屈と高慢が交じり合った笑い、かつての彼にはまるで無かったものを、今、王座に座っている人間は持っていた。あれは彼ではない、知らない人間だ。悪魔が化けたのだ。「誰だ」という叫びが喉から出かかったところで向こうから声が掛かった。
「暫くぶりだな。具合はどうだ。働けるのか。」
「…長らくお待たせして申し訳ありません。ご即位のお祝いも遅れました。……新たな王に神の加護がありますように、お祝い申し上げます。」
「今日は、お前に回復祝いをやろうと思ってな。」
にたり、と笑った顔のおぞましいことに鳥肌が立った。彼の合図で奥からひとりの女が連れて来られた。私の妹だった。
「姉さん…。」
妹はかすれた声で懇願するような目で私を見た。
「王よ、一体どうしたことです。なぜ私の妹がここに居るのですか。」
「大事な家族といつでも会える。嬉しいだろう?」
「答えになっていません。実家から彼女を呼んだのですか。」
「そうだ。役どころは…夜伽役とでも言うかな。妹の嫁ぎ先を探していただろう。下手なところへ行くよりは良いだろう。…姉妹だけあって、よく似ている。並ぶと不思議だな。」
「王のご希望に逆らうわけがありません。彼女を、どうぞ、永く寵愛してくださることを望みます。」
「くく、…なんだ、思ったよりは素直だな。さすが聡明な皇子補佐の***殿ォ。…安心しろ。悪いようには扱わぬ。お前とよく似た顔に傷をつけるつもりも毛頭ない。」
「…王のお気が移らぬことを願います。」
「それから、今日からお前は皇子補佐ではなく、侍女長官だ。いいな。」
退出の許可を受け、扉を閉じた。扉両脇に立っていた警護の前にも関わらず、顔に現れる怒りが抑えきれなかった。
腸が煮えくり返る。あの目、あの口。下卑た笑いで人を挑発する態度、彼は私が怒りで我を忘れて飛びかかるのを期待していた。あまりの怒りに目の前が赤く映った。あの男に必ずや復讐を。
「…***様、如何されました。」
警護が肩を叩いた。固く握った掌に食い込んだ爪を伝って、血がぼたぼたと床に斑点をつくっていた。
「……、なんでもありません。復帰初日ですから疲れました。今日は部屋に下がらせてもらいます。」
早口で言い切り、逃げるようにその場を去った。今朝、王からの言付けを伝えてきた下女に、今日は絶対に部屋に入るなと厳命し、自室に飛び込んだ。枕に顔を押し付け、化粧が流れ落ちるのも構わず泣いた。泣き声は枕がすべて吸い取ってくれた。
あの男は誰だ。王ではない、皇子ではない、しらない、悪魔、彼はどこにいるの、王妃様はどこ、助けて、妹を助けなければ、王代理の皇子を助けなければ、王妃様のために、家族のために、妹はいま何をされているのだろう、私と似ている彼女が連れてこられた、あの月夜に彼の言葉を最後まで聞いていれば、これは彼の私に対する復讐か、許さない、殺す、殺して、王家もこの国も滅ぼしてやる。
我に返ったとき、窓の外は暗かった。侍女たちは言いつけ通り、ずっと私を一人にしてくれたらしい。謁見の間を下がってから、ずっと泣いていたのか。窓枠にもたれて城下を眺めると昼のことが夢のように思えたが、掌の傷の痛みが、昼間のことが現実だったことを示している。「なぜ」とばかり頭に浮かんで、消えていく。疑念と信頼の泡沫がぷかり、ぷかりと浮かんでは割れる。皇子と話した晩、自ら遮った言葉の先を思う。王妃様への御恩のためと、私事は抑え、職務を務めた。その気持が皇子を傷つけてしまったのか。だとしても、あの人は、もはや私が仕えるべき相手ではない。昼間に言い渡された新たな役職「侍女長官」は、皇子補佐が王補佐に変わったという意味だろう。彼は私を離す気がない。だから妹を見せしめにしつつ、私を繋ぎ止める枷に連れてきたのだ。どの道、私が逃げれば家族が危ない。家族が殺されるだけならまだ良い方だ。最悪、親類縁者にまで飛び火する。そもそも国の中に私の逃げ場はない。ならば、王の補佐として間近にいることを求められている今の立場を利用すべきだ…。「王を殺すのだ」。誰かが耳元で囁いた気がした。「隣国との戦を再開する」。ここは私ひとりの部屋だ。「戦の渦中に命を落とすこともあろう」。この声はきっと私自身の声だ。「お前自身が王の命を奪う機会も増えるというもの」。王が私を欲するなら、体もくれてやろう。「恨め恨め、この恨みは王の魂を永劫苦しめる」。その代わり、お前の汚れた魂は私の恨みによって煉獄の炎へと引きずり落とされる。「王の魂は次の生を受けたときも、お前の恨みによって苦しむ」。私の魂を代償にしても、王には死よりも深い苦しみを与えねばならない。
夜が明けると、私は侍女長官として最初の仕事に取り掛かった。
「王よ、中断していた隣国との和平交渉についてですが、和平を結ぶことが本当に我が国にとって利がありましょうか。」
「…すると?」
「和平は中止。戦は我が国の有利でした。あと一歩のところまで追い詰めているのです。我が国にも死者は出ることは間違いありませんが…勝利に些少な犠牲は付き物。どうぞ勇猛なご決断を。」
王は満足気に頷き、立ち上がった。






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