菊ノ呪 7
夜の誰もいない体育館で、俺は1人でサーブ練習をしていた。明日は新人戦2日目、勝ち上がれば因縁の白鳥沢との決勝戦が待っている。岩ちゃんに見られたら怒られるんだろうな、などと思いながらも、俺の身体は無性にざわついていて、とても大人しく眠れそうにない。
「今度こそッ、あの天才ヤローにぎゃふんと言わせてやるッ!」
渾身の力を込めて打ったサーブは、いっそ美しいほどに理想的な軌道を描いて、コートの中央に落ちた。床を蹴りあげる脚が妙に軽くて、振りかぶった腕は空を切るようにしなやかだ。こんなに調子がいいのは一体いつぶりだろうか。あまりにも思った通りのサーブばかり打てるものだから、俺は思わずほくそ笑んだ。
「…何やってんのよ、徹!」
すると、背後から懐かしい声と共に、1つのボールが飛んできて俺の頭を直撃した。「いっだ!!!」と呻きながら振り向くと、そこにいたのは、俺が二度と会えるはずのない子だった。
「…風子?」
そこいたのは、風子だった。北川第一のジャージを身にまとい、仕方がないなと溜息を吐きながら、俺のことをじっと見つめている。その頬はふっくらとしていて、最期に会った時の病気で痩せ細った姿とは大違いで、まさに俺の思い出の中の風子そのものだった。
風子は俺に近づくと、サーブ練で酷使した腕を掴み、俺をコートの中から連れ出そうとしてくる。混乱状態の俺にかまうことなく、風子は少し怒ったように俺を叱った。
「ほんっとに、こんな時までバレーだなんて。あんたは特大級のバレー馬鹿ね」
気の強そうな、風子の声。もう二度と聞くはずのない声だった。だって、風子は死んだのだ。病気と、その命を少しでも長らえさせるために縋った、呪いによって。
「な…なんで…」
「…あの子のおかげよ」
「え?」
「あの子が私を人に戻してくれた」
風子に腕を引かれ、コートの外に出る。そこで俺は初めて、コートの外が暗闇になっていることに気付いた。夜の闇ではない、もっとどす黒く澱んだような闇が、俺の眼前に広がっていて、思わず身震いする。
そういえば、どうして俺はサーブ練なんてしてたんだっけ? 夜の体育館なんて、ただただ怖くて不気味なだけだし、青城のみんなと一緒でもない限り絶対に近づきたくない場所だったはずだ。第一、俺と一緒にいるはずの岩ちゃんの姿がどこにもない。岩ちゃんが今の俺を1人にするはずがないのに。
決して会えるはずのない風子。説明がつかない不条理な状況。この2つから導き出される答えは、1つだけだった。
「…これはひょっとして、俺の夢?」
「半分正解で、半分不正解」
「半分不正解? どういうこと?」
「徹の夢の中に、オキクサマが入り込もうとしてるの。あの子の力でも、夢の中までは守れない。ここはもう、半分くらいオキクサマの領域になってる」
「オキクサマって…なんで風子がそれを知って…!?」
「説明は起きてからあの子にしてもらって! とりあえず、この夢が完全にオキクサマに乗っ取られる前に、徹が目覚めないと…」
風子は少しも迷うことなく、暗闇の中へ走っていく。風子に手を引かれながら、俺はあの忌まわしい思い出を反芻していた。ひとりぼっちで死にたくないと、俺の首を絞めて道連れにしようとして、夕莉ちゃんの力によって只の蟲へと還ったあの姿を。
「…風子、あのさ…」
「…ごめんね、徹」
俺が何か言う前に、風子がぽつりと呟いた。消え入りそうな声だったが、どことなく涙声だったように俺の耳には聞こえた。
「徹に、あんなことするつもりじゃなかった…。私はただ、もう一度だけ、徹に会いたくて…」
「…大丈夫、わかってるよ」
「徹はわがままだけど、優しいから…。私のお願い、きっと聞いてくれるはずだって、そう思って…。でも、あんなことになるぐらいだったら、私…!」
風子の最後の願い。俺が果たせなかった約束。もうすべて取り返しのつかないことだって、わかってる。それでも、俺も風子も、どうしたって抗いたいのだ。運命をねじ伏せてでも、己の望みを勝ち取りたいのだ。だから俺は、俺の腕を掴む風子の手を、握り返した。
「好きだよ、風子」
「…っ!」
「ごめんね。あの時、言えなくて。知ってると思うけど、俺ってビビりだからさ。いつも寸でのところで腰が引けて、それで…」
「…謝らないで、徹」
風子が振り返る。ああ、そうだ、この笑顔だ。北一が勝つたび、俺がサーブを決めるたび、岩ちゃんがスパイクを決めるたび、何度も目にした明るい笑顔。暗闇の中でいっそう輝くその笑顔に、この世への未練など一切感じなかった。
「私、徹に会えてよかった。ずっとずっと、ありがとう」
「風子…」
「死んだりしたら許さないからね。絶対に生きて、ウシワカにも影山にも勝って、世界一のセッターになりなさいよね」
「…その口ぶり、変わんないなあ! さすが北一の影の女王…」
ふと、後ろの方から冷たい空気が迫ってくるような感覚がした。振り返ると、暗闇の中に何か、ぼんやりとした影のようなものがある。あれはなんだろう、と思う間もなく、俺の腕を引く風子の力が強くなった。
「徹、走って! あいつに捕まったらダメ!」
「うわっ! つ、捕まったらダメって、まさか…」
「あいつに捕まったら、現実の徹が死んじゃう。とにかく走り続けて!」
つまり、あの影はオキクサマだということか。そんなものに捕まるわけにはいかないと、俺が走る速度を上げる。するとその影も速度を上げて俺を追いかけてきて、無数の腕のようなものを俺の方へ伸ばしてきた。このままじゃいつか追いつかれる、そう思って焦り出した俺に、風子は凛とした声でこう言った。
「私があいつを止める。徹はこのまま走って」
「風子!?」
「だって私、死んでるもの。あいつに捕まったところで痛くもかゆくもないわ」
「で、でも…」
「大丈夫よ、徹はひとりぼっちじゃない。そうでしょ、ジョン?」
え、と思う間もなく、足元から「ワンッ!」と犬の鳴き声が聞こえた。恐る恐る視線を下げると、そこには綺麗な毛並みのゴールデンレトリーバーが、俺の傍にぴったりとついて走っていた。この鳴き声、この毛並み、間違いない。俺が小学生の頃まで家で飼っていて、いつだったか先輩が俺の守護霊だと語っていた、飼い犬のジョンだ。まさか、ずっと傍にいてくれたのだろうか。
「じゃあね、徹! またいつか、会えるのを楽しみにしてるから!」
風子がそう笑って、俺の腕から手を離す。俺は胸がいっぱいになって、なんて言えばいいのかわからなかったけど、それでも風子に振り返って、今までずっと言いたかったことを叫んだ。
「風子、俺はっ……!」
目覚めると、全身が汗でびっしょりになっていた。辺りはまだ薄暗くて、時計代わりのスマホを見れば、朝の4時を少し過ぎた頃のようだ。隣のベッドでは、岩ちゃんが大口を開けて熟睡している。冬場にそんな口を開けて寝てると乾燥で喉やられちゃうよ、なんて思いながらも、俺はひとまず汗まみれの寝間着から着替えようとベッドから降りて、バッグの中から練習着を取り出した。
「あ…」
取り出した練習着を見て、思わず声が漏れた。北一時代、まだファッションとかに目覚める前に、岩ちゃんと一緒に買った、背中にでかでかと格言とかが書かれてるタイプの、よくある練習着だ。岩ちゃんはいまだに「どこで買ったのそれ?」みたいなのを着てることが多いけど、俺は高校に入ってからはさすがにもう着なくなった。なのに、何故かその練習着を、今日に限って持ってきていたようだった。
『お前はひとりぼっちじゃない』
『仲間と共に明日を掴め』
思わず吹き出しちゃうくらい、陳腐な言葉だ。中1だか中2だかの俺は、岩ちゃんと一緒になって「かっけえー!」だなんて思って、この練習着を好んで着ていた。確か、風子にも「あんた、そんな言葉を真に受けるような純粋な人間じゃないでしょ」なんて言われて、からかわれたっけ。随分と酷いことを言うなあと、その時は思ったよ。
「…及川さんは純粋無垢ですよって、言い返してやればよかったな」
夢の中の風子を思い出しながら、決して忘れないように胸に刻みつける。あの最悪の思い出を上塗りできるように。
オキクサマの脅威が消え去った訳ではないけど、それでも俺はどこか安心した気分だった。俺の傍には岩ちゃんがいて、目には見えないけどジョンがいて、俺を守ってくれる夕莉ちゃん、それから風子がいる。
最後に叫んだ風子への言葉、どうか彼女に届いているといい。俺にとって君は、間違いなく特別で、誰にも代えがたい人だったんだってこと。いつかまたもう一度会えたら、君とまたバレーの話がしたい。風子の言う通り、俺は特大級のバレー馬鹿だからさ。
「ありがとう、夕莉さん」
昇りゆく朝陽を背に、彼女は満面の笑みを浮かべていた。
「あなたのおかげで、今度は徹を守れた。本当に感謝してもしきれないわ」
「……」
「私、やっぱり徹が好き。いつまでもずっと、昔みたいに一緒にいられたら、どんなにいいか…」
「樺根風子さんの魂を解放しなさい」
私がそう言うと、目の前の彼女は静かに笑った。樺根風子さんの魂は、蠱毒によって生まれた蟲の御霊を祓った時、清浄な魂へと転じたはずだ。陰の領域に或るモノのみを映すこの瞳に、彼女の姿が映るはずがない。
「あなたにはいずれ、私の魂を捧げます。ですから、その人の魂を解放しなさい」
「私自身ガ望ンダコトヨ」
「望んだ?」
「徹ノ代ワリニ私ヲ呪ッテクダサイッテ、オ願イシタノ」
幼き日の私であれば、嗚呼、と落胆し、涙したことだろう。彼女はまた、その身を憎悪と呪詛の渦中に投じることを選んだというのか。一度目は己の望みの為に。今度は及川さんという想い人の為に。いっそ美しいほどの自己犠牲の精神に、目が眩みそうだ。
「…ならばどうぞ鎮まり、潔世山に御戻りください」
「イイヤマダ及川ヲ殺シテナイ」
「私ノ魂ヲアゲルカラ徹ヲ殺サナイデ」
オキクサマの一部と化した新宮崇史と樺根風子が、反目しあい渦巻いている。オキクサマとは、複数の怨霊の集合体だ。かつて生贄となった初代の巫、その怨念を鎮めるために犠牲になった歴代の巫、オキクサマの呪詛によって死した人々、それらの魂が組解けることなく絡まり合って1つの御霊となる。新宮崇史の願いによって殺意の権化となっていたオキクサマが、樺根風子の願いを取り込んだことにより、及川さんへの殺意そのものが揺らぎ始めている。
「どうぞ、御戻りください」
「…戻リタイ」
オキクサマが、さめざめと泣き始めた。この声は新宮崇史でも、樺根風子でもない。原初の魂、お菊の魂だ。
「戻リタイ…戻リタイ…」
「アノ幸セダッタ日々ヘ戻リタイ…」
「アノ人ノ処ヘ戻リタイ…」
その時、朝陽が完全に昇り、オキクサマの身体を陽光が照らした。オキクサマの身体をまとう瘴気が、聖なる陽の光の神力によって浄化されていく。オキクサマは静かに涙を流しながら、潔世山の或る方角へと去っていく。やがて近くの建物の影の中に溶け込み、その姿を消した。
「ふわぁ〜…。おはよー、夕莉。どうかしたの?」
「…オキクサマが潔世山へと御戻りになりました」
「ってことは…及川くんはもう大丈夫ってこと?」
「恐らく。とはいえ、清めの儀式を行わなければ。私は清水神社へ戻ります」
「えぇ〜っ、及川くんと岩泉くんの試合も見ずにぃ?」
いつだったか、及川さんから試合を見に来ないかと誘われた時のことを思い出す。青葉の外の地に踏み入ることを拒まれるこの身故、断らざるを得なかったが、心中では見てみたいと思ったのも事実だ。だけど、私は巫だ。この身は私の為になどなく、ただオキクサマに捧げるためのもの。
「先輩は、2人の応援をしてあげてください。私は私の役目を果たします」
「…ふーん、それじゃあ仕方ないね。気を付けて帰ってね〜」
「はい」
さあ、あの山へ戻らなければ。私の役目を果たすために。私の大切な人たちを、守るために。
菊ノ呪・終
抗エド抗エド
呪イハ消エズ
死出ノ旅路ハ何処マデモ続ク
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