忠義/ベクター皇子

 明日の大臣会議に提出される議題について、資料室から本を取ってきた。執務室で目を通そうと思い、深夜、ひとり回廊を渡った。執務室の前で伝令がひとり困惑した顔で待っていた。何か緊急の用件かと尋ねれば、彼は言伝の紙片を渡した。市街地にて、懸賞首を発見したということだった。それは元・王宮付きの神官で、いまは皇子に反旗を翻す活動家たちの代表だった。
 夜も更けたが、伝令の内容が内容である。皇子はおやすみになっているかもしれないが、伝えねばなるまい。いっそ本当におやすみであればどれほど良いことか。寝所にいるはずの皇子のもとへと向かう。この時間ではおそらくお戯れに興じているころだ。私を待っていた伝令も私と同じ考えだったのだろう。もし彼が迂闊に邪魔をすれば、問答無用で首をはねられるとも予想できる。彼の寝所に引きこまれた女たちの半分がそのまま姿を消すことは、いかに彼が非道を働いているかの証だろう。この私とて、いつなんどき胸を貫かれるか分からないが、いまは皇子がお気に召している人間のひとりとして数えられているらしい。彼は女たちの始末さえも申し付ける。それは信頼か、それとも私の心を弄ぶためか。
 皇子の寝室の戸を叩く前に、耳を澄ませた。予想どおり、厚い板の向こうから微かに女の嬌声が聞こえる。皇子のお遊びには困ったものだ。毎日緊張を強いられるお立場、某かの戯れがなければとても心が保たないだろうが、この所は程度が過ぎる。ほとんど毎晩女人を寝室に引き入れている。それも遊び女、家臣の妻、町で気に入った女。誰彼構わずといった有様。これでは家臣に示しがつかない。こんなに皇子が変わってしまったのはご両親が亡くなってからだ。ため息を吐いて、戸の下へ伝令内容を走り書きした紙片をそっと差し込んだ。
「…ベクター様。伝令よりご報告です。」
「ンン、…入ってくればいいだろうに。お前はいつでも開けて良いと言っているはずだがな。」
「夜更けにお邪魔するのは気が引けますから。失礼いたします。」
 戸の向こう、ぎいぎい軋む寝台の上で、皇子が鼻で笑ったような雰囲気がした。扉の隙間から、そっと紙片を差し込むと、向こう側へ引きぬかれた。
「構わぬ。捕縛指示はお前に任せる。」
「承知いたしました。深夜の無礼をお許し下さい。」
「ひひ、たまには此方へ来ても良いんだがなァ。」
 皇子の寝所から離れ、長い廊下を歩む。皇子が変わってしまったことを嘆いても仕方がない。私に目をかけてくださった王妃様への御恩返しになるように、機械的に仕事をこなす。それでも折々は憂鬱な気分に陥る。
 天井は急勾配の細長いアーチを描き、夜には天井のアラベスク模様が見えなくなるほどに高い。かつん、かつんと、残響が背後に溜まりゆく。左手側で中庭に面した回廊に差し掛かると、植え込みの向こうで灯りが揺らめいたような気がした。見張りの衛兵の交代の時間だ。足を早めた。部屋に帰る通路は曲がらず、まっすぐに進んだ。走り出したい気持ちを抑えて、唇を引き締めた。廊下の先には清掃人だけが使う通用口がある。古い木戸で、取手はネジが緩んでいる。立て付けが悪くなっている戸は軽く浮かせて手前に持ってくるようにしないと開かない。びゅう、と風が狭い戸口から吹き込む。石造りのバルコニーへと出て、建物の中へ押し入ろうとする風に負けないように力を込めて戸を戻した。
 このバルコニーは城内でも古い場所だ。半円上に突き出た縁のところどころが欠けている。石と石の間にはわずかながら草が目を出していた。空は黒く、星々が瞬いている。南の空に十字がかかっている。左横には半人半馬の狩人、その上にハデスの花嫁の姿があった。
 冥神ハデスはペルセポネーを愛した。ゆえに攫って妻にした。神話の神々は身勝手で理性に欠けるが、愛を知っている。非難の的にされるようなことも、愛人を手にするために平気で行う。神は愛の力の前に膝を折る。
 私は皇子を愛していた。好きだった。生きることが不得手な者同士の奇妙なつながりと同情から始まって、私は彼を愛していた。許されない。王妃様が生きていたらどんなにお嘆きになるだろう。反逆者、不敬者、身の程知らず。様々な言葉が脳裏に飛び交った。涙がぼろぼろ溢れて、この世で最もみじめな女のように泣いた。心臓が張り裂けそうだった。あ、あ、と自分の嗚咽が他人のもののように耳に入ってきた。
 凭れかかった石面が体の熱を奪っていき、風が頬を覆う。手の甲で涙のあとを擦り、いつもの顔で廊下を戻った。私には明日のため、夜のうちに済ませるべき仕事がある。そして仕事は皇子のため、ひいてはお妃様のためになるのだ。





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