遥かなる影/いのちの記憶


 エルが連れ去られそうになったあの日から、1週間が経った。クチナシやスカル団たちの活躍で、エルは無事にポータウンに帰ってきて、マーシャと共にアローラに留まり続けている。しかし、あの事件以降、エルは自宅に籠りきりになってしまい、ポケモンセンターのカフェも『CLOSED』の看板が立て掛けられたままだった。


「エルさん、大丈夫かな…」


「どうしたんスカね、エル姐さん…。あの日以来、様子が変っスし…」


「こうなったら、オレたちでアイツに喝を入れにいくか!」


「やめな、アンタら。余計な真似するんじゃないよ」


 エルを心配して家に乗り込もうとするしたっぱ達を、プルメリが制した。怒られたしたっぱ達は大人しくなるも、エルを心配する気持ちが治ることはなく、そわそわとした様子で窓の外に見えるポケモンセンターを見つめる。
 するとその瞬間、2階の方から「バキッ!!!」という不穏な音が聞こえてきたかと思うと、脚の折れたテーブルが階段を転がり落ちてきた。見るも無惨な状態になったテーブルに、プルメリ以外の全員が驚いていると、続いて壁を殴るような鈍い音が聞こえてくる。それがグズマの仕業であることを察せない者は、スカル団の中には誰もいなかった。


「な、なんでグズマさん暴れてるの!?」


「ま、まさかまた糖分不足なんじゃ!? このままじゃグズマさん、屋敷全部ブッ壊しちゃうっスよ!」


「あ〜もう〜! アイツ早くカフェ再開しろよ〜!」


 暴れるグズマと、慌てふためくしたっぱ達をに、プルメリは深く溜息を吐いて、窓の向こうに目を向ける。閉め切られたままのカフェの扉を叩きつけるように、激しい雨風が吹いていた。



* * *



 窓の閉め切られたその部屋は、酷く蒸し暑かった。つけっぱなしのテレビからは、陽気な歌声が聞こえてくるが、そのメロディは少しもエルの心を癒してはくれない。いつからそうしているのか、エルはソファに無気力に寝そべって、天井を見つめていた。


「……」


 呼吸をしているのかすら疑ってしまうほど、エルは静かだった。彼女のパートナーのマーシャが心配そうに顔を覗き込んでも、ただゆったりとマーシャの頭を撫でるだけで、何も言いはしない。マーシャがどこからか拾ってきたきのみを持ってきて、エルの胸の上に置くと、エルはほんの少しだけ笑って、きのみを手に取った。


「…ふふ、カゴのみかぁ。大丈夫、ちゃんと起きてるよ」


「きゅぅ……」


「…ごめんね。もう少しだけ、こうさせて……」


 マーシャを抱きしめながら、エルは絞り出したような声を発した。腕の中にマーシャの温かさが伝わってきて、この子は確かに生きているのだと実感させてくれる。その度に、エルは思い出す。誰かに死を願われ、死ぬはずだった自分の命が、拾われた日のことを。



* * *



 わたしの一番古い記憶は、今から18年前の寒い冬の夜のこと。イッシュ地方サザナミタウンのすぐ傍、サザナミ湾の浜辺に、わたしは倒れていた。その背中に、生々しいポケモンの爪痕を負った、血まみれの状態で。


「……ぅ…………」


「! まさか、この傷で生きているとは…」


 朦朧とする意識の中、誰かの声が聞こえてきて、わたしは霞む眼を必死で開けた。そこにいたのは今から18年前の、まだ若くてそこそこ男前だった頃の、ゲーチスだった。点々と輝く星の下、わたしの顔を覗き込むゲーチスの赤い瞳が、光って見えた。
 その時、わたしは何故か、どうしようもない恐怖を覚えた。決してゲーチスに恐怖したのではない。もっと大きな、自分の力など及ばない大いなる何かに対する恐怖、と言えばいいのだろうか。わけのわからない恐怖心に突き動かされたわたしは、まるでポケモンのように、本能のままに叫んだ。


「いっ…いやぁぁぁーーーーーーっ!!!」


 死に物狂いで暴れて、わたしを抱き起すゲーチスの腕から這い出て、その場から逃げようとした。どこへ向かえばいいのかなど考えることすらできなかったが、わたしは此処にいてはいけないと、頭ではなく心がそう感じていた。けれど、瀕死の重傷を負ったわたしは、ただ無様に地を這うことしかできず、むやみに傷を開かせるだけだった。それでもわたしは、ただ恐怖心のままに叫んで、暴れた。


「いやぁぁぁっ、やだ、やだぁぁぁーーーっ」


「やめなさい、暴れると傷が…」


「やだやだやだぁっ、いや、いやぁぁぁーーーーーーっ」


 背中が燃えるように熱かったが、それ以上にわたしは何かが恐ろしかった。まるでこの世界から、わたしだけが取り除かれようとしている、そんな気持ちだった。するとゲーチスは、わたしの両腕をグッと掴んで、無理やりに押さえつけた。尚も暴れるわたしに、アイツは静かにこう言った。


「落ち着きなさい。そのままでは、アナタは死にますよ」


「……!」


「誰もアナタに危害を加えたりしない。だから、死にたくなければ大人しくなさい」


 死。その絶対的で、揺らぐことのない言葉に、わたしの全身が硬直した。背中からどくどくと血が流れているのがわかった。自分の体温が徐々に下がっているのがわかった。自分が『死』に近づいていることが、この恐怖心は『死』に対するものなのだということが、はっきりとわかった。それを目の前にしたわたしは、無意識的にゲーチスの服を掴んで、こう言った。


「ッ…イヤだ……! 生きたい、わたしは生きたい……!」


 生への渇望が、死への恐怖心を忘れさせてくれた。するとゲーチスは、羽織っていたコートで大人しくなったわたしを包むと、そのまま病院へと連れて行った。その途中でわたしは再び意識を失ったが、ただ覚えていることは、ゲーチスの身体が酷く冷たかったということだった。
 次の記憶は、それから3日後のこと。3日間も意識不明の状態だったわたしは、ある朝に眼を覚ました。辛くも死から逃れ、生を取り戻したわたしが真っ先に目にしたのは、わたしの顔を覗き込んでくるポケモンの姿だった。


「たぶぅ?」


「ヒッ……!」


 それはタブンネというポケモンで、卓越した聴力で心臓の音を聞き取り、体調や心までもわかることができる力を持つので、イッシュでは病院などで重宝されていた。とても可愛らしいポケモンで、わたしは本来このポケモンが大好きなのだが、その時のわたしはタブンネすらも恐ろしく感じた。次々にやってくる人間の看護師、医者、わたしの事情を聞きに来た警察官ですら、恐ろしくてたまらなかった。


「名前は? どこに住んでいたとか、わかるかい?」


「……」


 恐ろしさのあまり、一言も声を発せられなかった。わたしはただ、泣いて震えて縮こまって、そして時間が過ぎ去るのを待っていただけ。傷の痛みに耐えながらそうしていると、数日後にゲーチスがやってきた。


「目覚めてから、一言も喋らないそうですね」


「……」


「どうだって構いませんが、アナタを拾ったからとただそれだけで、話をするよう警官どもに頼まれたワタクシの身にもなってごらんなさい。せめて名前だけでも言ってはどうです」


「…じゃあ、どうしてたすけたりしたの」


 うんざりとしたような様子のゲーチスに、わたしは思わずそう尋ねた。ゲーチスは「あのまま見捨ててもよかったのですがね」と底意地の悪いことを言ってから、わたしの質問に答えてくれた。


「アナタの背中の傷を見て、一目でわかりましたよ。ポケモン、それも人間に使役されたポケモンに付けられた傷だと」


「……」


「それを見て、思い出したのです。ワタクシが、この世界に拒絶された時のことを」


「セカイに…キョゼツ?」


「ええ。ですが、ワタクシは生き延びた。そして、この世界に復讐する為に、今も生きている。その程度の選択肢でさえ、理不尽にも奪われようとしているアナタを、哀れに思ったのかもしれません」


「……」


「……はて、ワタクシは何故このようなことを、アナタに話したのでしょう。ワタクシらしくもない」


 眉を寄せて首を傾げながら、ゲーチスはそう言った。この時のわたしは、ゲーチスの言っている意味がよくわからなかった。けれどゲーチスは、わたしのこの全てを恐れる心をわかってくれるのだと、それだけはわかった。


「エル」


「?」


「わたしの名前。…でも、それしかわからない」


「…記憶が無いということですか」


「…うん」


 その時のわたしが覚えていたのは、『エル』という自分の名前だけ。誰にそう呼ばれていたのか、どこに住んでいたのか、何故あんなところで倒れていたのか、一切覚えていなかった。自分が何歳なのかすらわからず、身体的特徴から4〜5歳だろうと推定されたが、本当のところはわからない。もっと年上かもしれないし、はたまた年下かもしれない。
 ゲーチスからわたしの名前を聞いた警察官たちが、わたしがどこの誰なのかを必死で調べてくれたが、結局わかりはしなかった。イッシュ地方、それ以外の地方の行方不明者の情報と照らし合わせても、わたしの特徴と一致する子供は見つからなかったらしい。この世界に、わたしを知る者は1人もいなかった。
 ゲーチスは時々、入院するわたしのところに来てくれた。相変わらず臆病で、他の誰にも心を開けなかったわたしが、ゲーチスだけは唯一話すことができた。そしてわかったのだが、この男は随分と性格が悪かった。少なくとも、助けた子供の見舞いをするような男とは、とても思えないほどに。


「ゲーチスは、どうしてわたしのところに来てくれるの?」


「有り体に言うと暇潰しです」


「ひまつぶし?」


「サザナミの海の底に用がありましてね。しかし今は、潜るには寒すぎる。春を待っているのですよ」


「ふーん…」


 答えになってるんだか、なってないんだか、ゲーチスはわたしのもとに来る理由を、そう語った。少なくとも、わたしのことを少しは気にかけてくれているのだと、そう思った。
 それからしばらくして、冬の寒さは鳴りを潜め、東の方から春風が吹くようになると、わたしの傷もほぼ塞がった。その頃にはわたしも他の人やポケモンに慣れ、病院のタブンネと遊んだり、看護師さんと話ができるようになっていた。でも、わたしの傷がよくなればよくなるほど、好きな人やポケモンが増えれば増えるほど、心の奥底の不安が少しずつ膨らんでいった。その不安を、わたしはゲーチスにだけ打ち明けた。


「もし、ここを出ていく日がきたら…。わたしはどこにいけばいいんだろ」


「……」


「アンタに助けられてからずっと、こわくてたまらないの。わたしの居場所なんて、どこにもないんじゃないかって。いつか、この世界から追い出されるんじゃないかって……」


 するとゲーチスは、わたしの不安を一笑してみせた。


「世界のどこにいようと、そこがアナタの居場所ではなかったとしても、厚顔無恥に居座り続ければいい。アナタがそれを望むなら、世界の理などヨーテリーにでも喰わせなさい」


「…!」


「大いなる何かによって自分の人生を定められるなど、ワタクシがアナタの立場であれば、御免被る」


 ゲーチスと一緒に過ごして、わかったことがある。この男は、人が欲している言葉を見つける天才だった。そう、わたしは恐れていると同時に、腹立たしかったのだ。わたしを死に追い遣ろうとした何者かが、わたしを排除しようとしたこの世界が。


「…もしかしたら、わたしは殺されても仕方ないヤツなのかもしれない。でも、だからって誰かの思いどおりに死ぬのはムカつくから、ゼッタイに死なない! 生きて、世界一しあわせになって、笑って寿命で死んでやる!」


 そう宣言したわたしに一瞬だけ目を向けると、ゲーチスは「お好きになさい」と言って、手に持っていた何かの資料に視線を戻した。
 春が近付いてきてから、ゲーチスは難しそうな本やら資料やらを持って、それを随分と真剣に読んでいることが多かった。だからふと、わたしはちょっと興味が湧いて、アイツが持っていた本に挟まっていた一枚の紙を手に取って、覗いてみた。


「こら、返しなさい」


「なに読んでるの?」


「アナタなどには到底理解できぬ代物です」


「なにその言い方! わかんないじゃんよ、そんなの! えぇっと、なになに……?」


 そこに書いてあったのは、何やら難しそうな文字の羅列と、一枚の写真だった。そもそも当時のわたしは、普通の文字の読み書きもろくにできなかったので、書いてある文章は一切理解できなかった。なのでただ、紙面の真ん中にある写真を見ていた。
 その写真は、水中で撮られたもののようで、全体的に仄暗い青色をしていた。写っているのは、ところどころが朽ちかけた石板のようだった。その石板の表面に、何か字らしきものが刻まれているのを見ると、わたしは目を凝らしてその字を辿った。


「…おうのことばに、みみをかたむけよ?」


 その時、ゲーチスが眼の色を変えて、わたしの方を見た。死にかけていたわたしを拾った時すら揺らがなかった表情が、初めて驚愕に歪んでいた。ゲーチスが何故そんな顔をしているのかわからなくて、わたしは少しだけ怖いと思った。


「今、何と言いました」


「え…お、おうのことばにみみをかたむけよ、って。だって、そう書いてある」


「…まさか、読めるのですか?」


 信じられない、とでも言いたげなゲーチスに、わたしは戸惑いつつも頷いた。そう、ゲーチスの持っていた資料の写真にある石版には、その言葉が刻まれていた。そして、わたしは普通の文字を読むことよりもずっと容易く、その文字を読むことができた。


「な、なに…? どうしたの?」


「…アナタ、ここを出たらどこへ行けばいいのかと、そう言っていましたね」


「う、うん」


「ワタクシが引き取ります」


 ゲーチスが間髪入れずに言い放った言葉に、今度はわたしが驚いた。前述の通り、ゲーチスという男はとにかく性格が悪くて、凡そわたしを哀れんで手を差し伸べるような男ではないのだ。少なくとも、無償では。


「な、なんで」


「ワタクシに必要な能力を、アナタは有している。それ以上の理由が必要ですか」


「アンタに、ひつような…?」


「細かいことは、そのうち話して差し上げます」


 ゲーチスはそう言うと、わたしの手から自分の資料を奪って、そして空いたわたしの手をぐっと掴んだ。痛みさえ感じるほどの強い力で、わたしの手を握り締めながら、ゲーチスはこう言った。


「ワタクシと共に来なさい、エル」


 それは、この時のわたしが最も望んでいた言葉だった。だから、わたしは黙って頷いて、ゲーチスの手を握り返した。
 その後に知ったのだが、わたしが読んだ石版の文字は約3000年前の文明のもので、あの石版の写真は最近サザナミ湾で発見された海底遺跡にて、撮影されたものだったそうだ。そしてその古代文字は、世界有数の考古学者達の知恵を持ってしても、十数年は解読に時間を費やすだろうと言われていたものだったという。



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