遥かなる影/こどものせかい


 退院したわたしは、ゲーチスに引き取られ、一緒にサザナミタウンで暮らすことになった。そこではじめて、あいつがわたしを引き取った理由を知った。


「このサザナミ湾の海底に遺跡があります」


「いせき?」


「昨年に発見されたものですが、調査隊の一名が水流に流されて死亡した事故がありましてね。現在は調査を打ち切られ、その全容は明らかになっていない。しかし、ワタクシは知らなければならない。その遺跡に、何があるのか」


 そう語るゲーチスの眼は、まるで何かに取り憑かれているようで、わたしはほんの少しだけ怖いと思った。それからもう少し経って、気候が完全に暖かくなると、ゲーチスは手持ちのみずタイプポケモンを連れて、単身海底遺跡の調査に行くようになった。
 わたしの役目は、ゲーチスが持って帰ってきた海底遺跡に刻まれた文字の写しを、解読することだった。解読と言っても、小難しいことは何もなくて、ただそのまま読み上げればいいだけ。しばらくの間はそれでよかったけど、3ヶ月ほど経って遺跡の調査が進んでくると、途中で問題が生じた。


「うにりにひとすぬてみた」


「は? 何と言いました?」


「うにりにひとすぬてみた。そう書いてあるんだもん」


 遺跡の古代文字は、暗号になっている箇所があったらしく、ゲーチスはその暗号の解読に随分と苦労したようだった。それと並行して、ゲーチスは古代文字を覚え始めた。この男は凄まじく頭が良くて、わたしが解読したこれまでの文字群から解読法を独自に導き出して、たった半年で完璧に理解し、解読方法を1冊の書物に纏めた。だから、わたしも負けまいと思って、現代文字をゲーチスから教わった。
 ゲーチスは来る日も来る日も、サザナミ湾の海底遺跡に調査へ行った。その没頭ぶりたるや、わたしはゲーチスが眠るところは愚か、食事をするところすら見たことがなかった。わざわざわたしの面倒を見させるために、小間使いの女の人を1人雇っていたにも関わらず、自分はその世話には一切ならなかった。
 一度だけ、聞いてみたことがある。そこまでして遺跡の調査をする理由は、何なのかと。けれどアイツは、わたしの疑問にまともに答えはしなかった。


「あなたなどには到底、理解できぬ理由です」


 その言い方にカチンときて、「じゃあいいよ知ったことかバーカ!」と吐き捨てたきり、その話をしたことはなかった。
 季節が巡り、わたしがアイツに拾われた冬になっても、ゲーチスは海底遺跡に行き続けた。ただ、さすがに寒さのせいか、今まで通りに長時間の調査をすることは不可能だった。その代わりにアイツは空いた時間で、わたしにポケモンのことを教えてくれるようになった。この世界にはどんなポケモンがいて、どんなタイプがあって、どのタイプがどのタイプに相性が優位なのか、わたしはゲーチスから教わった。それらを何も見ずにそらで言えるようになる頃には、ゲーチスと一緒に暮らしてから1年が経っていた。

 その頃にわたしはマーシャと出会い、マーシャがきのみを拾ってきたことを切っ掛けに、料理をするようになった。ゲーチスは最初、とんだ嫌味を言ってきたが、わたしが1人でも自分の面倒を見れるようになったことがわかると、すぐさま小間使いを雇うのをやめた。雇用関係とはいえ、1年も一緒にいた人だというのに、ゲーチスは少しも惜しくないようだった。

 次の春になる頃には、いよいよ海底遺跡の最奥に到達するかという段階にまで、調査が進んでいた。ゲーチスはもう1人でも古代文字の解読が可能なはずなのに、それでもわたしのもとへ古代文字の写しを持ってきて、解読をするように言いつけてきた。わたしはそれが、少しだけ嬉しかった。必要とされていることが、心地よかった。
 その年の夏の終わりに、ゲーチスは錆びた王冠のようなものを持って、一緒に暮らしていた別荘へと帰ってきた。それを手にしたゲーチスは、珍しく気分が高揚しているようで、それこそがゲーチスが海底遺跡の調査を推し進めた理由なのだと、悟ることができた。ゲーチスはすぐさま荷物を纏めると、わたしにも同じようにさせた。


「エル、早くおいでなさい」


「どこに行くの?」


「『王』を捜しに行くのですよ」


 『王』。それはゲーチスが、よく口にしていた言葉だった。そして、わたしとゲーチスが解読した古代文字に、幾度となく登場した言葉だった。
それからはイッシュ地方を離れて、ありとあらゆる土地を旅した。ゲーチスにとっては、何らかの目星があっての放浪だったようだが、それをわたしに話すことはなかったので、わたしは文句を言いながらもゲーチスに着いて行った。

 その途中で、ゲーチスはダークトリニティの3人を拾ってきた。最初に出会った時は3人とも、酷く痩せっぽちの子供で、わたしはご飯を作ったり服を見繕ったりと、随分と世話を焼いた。しばらくして3人ともふっくらしてくると、ゲーチスに命令されて『王』の情報を集めに行った。子供にそんなことをさせるなんて、とわたしは思ったが、3人は自ら望んでゲーチスの役に立ちたがっていたので、何も言えなかった。

 事が動いたのは、サザナミを離れて2年が経った、ある晴れた日のこと。イッシュから遠く離れた別地方で、ゲーチスは住む人のいない山奥の小屋を勝手に借りて、そこを拠点に『王』を捜していた。そこは自然の豊かな場所で、よく熟したいいきのみが成っているので、わたしもマーシャもとても気に入っていた。そしてその日、ゲーチスが『あの子』を連れて帰ってきた。


「エル、何処です」


「帰ってきたの? 今日はずいぶんとはや……って、その子は……」


「『その子』などとは無礼極まりない。彼こそアナタの『王』となる方ですよ」


 ゲーチスが連れて帰ってきたのは、ゲーチスによく似た髪色をした、酷く小さな少年だった。それが、後にプラズマ団の王、真実の英雄、そしてわたしの弟となる、Nだった。



* * *



「N、これは『モモン』で、これは『クラボ』! 言ってごらん?」


「もも、く…らぼ?」


「そう! じょうず!」


 舌ったらずながらも、精いっぱい頑張ってその言葉を発音したNを全力で褒めると、Nは安心したようにほっと息を吐いた。
 Nは最初、文字の読み書きどころか、人の言葉すら話すことができなかった。物心つく前に森に捨てられ、ポケモンに育てられたので、人としての教育をろくに受けていないからだと、ゲーチスが言っていた。ゲーチスはわたしとN、それからダークトリニティを連れて、サザナミの別荘に戻った。
 わたしの次の役目は、Nに言葉を教えることだった。まずは、『エル』という音がわたしの名前であり、『N』は彼の名前だということをわかってもらうことから始まり、それをクリアしたら次は、Nにとっても馴染みの深いきのみを使って、言葉の練習をした。


「じゃあ次! これは『モコシ』!」


「もぉし?」


「ちがう、モコシ! も・こ・し!」


「もぉし」


「うーん、まだ難しいか〜…」


 Nは言葉を正しく発音するのが苦手だったが、話すのが苦手だというだけで、わたしの言っていることの意味はすぐに理解できるようになっていた。それどころか、わたしが約1ヶ月かけて覚えた現代文字の読み書きも、習い始めて1週間もしないうちに完璧にできるようになっていた。幼児向けの絵本をやっとのことで読み終えたその3日後には、ふりがなもろくに無い辞典を最初から最後まで読んでいる、そんな子だった。Nのような人間を『天才』と呼ぶのだろうと、わたしは幼心に理解した。


「よし、今日はこのへんにしておこっか! おなか空いたでしょ、すぐにご飯つくってあげるね!」


「…ぁ…とう」


「ん?」


「ぁり…とう」


 きっとわたしに『ありがとう』と言うつもりだったんだろうけど、わたしは最初、Nが何と言いたいのか、わからなかった。と言うのも、そう言うNの表情は、まるで人形みたいに無感情なものであったのだ。
 昔のNは、とにかく表情が乏しくて、笑ったり泣いたり怒ったり、そんな顔が一切できなかった。単純に、どんな言葉にどんな感情を乗せればいいのか、どんな感情をどんな表情で現せばいいのか、わからないのだ。わからないものは、表現しようがない。だからわたしは、Nにはちゃんと心があるのだろうかと、心配になったほどだった。


「ぐぅーぐ?」


「ぅん、ごはん」


「きゅあう〜!」


 けれど、わたしの心配は杞憂に終わった。Nは、人間と話すことよりもずっと、ポケモンと話すことの方が簡単で、ポケモンに対してはちゃんと喜怒哀楽を現すことができた。何ならNは、わたしよりもマーシャの方が、よっぽど好きみたいだった。
 そう、Nはポケモンの言葉を理解していた。それが生来のものか、ポケモンに育てられた日々が培ったものかはわからないが、特別な能力であることには間違いない。Nにとって人間の言葉は、馴染みのない外国語みたいなもので、上手くできないのは当然だった。むしろ、外国語を1から学んだと考えれば、習得するのが速すぎるほどだ。


「わたしもマーシャとお話できたらいいのに。そしたらきっと、今よりもっと仲良くなれるのにね」


「ぐぅ?」


「そのような特別な力を持つ者が、そうゴロゴロいてたまるものですか」


「あ、ゲーチス! 1週間ぶりじゃん、今回は長かったね!」


 別荘に戻ってきたゲーチスは、どこか疲れたような顔で「面倒を起こしていないでしょうね」とわたしに釘を刺してきた。わたしは心当たりが無いわけではなかったが、慌てて「するかそんなこと!」と誤魔化した。
 Nを拾ってからのゲーチスは、毎日が毎日忙しいようで、別荘には殆どいなかった。出掛けた翌日の朝に帰ってきたかと思えば、Nの様子を見てから昼に出て行き、それから3日間も帰ってこない、なんてこともあった。曰く、王を守る為、王の助けとなる為の組織を作る為に、とにかく人と金を集めているのだと、わたしにNを任せたその日に語っていた。


「N様、ワタクシの名を言えるようにはなりましたか?」


「れぇちしゅ」


「…エル、どうやらアナタはものを教えるのが、酷く下手らしい」


「めっちゃ頑張ってるっつーの! わたしもNも!」


「ご…ぇん…さい……」


「お気に為さらず、まだ時間は充分にありますからね。今日は新しい本をお持ちしました。以前にお贈りした本は、全て内容を覚えてしまったようですので」


 ゲーチスが差し出した本を、Nは大事そうに受け取って、表紙に書かれている文字を端から端まで読み始めた。それは小難しそうな数学の本で、とても子供に読ませるようなものではなかった。少なくとも当時、いや現在のわたしが読んでも、これっぽっちも理解できないものであることは間違いない。
 けれどNは、文字などろくに読めなかった頃から、とにかく数字を好んでいた。幼児向けの学習玩具(数字が刻まれたブロック)を並べて、勝手に自分で数式を作りそれを解く、なんて遊びをしていたほどだ。


「こんなに頭がいいんだから、すぐに話せるようになるよ! だから焦らなくていいんだからね、N」


「ぅん…」


「あ、そうだ! 『ゲーチス』って言いにくいんだったら、『おとうさん』でもいいんだよ」


「ぉ…とう、さん?」


「そうそう、じょうず! で、わたしは『おねえちゃん』! わたしたちはもう、Nの家族なんだから!」


「ならばアナタも、ワタクシのことを『父』と呼ぶべきではありませんかね」


「こんな性格悪いお父さんいてたまるか! わたしは別!」


「……か…ぞく……」


 Nは不思議そうな表情を浮かべながら、くだらない口喧嘩をしているわたしとゲーチスを見た。『家族』がどういうものなのか、わからなかったのだ。けれど、あの子はゲーチスから貰った本をずっと大事そうに抱きしめていて、『家族』が決して悪いものではないと、そうわかってくれていることは確かだった。この頃はまだ、ゲーチスもNに優しかったし(扱いが丁重すぎて気味は悪かったが)、わたしも家族ができたことを、純粋に喜んでいた。



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