愛憎の炎は地獄のように我が心に燃え4


 思っていたよりも柔らかい感触がする、とエルは思った。ゲーチスはそんなエルを、信じられないものを見るような眼で見ている。戯れのような、触れるだけのキスをしたエルは、わなわなと震えるゲーチスを見て、目を伏せた。ああ、とうとうやってしまった、取り返しのつかないことを。


「ッ…な…何故……」


「何故? そんなのわたしが聞きたい」


 驚愕のあまり硬直したゲーチスが、震える声で発した言葉に、エルは自嘲気味に笑った。


「こんな、歳も離れてて、性格も悪い、本気でイッシュを征服しようだなんて考えてる悪党、なんで愛しちゃったんだろ」


「……!!」


「…でも、わたしは知ってる。アンタの心の中にある、どうしようもなく弱い部分を」


 エルはゲーチスの顔に添えていた手を、彼の心臓の上へと下ろした。ゲーチスの心臓がばくん、と跳ねるのが、指先から伝わってくる。


「わたしは、アンタがわたしを特別扱いしてくれるなら、聖女だろうが英雄だろうが、何にだってなってやったんだ」


「なッ……!!」


「だってわたしは、ゲーチスを愛してるから」


 その瞬間、ゲーチスはそれまで動かすことのなかった右腕で、エルを突き飛ばした。それは弱々しいものであったが、薬のせいで力の入らないエルは、いとも簡単にベッドの上に倒れる。エルの下から逃れ出たゲーチスは、真っ青になった顔を酷く歪めて、エルから離れた。


「ッ、き、気でも狂いましたか…!! よくもそのようなことを……!!」


「……」


「ワタクシのことを愛してるなど、そのような戯言…!! Nなんぞよりよっぽど悍ましい!!」


「ゲーチス、わたしは……」


「黙れッ!!! そのような眼で、ワタクシを見るなッ!!!」


 そう叫ぶゲーチスはまるで、恐ろしい化け物と対峙しているかのように、ただただ震えていた。全身全霊の拒絶を言い渡されたエルは、一瞬だけ顔を歪め、そして俯く。ゲーチスはぜぇぜぇと肩で息をしながら、エルから逃れるように部屋を出て行った。


「……」


 バタン、と扉の閉まる音を聞いたエルが、ゆっくりと顔を上げる。その表情は、いつだったか最愛のパートナーであるマーシャを危険に晒された時のごとき、怒りに満ちた表情だった。そう、エルという女は、凄まじく沸点が低い女であるのだ。



* * *



 エルのもとから逃げるように飛び出したゲーチスは、よろめきながら部屋を離れて、行くあてもなく通路を歩いていた。やがて誰もいない通路の最奥まで辿り着くと、何かの衝動を発散させるかの如く、強く壁を殴りつける。


(…有り得ない、有り得るはずがないッ!! あの娘が、エルが、ワタクシを……!!)


 エルに触れられた部分が燃えるように熱いのに、指先は氷のように冷たくて、頻りに震えている。右腕が、脚が、右眼が、酷く疼いて仕方がない。訳のわからない感覚がこみ上げてきて、ゲーチスは吐き気を堪えるように口を塞いだ。


「船酔いか、あんちゃん」


 するとそこへ、低く間延びした声がすぐ背後から聞こえてきて、ゲーチスはハッと我に返った。すぐに外向きの人の良さそうな表情を浮かべて、「お構いなく」と返事しようと、振り返った瞬間。


「……!」


 折角取り繕った表情が崩れるのも構わず、ゲーチスは驚愕に目を見開いた。ゲーチスの背後に立っていたのは、銀髪に赤眼という外見の、如何にも冴えないといった様子の男だった。しかし、ゲーチスが驚いたのはその男ではない。その男の肩に乗っている、1匹のジグザグマだった。そのジグザグマは無論、エルのパートナーである、マーシャだ。


「ぐぅーっ! ぐ、ぐっ、ぐぅっ!」


「ちょっと人を探してるんだけどよ。…黒ずくめの3人組は、アンタの手先かい」


「…何のことやら。誰をお探しかは存じませんが、他を当たられてはどうです」


「お巡りの情報網を甘く見てもらっちゃ困る。…アンタの船室に、エルって美人のねえちゃんがいるはずだ」


 クチナシがエルの名を口にした途端、ゲーチスの表情が歪んだ。しかしそれは、まるで恐怖に慄いているような、そんな青ざめた表情だった。思っても見なかった反応に、クチナシは一瞬だけ虚を突かれる。
 するとその瞬間、どこからともなく現れたキリキザンが飛び出して、クチナシに斬りかかった。「きゃんっ!?」と驚くマーシャを手で押さえながら、クチナシは一歩後ずさって刃を交わすと、すぐさま自分のモンスターボールを取り出し、ペルシアンを繰り出す。


「ペルシアン、『ねこだまし』」


「なーぉ」


 ペルシアンはボールから出るとすぐ、真っ直ぐキリキザンに飛び付いて、『ねこだまし』を食らわせた。キリキザンは一瞬怯むも、すぐに体勢を立て直して『メタルクロー』を繰り出してくる。しかし、『ファーコート』の特性でその身を護るペルシアンは、キリキザンの攻撃を物ともしない。


「…成る程、人目につくとこには出られねえってか」


 キリキザンに指示を出しているトレーナーが、物陰に潜んだダークトリニティであることを、クチナシは即座に見抜いた。幾分か冷静さを取り戻したゲーチスは、先の一件で乱れた髪を撫で付け、クチナシを睨みつける。


「アナタ、何者です? その眼…田舎町の警官のそれではありませんね」


「アンタの言う通り、田舎町の警官だよ。…守り神さんの神官を押し付けられてる、な」


「…成る程、島の王というわけですか。ですが、ワタクシは間も無くイッシュへ戻る身、アナタと話をしている暇はない。速やかにお引き取り頂きましょう」


 ゲーチスがそう言い終えると同時に、キリキザンがペルシアンに斬りかかる。ペルシアンはそのしなやかな身のこなしで、ひらりひらりと攻撃を交わした。


「ペルシアン、『あくのはどう』」


 クチナシが指示を出すと、ペルシアンの額の宝石が輝き、今まさに斬りかからんと腕を振り上げるキリキザンに『あくのはどう』が直撃した。キリキザンが再び怯んだ瞬間を見逃さず、ペルシアンはキリキザンに飛び付いて、その場に組み伏せる。


「『10まんボルト』」


 シャァ、とペルシアンが唸ったその瞬間、ペルシアンは全身を震わせて、身動きができないキリキザンに『10まんボルト』を放った。ゼロ距離から直撃した『10まんボルト』に、キリキザンはたまらず戦闘不能に陥る。眼を見開いて驚くゲーチスに、クチナシはニヤッと笑ってみせた。


「これでも昔は、バリバリの捜査官でな。お前らみたいな、叩けば幾らでも埃が出てくるような連中、星の数ほど潰してきたんだよ」


「……」


「だが、俺の管轄は此処まで。このウラウラ以外のどこで、お前らがどんな悪巧みをしていようが、どうこうする権限は俺にはない。それがわかったら、あのねえちゃんを置いて何処へでも行きな」


「…フハハ! 不用意な争いは避けましたか、利巧なことです。ダークトリニティ、下がりなさい」


 ゲーチスが左手を掲げてそう言うと、倒れてるキリキザンがボールへと戻り、辺りに沈黙が走った。ゲーチスはクチナシにツカツカと歩み寄ると、自分よりも遥かに低いところにある、彼の赤い瞳を睨みつけた。


「どうぞご勝手に。あのような悍ましい生き物、もはやワタクシの娘ではありません」


「……」


「どこで野垂れ死のうと、ワタクシの知ったことではない」


 何の感情もない、冷酷そのものの眼で、ゲーチスはクチナシを見下ろす。クチナシは、ゴロゴロと喉を鳴らして自分の脚に擦り寄ってくるペルシアンを撫でてからボールへと戻し、肩に乗るマーシャと共に、エルがいるであろう船室へと向かった。



* * *



 エルは力の入らない身体を何とか起こし、部屋からの脱出を試みていた。一等船室だけあって部屋の中は広く、1人ではろくに歩けない今の状況では、ベッドから扉へ移動することすらままならない。おまけにゲーチスを押し倒すのに全力を使ってしまったので、最早立つことすら難儀する始末であった。その為、壁伝いに身体を預けながら、少しずつ移動するほかない。


「…ッ、あと少しッ…」


 あと少しで扉に辿り着く、とエルが安堵したその瞬間、凄まじい勢いで扉が開いた。ゲーチスか、はたまたダークトリニティが戻ってきたのかと思い、エルは緊張して身構える。


「…ぐ、ぐぅぅ〜〜〜っ!!」


「…マーシャ?」


 しかし、開いた扉から部屋の中へ駆け込んできたのはそのどちらでもなく、エルの最愛のパートナー、マーシャであった。驚くエルにマーシャは、ぶわっと涙を浮かべながら飛びついて、エルの胸にぐりぐりと鼻を擦り付けてくる。呆気に取られるエルのもとに、今度はクチナシが駆け寄ってきた。


「大丈夫か、ねえちゃん」


「く、クチナシおじさん、どうしてここが……」


「これでも警察官だからな。マリエの監視カメラの映像やら、乗船券の購入履歴やら洗えば、すぐにわかる。…筋弛緩剤でも盛られたか」


「うん、モロバレルの胞子を薄めたモンをね…。マーシャ、いまラムか何か持ってる?」


 エルがそう尋ねると、マーシャは全身をふるふると揺さぶって、毛並みの中に隠していたきのみを落とした。エルはその中にあった、小さなラムのみを手に取ると、表面についた毛を払ってから一口齧る。人間がそのまま食べるものではないので、その絶妙に口に合わない味に、エルは渋い表情を浮かべたが、ラムのみの効果で次第に手足の痺れが緩和していった。しかし、思うように力が入らないのは変わらず、エルはクチナシの手を借りながら立ち上がる。


「ありがとう、マーシャ、おじさん…。でもすぐに逃げた方がいい、アイツらに気付かれたら…!」


「そのことなら心配すんな、話はついてる」


「話?」


「…お前さんのことは、知ったこっちゃないだとさ」


 目を伏せてそう言ったクチナシに、エルはしばらくの間を置いてから「そう」と答えた。すると、船のあちこちのスピーカーから、女性のアナウンスが聞こえてくる。


『皆様、お待たせしました。マリエシティ発ヒウンシティ行きの当便、間も無く出航致します…』


「ゲッ…! ヤバい、早く降りないと!」


 出航する前に船を降りねばと、エルとクチナシは乗降口へと急ぎ、その後ろをマーシャが付いて行った。しかし、走ることはおろか歩くことがやっとのエルを抱えてでは、とても間に合いそうにない。通路を抜けて甲板へ出たその瞬間に、船がぐらりと揺れ出し、大海原へと出てしまった。


「あ〜ッ、くそ! おじさん、ライドギアは!?」


「スカル団のガキどもに貸しちまった。参ったな、おじさん実はカナヅチなんだよ」


「うっそ、アローラ人なのに!? こうなったらマーシャ、『なみのり』で2人とも運んで…」


「エル!」


 エルがマーシャに振り返ったその時、上空からグズマの声が聞こえてきた。驚いたエルとクチナシ、マーシャが上を見上げると、空高くからリザードンに乗ったグズマとプルメリが、2人のもとへ急降下してきた。


「グズマ、プルメリちゃん!?」


「どうやらあたいらの勘が当たったみたいだね! オッサン、この借りは高く付いたよ!」


「悪気があったんじゃねえよ、勘弁してくれねえかな。それより、早くねえちゃんを船から降ろしてやってくれ」


「おいこのグズ、ボサッとしてんじゃねえ! さっさと乗れってんだ!」


「うわっ、グズマちょっと待って! マーシャ、おいで!」


「ぐう!」


 真上からグズマに腕を引っ張られ、エルは慌ててマーシャを呼ぶと、グズマの手を借りながらリザードンへ乗った。クチナシも同様にプルメリのリザードンに乗り(プルメリは嫌がっていたが)、2匹のリザードンは船から離れ、ポータウンのある方角へと飛んで行く。
 エルは力の入らない手をグズマの背に回し、ふと船を振り返った。甲板に立ち、離れ行くウラウラ島に笑顔で手を振る船客達の中に、にこりとも笑わないゲーチスがいる。リザードンに乗るエルに気付いているはずなのに、何の反応も示さないゲーチスを見て、エルの頭の中で何かが切れた。


「…ッ、ふっざけんな、このゲス野郎ーーーッ!!! もうテメェのことなんか知ったことか、バーーーカッ!!!」


「……?」


「せいぜいイッシュの片隅で、セコい悪巧みしてりゃいいッ!!! お前なんか、お前なんかッ…どっかで勝手に野垂れ死んじまえ、このハゲーーーッ!!!」


 汚い罵詈雑言を吐くエルの激怒ぶりに、エルをリザードンに乗せているグズマは、思わず眼を丸くした。思いっきり叫んで少しは気が紛れたのか、エルはぜぇぜぇと肩で息をしながら、グズマの背中に額を当てて、黙り込む。戸惑うマーシャの毛並みと、エルの長い黒髪が、潮風に揺れていた。



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