遥かなる影/ アイム・ノット・イン・ラブ


「きゅうぅぅ、きゅう〜!」


「…んあ?」


「ぐっ、ぐぅ!」


 首筋のあたりにフワフワとした感触を感じ、エルは目を覚ました。まだ頭が覚醒しきっていないのか、ぼけっと口を半開いたまま、寝ぼけ眼であたりを見回す。エルのパートナーのマーシャが、カゴのみを咥えた状態で、エルの顔を覗き見ていた。その今にも涙を零しそうな潤んだ瞳に見つめられ、エルの意識も徐々にハッキリしていく。


「あ、あれ…いつの間にか寝てたっぽい?」


「きゅうぅぅん…!」


「わっ、ご、ごめんごめん、マーシャ! わたしどれくらい寝てた!? お腹空いてない!?」


 エルの胸元に頭を擦り付けてくるマーシャに、エルは慌てて謝った。改めて窓の外を見ると、辺りは既に真っ暗になっており、相当な時間眠っていたようだった。エルはマーシャを抱いたまま起き上がると、付けっ放しだったテレビを消して、マーシャの食事を用意しに行った。


「ごめんね、懐かしい夢見ちゃって、つい居眠りし過ぎちゃったみたい…」


「きゅ?」


「…ほんと、懐かしい夢だった。今さら、見たくもなかったのにさ……」


 ポケモンフーズを皿に盛り付けながら、夢に出てきたゲーチスの顔を思い出す。つい先週見たゲーチスよりも少し若いその姿は、エルの心を掻き乱すには十分すぎるほど、鮮明なものだった。けれど、もうあの笑みが自分に向けられることは無い。もう二度と会わないかもしれないし、会ったとしても向けられるのは、あの怖れの入り混じった軽蔑の眼差しだけなのだから。


(…ああ、わたしって馬鹿だなあ。こうなるのはわかってたのに…)


 ゲーチスが自分のことを何とも思ってないことくらい、イッシュを飛び出るよりもずっと前から知っていた。昔は違かったのかもしれないが、今のゲーチスにとってエルは、娘という肩書きの、都合のいい操り人形でしかなかった。自分がまだ幼かった時は、ほんの少しだけ優しい人だったのに、いつしか自分の野望の為にしか生きられない、冷血な男に変わってしまった。


「…はい、マーシャ。晩ごはん、遅くなってごめんね」


「きゅう…」


「ん? ああ、わたし? わたしはまあ、適当になんか食べて…」


 差し出されたポケモンフーズに手をつけず、心配そうに見上げてくるマーシャに、エルが誤魔化すように笑ったその時、家のチャイムの音が鳴った。今まで一度も聞いたことがなかったその音に、エルは驚いたように目を見開いて、ビクッと飛び跳ねたマーシャを抱き上げた。つい最近、拉致されたという事もあり、何となく警戒しながら玄関へ向かうと、そこには見慣れた丸い背中が立っていた。


「クチナシおじさん?」


「よう。元気か、ねえちゃん」


 チャイムを鳴らしたのは、エルを救出した張本人であるクチナシだった。今までエルがクチナシを訪ねることはあっても、クチナシがエルを訪ねることなど無かったので、エルは驚きつつも快くクチナシを迎える。


「どうしたの、クチナシおじさんの方から来るなんて。とりあえずお茶入れるから、入って入って」


「いいよ、気ぃ使わなくても。それよりねえちゃん、メシ食ったか」


「え? いや、まだだけど…」


「そりゃ丁度いい。ほれ、土産だ」


 そう言ってクチナシは、手に持っていた包みをエルに押しつけるように渡してきた。シンプルながらも決して地味ではない上品な包装には、『ローリングドリーマー』という店の銘が記されており、どうやら中身はスシの詰め合わせのようだ。


「ちょ、ローリングドリーマーって確か、マリエにある高級店の…! こんな良いもの貰っちゃって、本当にいいの?」


「気にすんな、あそこにはよく行くからな。帰りに持たされたやつだから、そんな大層なモンは入ってねえかもしれねえが」


「よ、よく行くんだ、やっぱお巡りさんだとお給料いいんだね。…ありがと、心配してくれたんだね」


 先ほどまで眠っていたせいからか、ボサボサになっていた髪を手櫛で直しながら、エルは申し訳なさそうに笑った。クチナシはさして気にする様子もなく、「まあな」と無愛想に呟いて、エルに抱かれているマーシャの頭をわしゃわしゃと撫でた。毛並みが逆立つ感触が気になるのか、マーシャは「ぐぅん」と低い鳴き声を上げる。


「とりあえずその辺座ってて、なにか飲むもの用意するから。グランブルマウンテンで大丈夫?」


「ああ」


 クチナシをリビングに案内し、数分前まで自分が横になっていたソファに座らせると、エルは急いでコーヒーを淹れに行った。家のキッチンにはカフェほどの設備は無いので、そこまで手は掛けられないながらも、手際よくコーヒーの準備をしつつ、新調した冷蔵庫からお茶菓子のもりのヨウカンを取り出す。すると、マーシャが物欲しそうな目で見上げてきたので、エルは「マーシャの分はまた今度ね」と笑った。その様子を見ながら、クチナシはどこか安心したように息を吐く。


「何だ、思ったより元気そうだな。スカル団の坊主どもから話を聞いて、まさか死んでるんじゃねえかと思って様子を見に来たんだが」


「あはは! せっかく命拾いしたのに、死んでたまるかっつーの! ごめんね、ちょっとボーッとしてただけだから」


 淹れたてのコーヒーと、皿に盛りつけたもりのヨウカンをクチナシに差し出して、エルは自分の分のコーヒーを口にした。コーヒー豆の芳醇な香りが、締め切られたままの部屋の中に広がっていく。クチナシは一口だけコーヒーを飲むと、その真っ赤な瞳をエルに向けた。


「ねえちゃん、俺はアイツらが何者なのか知ってる」


 その言葉に、エルは思わず手に持っていたマグカップを落としそうになった。心の中では動揺しきっていたが、何とか平静を装ってクチナシの方を見る。クチナシは、相変わらずの眠たそうな無愛想ぶりだった。


「と言っても今の段階では、一見シロに見えるグレーってところだけどな」


「…ははっ、やっぱりおじさん、只者じゃなかったかぁ。まあ、あれだけ人やら金やら影でコソコソ集めてれば、そりゃ目も付けられるよねぇ」


「…否定しねえんだな」


「うん。わたしだって、自分が何の片棒担いでたかくらい、わかってるからね。その覚悟は出来てるんだけど、檻の中にブチ込まれる前に、おスシ食べたかったなあ」


「勘違いされちゃ困る、おじさんは只のしがない田舎のお巡りだよ。アイツらをとっ捕まえるのは、もっとお偉い連中の仕事だ。ま、今の段階じゃそこまで踏み切れないだろうがな」


 手錠を掛けやすい様に両手を差し出すエルに、クチナシはムッと顔をしかめて、強めにその手を払った。その仕草が、撫でてくる人の手を払い除けるニャースの仕草によく似ていて、エルは場違いにもクスリと笑ってしまう。マーシャが心配そうに見つめる中、少しの沈黙を置いてエルが口を開いた。


「おじさん、失恋したことある?」


 あまりにも唐突で突拍子のない質問に、クチナシは一瞬虚をつかれる。だが、狼狽することもそれを茶化すこともなく、あくまで真面目に問いに答えた。


「あるよ」


「え、あるんだ。ちなみにどういう風に?」


「…それは今話さなきゃいけねえことか?」


「だって気になるんだもん、おじさんのコイバナ」


 急に無邪気な少女のような眼になって、クチナシを見上げてきたエルに、クチナシは大きく溜息を吐いた。答えてくれないかもしれない、とエルは思ったが、クチナシは律儀にも自身の失恋話を語り始める。


「昔、惚れてた女がいた。でもそいつは…俺の同僚に惚れてた」


「わぁ、修羅場だ」


「仕方がねえから俺は身を引いた。だが同僚は、そいつの気持ちに全く気付きやしなかった。バンバドロに蹴られて死んじまえと思ったよ、その時は」


「あははは! そっか、おじさんにもそういうエピソードがあるんだね」


「勘弁してくれ、もういいだろうよ。今度はそっちの番だぜ」


 柄にもなく困り顔のクチナシに、エルはクスクスと笑って、マグカップを置いた。雨の音だけが聞こえる静かな部屋の中、どこか遠くの方を見つめながら、語り始める。


「わたしはさ…。わたしって存在が、アイツにとっての特別だって、そう思ってたんだよ」


「……」


「別に、恋人だとか夫婦だとか、そういう肩書きが欲しかったわけじゃない。それがたとえ何であれ、アイツがわたしを特別扱いしてくれさえすれば、それでよかった」


 ただ、ゲーチスがあの笑みを見せるのが、自分にだけであってほしかった、それだけだった。けれど、いつしかゲーチスはあんな風に笑わなくなった。自分という存在が、ただの使い捨ての駒になっていくことに、耐えられなかった。


「わたしはいつだって、我が身が可愛いからさ…。好きな男を好きでいる間は、幸せでいられるから、だからアイツの傍にいた。全部自分の為にね」


「幸せじゃ、いられなくなったのか」


「…アイツは、自分の野望を叶えるために、わたしを犠牲にしようとした。それを知った時、そんなことじゃ誤魔化せないくらい辛くて、衝動的に逃げてきたの。『ああ、わたしってその程度の存在だったんだな』って…」


「…それが『失恋』ってワケか」


 クチナシはコーヒーカップを置いて、悲しそうに笑うエルを見た。具体的に何があったのかを計り取ることはできないが、少なくともエルの心を、ゲーチスが裏切ったことは明白だった。ふと脳裏に、エルのことを『悍ましい生き物』と口にしたゲーチスの冷たい瞳が浮かび、他人の問題ながらも胸糞が悪くなる。


「おまけに、5年ぶりに会ったと思えば、相変わらず人のことを都合のいいお人形か何かだと思ってるし…。話してみろっていうから本音を言ったら、全身全霊で拒絶されるし…。100年の恋も冷めるわって話だよね、あはは…」


「……」


「…冷めるはず、なんだけどなぁ」


 その時、エルの瞳から一筋の涙が溢れた。初めて涙を見せるエルに、マーシャが切ない鳴き声を上げながら擦り寄って、身体を擦り付けてくる。エルはそれに応えるように、マーシャをぎゅっと抱きしめた。


「ムカつくこととか、許せないことの方が多いはずなのにさ…。良い思い出ばっかり夢に見るのは、何でなのかな…」


「きゅうん……」


「あんな眼で見られたのに、それでもあの笑顔が頭から離れなくて…。まだアイツのこと愛してるだなんて、わたしホントに往生際悪い……」


 嗚咽交じりのエルの呟きを、クチナシは黙って聞いていた。この娘は本当に、心からあの男のことを愛しているのだ。どんな悪人だったとしても、どんなに拒絶されたとしても、それでも尚。その一途さを愚かだと、誰が笑えるというのだろうか。


「…ごめんね。こんなこと、おじさんには関係無いだろうに」


「気にすんな。…少しはスッキリしたか?」


「うん…まあね。もうどうしようもないことだから」


 エルは乱暴な手つきで涙を拭うと、飲み途中のコーヒーをぐいっと飲み干した。ぬるくなったそれを嚥下すると、先ほどとは打って変わって、明るい笑顔を浮かべ出す。


「さっきも言ったけど、わたしは我が身が可愛いからさ! だからイッシュを出る時、自分が幸せになる為に生きようって決めたの!」


「ぐぅ」


「マーシャがいてくれて、ここで自分のカフェを開くこともできて、おじさんやスカル団のみんなみたいな友達もいて、わたし今すっごく幸せ! だからあんなクズ野郎のことは、さっさと忘れることにする! それが一番だよね!」


 そう笑うエルの声色はハキハキとしていて、決して強がりで言っている訳ではなく、本当にそう思っているようだった。立ち直った、と言っていいかはわからないが、少なくともエルに『失恋』の痛みを乗り越える気持ちがあるということは、良いことだとクチナシは思う。クチナシはニッと笑って、エルの頭にポンと手を置いた。


「ねえちゃんは、逞しいな。おじさんにゃ真似できねえ、羨ましいよ」


「もう、なに言ってるのさ! あんまり自分のことおじさんおじさん言ってると、本当に早く老け込んじゃうよ?」


「もう老けてんだよ。それじゃあ、ねえちゃんたちはカフェを続けるんだな」


「うん、明日からはちゃんと営業する! またグズマがエネココア不足で、暴れ出さないとも限らないし…」


 エルが思いつきでそんなことを口にした瞬間、外の方から『パリィィィンッ!!!』という甲高い音が聴こえてきて、エルとクチナシは目を丸くした。驚いたマーシャがエルの服の中に潜り込み、カタカタと震えている間にも、ガラスが割れるような音は絶えず聞こえてくる。
 エルが恐る恐る窓の外を覗いて見ると、折れ曲がったゴルフクラブを振り回してポケモンセンターの自動ドアのガラスを割っているグズマと、それを止めようと慌てているスカル団のしたっぱ達の姿が目に入ってしまった。


「グズマさん落ち着いてくださいーッ!! せっかく直した自動ドア壊したら、エルさんに怒られちゃうーッ!!」


「うるせえぇぇぇぇぇぇぇっ!!! あのアマ、いつまでも寝てねえでさっさと営業再開しやがれぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」


「うわーっ、糖分不足が限界なんでスカーっ!? 誰かーっ、エネココア持ってきてくださいっスー!!」


「…明日からとか言わず、今から営業再開してきまーす」


「そうした方がいいな」


 怯えるマーシャを撫でて落ち着かせながら、エルは大きく溜息を吐いて、カフェへと向かう。その様子をクチナシは、ヨウカンを食べながら愉快そうに眺めていた。



* * *



「サザンドラ、『だいもんじ』」


 一方、イッシュ地方チャンピオンリーグの遥か地下、秘密裏に建設された城の一角に、ゲーチスは立っていた。手持ちのサザンドラに命令すると、サザンドラの3つの頭それぞれが大きく息を吸い込み、体内で生成した灼熱の炎を吐き出す。炎は大の字に広がっていき、ゲーチス達の目の前に無造作に積まれた衣服や、ドレッサーなどの調度品を燃やし尽くす。それらは全て『L』の為に、ゲーチスが与えたものだった。


「筋書きが大幅に狂いましたが、民衆への求心力はNだけでも十分。計画は予定通り、季節が変わり次第決行します」


「御意…」


 冷徹にそう言い放ったゲーチスに、ダークトリニティは死者の声のような低い声でそう応えて、姿を消した。しかし、ダークトリニティの1人であるCだけはその場に留まり、燃え盛る炎を見つめている。それに気付いたゲーチスは、豪奢なローブを翻して振り返った。


「何をしているのです。早くダークストーンの行方を……」


「…何故、L様の始末を命じてくださらなかったのか」


 氷のように冷たい声で、Cがそう言った。『L』の名前にサザンドラが反応し、3つの首を動かして辺りを見回す。ゲーチスは素早くサザンドラをボールへ戻すと、跪くCのもとに歩み寄る。


「確かに、ワタクシの目論見を真に知る者は、アナタ達とあの娘だけ。あの娘の口から我々の計画が漏れては、全ては水の泡となる。ですが、あの娘に何ができると言うのです? あのような使えぬポケモン1匹しか持たぬ、愚か者に」


「……」


「それと、2つほど忠告しておきましょう。1つは、余計なことは考えず、ワタクシの命令に忠実に従えばよいのです。もう1つは……」


 そこまで口にするとゲーチスは、跪くCの前髪を掴んで、強引に引き上げる。Cは痛みに呻くことも、表情を歪ませることもなく、凄まじい憤怒の面相を浮かべるゲーチスの眼を見た。


「二度とあの娘のことを口にするな、わかったな」


 地獄を這うような低い声でそう言ったゲーチスに、Cは少しも揺らがぬ声で「差し出がましい真似をして申し訳ございません」と謝罪した。ゲーチスが手を離すなり、Cはすぐさま闇の中に姿を消して、この空間にゲーチス1人だけが残る。
 その時、炎の中から「パリンッ」という何かが割れる音が聴こえてきて、ゲーチスは振り返る。バラバラに割れた硝子瓶が、熱風に煽られてゲーチスの足元まで飛んできた。おそらく、ゲーチスがLに与えた、香水の瓶だろう。


「…もとより、海底遺跡の古代文字を解読した時点で、あの娘は用済みだった。そう考えれば、存外役に立ったと考えるべきでしょう」


 誰に向けてでもなく、ゲーチスが呟く。すると、ローブに隠れたゲーチスの右腕が、カタカタと震え出した。ゲーチスはすぐさま左手で右腕を押さえ、強く爪を立てる。そうする度に感じるのは痛みではなく、遠い昔にこの右腕を誰かに触れられた感触。忌々しい傷痕を優しくなぞった、指の記憶。


「…あの娘を手元に置き続けたのは、単なる気まぐれです。ええ、そうです、そうですとも……」


 その呟きは、轟々と燃え盛る炎の音の中に、消えていった。









Just like me,
they long to be,
Close to you.




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