苦いバレンタイン/W

 世はバレンタイン。駅前通りを歩けばカカオの香りが鼻孔をくすぐり、恋人たちは手を結んで笑みを交わす。

 私はひとりベッドで寝てすごしている。さっきまでは眩しく感じていた西日はいつの間にか和らいでいた。布団を厚くかぶっていても、気温が下がっているのがわかった。チョコレートの交換会と称してカラオケに集ったみんなは、いまごろフリータイムで8時間歌いっ放しなんだろう。この前の日曜日にひとりでカラオケに入ったときに、歌えるか自信のなかった洋楽ばかり、アルバム丸々一枚分歌ってきた。大学生の間に留学するつもりでいるから、英語は進学クラスの中でも一番か二番ぐらいの成績をとっている。みんなの前で下手な英語を歌うのは恥ずかしいから、ひとりでカラオケに行った時には必ず英語、あるいはドイツのハードロック系を入れて軽く練習、としている。このまえ通された機種に好きなバンドはレッチリとYesしかなかったのだけど。高校はこの春に卒業する。みんなと遊ぶ時間は残り少し。きっと卒業してしまったら、一生会うことのない子もいる。バレンタインの交換会も今日が最後だった。だから、風邪をひいてしまって行けなかったのは悔しかった。お昼ご飯も心此処にあらずで、レンジでチンしたグラタンを、もそもそと食べていたら、スプーンからこぼしてしまって、Tシャツを着替えた。着替えてシャツを洗濯機に入れたら、特に理由なく洗面所で転んだ。うまく行かない日は寝ているに限る。そう決め込んで、D・パッドは機内モードにしてSNSやらメールは反応しないことにした。部屋にはずっとRammsteinを流している。高校入学のときに買ってもらったこのコンポは新しく曲を入れたくても、CDの部分が壊れて開かない。修理するのも有償になってしまうし、大学生になったらバイトして新しいのを買おう。無線で曲を追加できるモデルがいい。タブレットやポータブルプレーヤーでも音楽は聴けるけれども、スピーカーがないと音に迫力がなくてダメだ。リモコンを手にして、アルバムのランダム連続再生に切り替えた。コンポが選んだのはレッチリの『I’m with you』だった。目を閉じて口ずさむ。

「Factually I…」

 横になっていると心地よいまどろみがやってきた。覚醒と睡眠の真ん中にいる感じ。脳がマシュマロのように柔らかくなったようだ。

 しかし玄関の呼び鈴によって、まどろみは破られた。母が出るだろうと放っておいたら二度目が押された。もしかしたら母は買い物か。カーディガンを羽織ってベッドから降りる。昨日ネットで頼んだ本のことを思い出し、机の引き出しから印鑑を取り出して階段を降りた。キッチンの横に付いたインターホンの画面を覗く。そこにはfから始まるロゴを付けた青いシャツの宅配便のお兄さん…ではなく、思いつく限りで病気をしている時に最も会いたくない人物が立っていた。微風に彼の赤い髪が揺れている。

「ええ…。」
「いけませんねえ。女性がそんな下品な声を出しては。」
「何の用。」
「おやおや。さきほどお母様から貴方が風邪と伺いましたのでお見舞いに。お邪魔でしたか。」
「邪魔。」
「寒いんだよ、いいから早く開けろ。」

 インターホン越しでも聞こえるようにため息を吐いてから玄関へ向かった。扉が開かない限り、帰らないだろう。ずっと外に立たせておいても、帰ってきた母と鉢合わせしてしまうだろう。のちに無用な説教を受けるくらいなら、素直に籠城を解いた方がいくぶんマシである。

「お邪魔しますよ。」

 勝手知ったる他人の家、とばかりに先に部屋に戻っていろと言って、Wは台所へと向かった。見舞いに紅茶でも持ってきたのだろうか。蛇口から水が吐き出される音がする。布団に潜ってWを待つ。

「おい、入るぞ。…っと、あぶね、床に雑誌置くなよ。あ、台所借りたぜ。」
「お茶? …そういえば喉渇いてた。んん、おいしい…。」
「お前の好きなやつ。」
「ハロッズの17。」
「正解。すばらしい回答だぁ! …感心するよ。よく分かるな。」
「だって私が好きなのって、これとマリフレのダージリン。Wが覚えてる限りの、私の趣味の紅茶って、これ位でしょ。」
「高校生のくせに贅沢なヤツ。」
「Wだって歳は同じじゃん。」
「俺は家族の趣味とか、仕事で貰う。」
「お酒飲める歳になったらワインとか貰うのかな。高級ホテルのバーで接待とか。」
「かもな。今も酒を勧めるやつは時々いるけどよ…。お前の誕生日には俺が連れてってやる。」
「やったー。KCホテルのブルーアイズフルコースがいい。」
「このバカ。」
「期待してるよお、デュエルチャンピオンくん。」

 Wに対して、この秋から編入した学校ではうまくやっているのか、やはりプロの道を進むのかなど、質問ばかりして早小一時間が過ぎた。お互いに養護施設にいた時とすっかり雰囲気は変わったけれど、幼い頃に同じ場所で過ごした絆は深い。私は先に一般家庭に引き取られ、Wはそのまま施設に弟と共に暫く居たという。その頃のことは詳しくは話したがらないが、言いたくないことは人間あるものだ。特にこんな境遇の子どもたちは。

 最初にテレビに映ったWを観た時には、かつての施設の友人だとまったく気が付かなかった。その後、デュエルイベントで私がアルバイトをしている時に彼と遭遇、向こうから声を掛けてきた。彼の本来の名前も当然覚えているが、ずっとテレビに映った彼を「W」として認識していたため、本名を呼ぶのが気恥ずかしい。彼もそれで良しとしている。

「突然来るからびっくりした。女の子の家に訪問するのに、突然来るなんて。プレイボーイの名が泣くよ。」
「何言ってんだ。さっきから何度も連絡したのに、お前が出ないんだろ。」

 言われて、通信を切っていたD・パッドを起動させた。母からショート・メッセージ1件、Wからショート・メッセージ2件と着信履歴3件。

「お前が暇してるって言うから、暇つぶしに付き合ってやろうと連絡しても反応がない。お前の母親は、起き上がれないほど悪いという口ぶりではなかったし。急に悪くなったんじゃないかと心配した。」
「うう…、ご、ごめん…。」
「PC中毒のお前が反応しない時点で相当だけどな。何でもないなら良い。」

 少し鼻白んだ様子のWに萎縮してしまう。気心知れた仲とは言え、獅子のような鋭い目を向けられれば怯える。電源を切っていた理由を話すと、ふんと鼻を鳴らして彼は立ち上がった。

「お前が用意したってチョコ、その人数分あるんだろ。」

 首を縦に振ると、「だったら俺が貰ってやる」と私の返答を待たずに彼は下へ行った。半透明のセロハンで個包装にした私の手作りチョコレートを3つばかり手に、戻ってきた。ベッドの縁に腰掛け、セロハンを開く。

「…へー、トリュフ。義理用の定番だな。」
「義理で作ったんじゃないもん。」
「なんだ、今日の集まりに好きな野郎がいたのか。」
「違うけど。女子ばっかだよ。」

 包みを開く間に機嫌が若干戻ったかと思えば、また悪くなった。病人の見舞いに来たと言うが、これでは私の胃の具合を悪くしに来たと言う方が正しいんじゃないか。この気まぐれ男は疫病神だ。病人をいたわる気がないなら帰れ。

「義理で作らない相手ってのは居るのか。」

 質問の意味がわからなくて、大げさに首を傾げてみせた。

「いないんだな。」

 Wが真剣な目を真っ直ぐに向けて尋ねるものだから、迫力につられて曖昧に頷いた。1秒足らずだったはずだが、呼吸が止まりそうな緊張感が走った。母がよく口ずさむ歌のひとつにこんな状況の歌詞があった。手垢のついた青春物語の主題歌。心臓がばくばくと動悸を起こしているけれど、具合の悪い時の動悸の苦しさとは違う。胸が締めあげられるような感じだ。喉が渇いて、舌の付け根が張り付いてしまい、声が出せない。耳が轟々と濁った響きを捉える。きっとこれは血の流れる音。鋭敏になった鼓膜が血の流れを捉えてしまったのだ。そして歯と歯の間が合わさらない。歯茎の付け根がむず痒くなり、ぎゅっと口を引き結ぶことがままならない。

 Wの目に私の顔が映っている。私の目にも彼が映っているのだろう。合せ鏡のように、映った像の目の中に互いの顔が永劫に映り込んでいるはずだ。終わりのない鏡の戯れに思い至ると恐ろしくて、ぐらぐらと目眩がした。ベッドの上で半身を起こして背を壁につけたまま、彼が寄ってくるままにせざるを得なかった。逃げるべきか、声を出すべきか。それが問題だ。問題の回答を探す間に、Wの口が私の口に被さった。渇いた喉が引き攣り、喉の奥で噎せた。肩に手が回される。デュエル中に互いの手に触れることは頻繁にあるが、意思を持って触れられているのは初めてかもしれない。もう片方の手が背を撫でる。男子の手の大きさを感じた。腰を引き寄せられると同時に、魚のように腰が跳ねた。混乱が腰の一点で発散されたことで、ようやく声を出せるようになった。

「帰ってよ。」

 Wは傷ついたような顔をしていた。それは私の立場だ。彼は何かを言おうとしては、言葉が見つからず口を閉じた。それを繰り返して、私の体から離れて、ベッドから3歩下がった。口元を抑えて、泣き出しそうな顔をして此方を見ていたが、くるりと背を向けて立ち去った。

 玄関の戸が閉まる音がした。目を擦って鏡を見る。髪は乱れて、眉を下げ、気の抜けた顔をした女が映っていた。醜い。髪をかきむしって泣いた。Wが憎いのか、彼を拒絶した私が憎いのか、分からなかった。それを考えないで済むように涙が枯れるまで泣いた。涙が出なくなると、風呂に入った。湯船に沈みこんで、髪を水面にたゆたうままにさせておいた。とぷん。湯に顔も沈める。苦しくなって顔を上げた。もし湯が川に通じたら、オフィーリアと一緒に私を黄泉の河へと運んでくれる。ぷかり、ぷかりと流れに身を任せ、世の中の鬱陶しいことに別れを告げる。水面を飾る花の輪は、安い香りの入浴剤がその代わりを務める。

 失恋したわけではないのに、ほとんどそれと同様の感情が次々に湧いた。湯船の両端に腕を張って、だるい体を湯から引き上げた。湯がすっかり冷めていたことに気付いた。髪がびしゃびしゃと体にぬるま湯を伝わせる。





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