悪夢/ベクター

 そいつはぐぱり、と口を開けた。顔の半分の肉が腐れ落ち、白い頬骨が覗いて、びゅると、海鞘を思わせる黄黒い膿が噴出した。口角には海老の卵さながらぶつぶつと青い水泡が生じ、唾液と涙、それから膿が混じりあった澱がその卵に絡みついている。見つめる間にも水泡は弾け膿があらたな膿で塗り替えられていく。べちゃり。目蓋の肉が剥がれ落ちた。歯は抜け、舌もぼろぼろに崩れてもなお、俺を呼ぼうと顎が動く。ぽっかりと開いた口内は赤黒いというよりもタールを塗りたくったように粘り、鼻を覆いたくなる臭いが漂ってきた。やめろ、俺の名を呼ぶな。唇がぎこちなくあの一音を紡ぎだそうとする。何度も呼ばせ、何度も聞いた名前を。お前がお前であることを認めなくてはならないじゃないか。俺が殺したんじゃない、違う、違う違う違う違う違う!

「ベクター…?」

 はっと気づけば白い蛍光灯の灯りが目に差し込み、眼球に影法師がちらついた。おそるおそる目を開けると、蛍光灯の灯りを背に八の字眉で俺を見つめる***がいた。目を逸らしては早鐘を打つ心臓を押さえつけられないかと胸元を握った。弾む息を整えて上半身を起こし、右へ視線を巡らせれば、ソファの横に膝をついて身も世もあらずといった表情の***と目があった。***の足元に見おぼえのある雑誌がいかにもずり落ちた体で転がっている。かつて利用した片桐プロが世界圏のプロリーグで上位入賞したとか言う記事を読んでいた…はずだったがいつの間にか寝ていたらしい。
「ねえ、ベク…」
「何でもねえ、よ。」
 肩に伸ばされる手から、身をよじって逃げる。暑さと蝉の声が一気に現実へ引き戻しにかかる。もう残暑も3分の2を過ぎたってのにえらくご苦労な事だ。ご苦労さん蝉丸巡査ァ!と口の中で嘯いてみる。べったりと汗で張り付くシャツを裾から捲り上げて風を通す。***が雑誌を拾い上げては団扇代わりにばさばさ扇ぐ。あの夢の女はなんだったのか、誰だったのか。記憶の深い谷に落ちて思い出すことが出来ない。あまりに厭わしい前世の記憶を無意識下へ封じ込めてしまったのか。夢のなかでは少しだけ、“皇子”であった頃の自分の思考とオーバーラップしていた。
 俺は、「我」であって「私」だった。鉛の足枷を引きずるようにして、重苦しい心地と共に生きていた事もとうの昔に思い出した。だが、何度夢に見てもあの女は思い出せない。身に着けるは白露色の真珠、天女も嫉妬する羽衣、指には年代を経た貫禄漂う指輪。元はさぞかし高貴な姿だったのだろう。それが、ああもたわい無く。肉の落ちた喉はずうずうと空気が通過する音ばかり発していた。まだ耳触りな余韻が残っている。ふと腹を扇ぐ***を見下ろす。その口が「べ」と音節を紡ぎだそうとするところで突如夢の女に関する全てを思い出した。顔こそ爛れて判別は出来ないが、疑う余地なく、いま目の前にいる女と同じ顔をした女だった。あの女の生まれ変わりか、他人の空似か。叫び出したいと暴れる声帯を、理性を総動員して宥める。仮にあの女の生まれ変わりがこの女、***だったとして、それがなんだ。流転する魂が何の因果か、同じ時代・同じ場所に生まれ変わっただけのこと。間抜け面をして此方を眺めるこいつはもはやあの女とは全く別物だ。ふ、ふう、とぎこちなく息を吐いて頭を落ち着ける。
 俺の心中も知らずにいる、能天気にゆるく微笑む***を膝の上に引っ張りあげて真向いから肩を抱く。背に***の手のひらが張り付く。
「こんどは最期までお見届けします。」
 嘗ては毎夜嗅いだ、甘やかな香りが女の耳たぶから漂った。





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