独ノ呪3
「あ、及川がうまそーなの持ってる」
昼休憩の時間、さっそく風子が作ったレモンのハチミツ漬けを取り出した俺に、マッキーがそう言ってきた。その場に岩ちゃんや元北一の面子もいたので、俺は一瞬冷やっとしたが、俺が女の子からの差し入れらしきレモンのハチミツ漬けを食べていることはよくあることなので、特に言及はされなかった。
「ホントだ、うまそー。一切れくれ」
「ダメ! これだけは絶対にあげないよーだ」
「うっわムカつく、なにその言い方」
「またファンからの差し入れですか?」
「ま、そんなところだね〜」
まっつんがタッパーの中身に手を伸ばしてきたので、俺は慌ててそれを隠し、あっかんべー、と舌を出す。普段だったら、及川さんは優しいから、一切れくらい分けてあげてもよかった。しかし、これは風子が病身をおして、俺の為だけに作ってくれたレモンのハチミツ漬けなのだ。勿論、そんな事情を話すわけにもいかないので、まるで及川さんが独り占めようとしてる卑しんぼみたいに見えるけど。
「それじゃ、いただきまーす」
昔に戻ったようなワクワクした気持ちで、俺はレモンのハチミツ漬けを一切れ摘まみ、一口で食べた。その瞬間、程よいレモンの酸っぱさとハチミツの甘さ、それからほんの少しの苦みが口の中に広がっていく。ああ、これだよ、これ。約3年ぶりの味だ。
「ん〜! めっちゃうまい!」
「何故かは知らねえが、その顔がクソ腹立つ」
「なんで!? こんなイケメンの顔なのに!?」
「いいぞ岩泉、もっと言ってやれー」
理不尽にも俺に向かって中指を立ててきた岩ちゃんを、マッキーやまっつんがやんややんやと担ぎ出す。傍から見ると、俺が可哀想に思えるであろうこのやり取りも、毎日のように繰り返している日常の光景だ。俺やみんなはいつも通り、平和に楽しく暮らしているのに。風子の病気のことを知ってから、俺はたまにこう考えてしまう。どうして風子だけが、どうして……
カサカサカサッ
「……ん?」
ほんの一瞬、掠れた音が聞こえて、俺はレモンのハチミツ漬けを食べる手を止めた。その音は例えるなら、まるでムカデのような足が何本もあるタイプの虫が、這いずり回っているかのような音だった。俺は辺りを見回して、音が聞こえてきた方を探そうとしたが、ほんの一瞬のことだったのでどこから聞こえてきたのかさえわからなかった。
「どうしました、及川さん」
「……いや、なんでもないよ」
渡っちが不思議そうにこちらを見上げてきたので、俺はへらへらと笑い返す。きっと気のせいだったのだろう。第一、いまは冬真っ盛りで、虫なんて土の中で冬眠している頃なのだし。この時の俺はそう思い込んで、音のことはさほど気にしなかった。
異変は、昼休憩が終わった午後1時、練習前のストレッチ中に起こった。
「ねえ……岩ちゃん……」
「あ?」
「なんか……寒くない? 今日はやけに……」
ガタガタと震えながらそう言う俺に、岩ちゃんは首をかしげた。前述の通り、今は冬真っ盛りで、寒いこと自体は当然のことだ。しかし、それにしたって今はやけに、まるで氷水に浸かっているみたいに寒くて仕方がない。午前中の練習でかいた汗が冷えたのかと思ったけれど、休憩になってすぐに汗を拭いてジャージを着こんだので、そんなはずもない。
「今日は別にそこまで寒くねえだろ、むしろ普段より気温高いぞ」
「えっ……そう……?」
「寒いんだったらウィンブレ着とけ、動いてりゃそのうち暑くなるだろ」
「う、うん……そうする……」
面倒くさそうな顔をした岩ちゃんにそう言われ、俺は言う通りに自分のウィンドブレーカーを取りに向かう。しかし、この寒さがウィンドブレーカー程度で収まるとは、とても思えない。おかしい、どうしてこんなに寒いんだ? まさか風邪でも引いたのか? いや、体調管理は万全だし、そんなはずはないのだけど……。そんなことを考えながら、俺は戸棚に置かれたウィンドブレーカーに、震える手を伸ばした。
その時、俺は自分の手を目にして、そして有り得ないことに気付いた。
ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ
俺の手を、何匹ものムカデのような虫が、這いずり回っていた。
「うわあああぁっ!?」
気色の悪い感覚が全身を襲い、俺は思わず叫んだ。周囲の不審そうな視線など気にもできず、俺は慌てて手の上を這いずる虫を払おうとする。しかし、虫を払おうと伸ばしたもう片方の手にも、同じように虫が纏わりついていた。
「及川さん、どうかしました!?」
「む…虫が……!! 俺の手に、纏わりついて……!!」
「虫? なに言ってんだよ、なんにも付いてねえぞ」
俺に駆け寄ってきたマッキーが、不思議そうにそう言った。嘘だ、そんなはずはない、だってこんなにもたくさんの虫が俺の手に! けれど、俺がそう言う前に、それまでの何十倍も気色悪い感触が、『爪と皮膚の間』に涌いてきた。
ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ
「ひっ……!?」
爪と皮膚の間から、何匹もの虫が涌いてきている。この無数もの虫達は、俺の体内から、涌いている。それに気付いた瞬間、凄まじい吐き気が襲ってきて、俺は咄嗟に体育館から出た。
「おい、及川!?」
岩ちゃんの声に反応すらできず、辛うじて男子トイレに駆け込んだ瞬間、堪えきれずに吐いた。しかし、俺が吐いたものは、吐瀉物でもなんでもなかった。俺が吐いたのは、何本もの脚をばたつかせて蠢く、虫の群れだった。
ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ
カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ
ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ
胃の中を、食道を、喉を、口の中を、虫が蠢く感覚がいっせいに広がっていく。こそばゆいような、痛いような、気色の悪い感触が、みるみる全身に広がっていく。自分の身に何があったのかという疑問さえ浮かばず、ただただ気持ち悪さで頭がいっぱいになって、やがて意識すら薄れそうになった、その時だった。
「及川、口開けろッ!!!」
虫が蠢く乾いた音の中に、岩ちゃんの大声が聞こえた。するとその瞬間、男子トイレに駆け込んできた岩ちゃんが、俺の頭をガッと掴んで、そして手に持っていた水筒の中身を無理やり俺に飲ませた。俺はとても飲み込めるような状況ではなかったのだが、岩ちゃんが俺の鼻と口を押さえてきたので、呼吸できなくなった俺は口の中の水を飲まざるを得なかった。俺の喉が上下したことを確認すると、岩ちゃんは手を離した。
「かはっ……!! げほっ、げほっ……!!」
息苦しさから解放され、俺はたまらず咳き込む。いったい何をするのかと岩ちゃんを問いただそうとした、その瞬間。
ウゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッ
まるで、殺虫剤を撒かれもがき苦しむ虫のように、俺の体内で虫たちが一斉に蠢きだした。
その感触に耐え切れず、俺は意識を手放した。
「…………さん……」
「う……」
「……及川さん、気が付きましたか」
目が覚めた時、俺は体育館ではなく、畳の敷かれた和室のようなところにいた。どうやら布団に寝かされていたらしく、柔らかい羽毛の感触が全身を包んでいる。ふと傍を見上げると、そこには心配そうな顔をした岩ちゃんと、それから相変わらず無表情の、夕莉ちゃんがいた。
「岩ちゃん、夕莉ちゃん? ここどこ?」
「このボゲ、『ここどこ』じゃねえんだよ!! 無駄な心配かけさせやがって……!!」
「ここは清水神社の社務所です。起きれますか」
「う、うん……」
夕莉ちゃんに手を貸してもらって、俺は身体を起こした。ふと夕莉ちゃんを見ると、いつもの制服姿やパンク系の私服ではなく、白と赤の巫女さんの格好をしていた。
「そ……そうだ、俺……! 虫が、俺の身体の中に……!」
「落ち着いてください。及川さんが気を失っている間、禊の儀式を行いました。及川さんの身体の中には、もう何もいません」
「へ……? つまり、夕莉ちゃんが助けてくれたってこと?」
「及川さんを助けたのは私ではなく、岩泉さんです。及川さんが倒れた時、岩泉さんがすぐに御神水を飲ませてくれたおかげで、及川さんは助かったのですから」
夕莉ちゃんの言葉を聞いて、俺は思い出した。以前、岩ちゃんは夕莉ちゃんに、清水神社の御神水を貰っていた。それをスポドリにしているなんてことを言っていたが、あの時に岩ちゃんが飲ませてくれたのは、きっとそれなのだろう。つまり、岩ちゃんの罰当たりな行為のおかげで、俺は助かったのだ。
「おい及川、あのレモンのハチミツ漬けを作ったの誰だ」
「え……!? な、なに言ってんの、岩ちゃん?」
「水無瀬曰く、お前がああなったのは、あのレモンのハチミツ漬けに入ってた毒のせいらしい」
岩ちゃんの言葉に、俺は言葉を失った。
毒? 風子が作った、レモンのハチミツ漬けに?
「及川さんの身体から蟲が涌いたのは、『蠱毒(コドク)』という呪術によるものです」
「は……? コドク……?」
「無数もの蟲を同じ容器に入れ、互いに共食いをさせ、最後に残った一匹を殺して神霊として奉り、その蟲の体液を毒として扱うという呪術です。この毒を喰らった者は、よほど運が良くない限り、まず死にます」
死―――
その直接的な言葉に、俺は風子の顔がよぎった。もうすぐ死ぬと語った、風子の顔を。
「あのレモンのハチミツ漬けが入っていた容器から、蠱毒の匂いがしました。誰かが及川さんを殺す為に、蠱毒を盛って……」
「そ……そんなハズない!! 風子が俺を殺すなんてこと……!!」
「風子……? おい、風子ってどういうことだ!?」
岩ちゃんが目の色を変えて、俺に問いただしてくる。そんなこと俺が聞きたい、夕莉ちゃんの言っていることは一体どういうことなんだ? だって、風子はそんなことをするような奴じゃない。俺のバレーが好きだと、いつか俺が全国に行くのを楽しみにしていると、そう言った風子が、俺を殺そうとするはずがない。
そこで俺は、辺りが既に暗くなっていることに気付いた。社務所の壁に掛けられた時計を見ると、もう午後8時だ。風子との約束の時間は、とっくに過ぎている。
「風子……!」
「お、おい! 及川、待て!」
俺は急いで飛び起きて、荷物も持たずに部屋を飛び出した。岩ちゃんと夕莉ちゃんに申し訳ないという気持ちすら浮かばず、頭の中にあるのは風子のことだけだった。風子が俺を殺すはずなんかない、きっと夕莉ちゃんが間違えているのだ。そうだよな、そうだと言ってくれるよな、風子。そんな、馬鹿げた期待を抱きながら、俺は風子の家に向かった。
風子の家は、北川第一から歩いて20分くらいのところにある、田んぼの中にぽつんと建つ一軒家だ。中学の時、テスト前の勉強だとか、夏休みや冬休みの宿題だとか、そういったことがあるたびに、俺や岩ちゃんは風子の家に行って、勉強を教えてもらっていた。俺も岩ちゃんも、そんなに頭がいい訳ではなかったので、同学年でも上位10位以内に入るほど頭が良かった風子に、よく助けを求めたものだ。風子はその度、「どうせ授業中もバレーのことばっかり考えてるんでしょ」と呆れて、それでも辛抱強く勉強を教えてくれた。
「あ……。北一、もう閉まってるんだ……」
風子の家に向かう最中、北川第一に差し掛かった。その校舎を見ていたら、たった2〜3年前のことだというのに、妙な懐かしさが心の中に涌いてくる。岩ちゃんや、金田一や国見、ムカつく後輩の飛雄に、それから風子。キツい練習に、悔しさばかりの日々に、大切な仲間たち。なのに、夕莉ちゃんのあの真っ黒な瞳が、蠱毒という言葉の響きが、頭から消えない。
「風子……」
「なあに、トオル?」
ふと俺がそう呟くと、背後から風子の声が聞こえてきた。驚いて振り返ると、風子はにこにこと笑顔を浮かべて、俺のことを見ている。てっきり家にいるのだとばかり思っていたので、俺は咄嗟に二の句を繋げなかった。
「ねえトオル、懐かしいね、北一」
「え……? あ、ああ、そうだね……」
「ちょっと、忍び込んでみない? コッソリとさ」
「え?」
風子は悪戯っぽく笑って、しっかりと閉じられた校門に手をかけて、ひょいっとよじ登った。とても病気とは思えない身軽さで門を越えた風子は、俺に向かってゆっくりと手招きする。俺は何故だか、その手に逆らえなくなって、言われるがままに校門を飛び越えた。
風子はそのまま、まるで子供みたいに弾んだ足取りで、体育館の方に向かっていく。いくら母校とはいえ、夜の学校に勝手に忍び込むなんて、などという考えが頭の中にはあるのに、まるで足が自分のものではないみたいに、風子のあとを追ってしまう。不思議なことに、普通であれば戸締りされているはずの体育館の扉は、開きっぱなしになっていた。
「ふふっ、懐かしいなぁ、このニオイ!」
「……」
「ネエ、覚えてる? ワタシたちが中一のクリスマス、北一で合宿したの」
風子は俺の手を掴んで、電気のついていない真っ暗な体育館の中へ、躊躇わずに入っていく。その手の力の異様な強さに、俺は違和感を感じた。
「あのトキ、合宿所はホカの部で埋まっちゃったからって、ミンナ暖房も何もない体育館で雑魚寝して……。ソレがあまりにも可哀想で、ワタシがこっそりホッカイロを持って行ってあげたら、ミンナ大喜びしてさ」
「あ……ああ……。あったっけ、そんなこと……」
「そのトキからだよね、トオルがワタシのこと、ナマエで呼んでくれるようになったの。トオルってば、すごい女性フシンだったから、ソレまでズット『カバネさん』って呼んでて」
「ふ……風子……?」
「ワタシ、スゴクうれしくて、やっとトオルがワタシのコトをシンライしてくれたって。マネージャーとしてもソウだし、ヒトリのおンなのコとしてもウレしくテ」
そう語る風子の声が、確かに風子の声なのに、何故だか別人のもののように聞こえた。風子に掴まれた手が、次第に冷たくなっていくような気がする。風子はくるりと振り返って、俺をじっと見つめてきた。
「ネエ、トオル。ワタシ、トオルのコトが好キ」
「……!!」
「ズット、ズット、好キだっタノ。今マデ、ズット、言えなカッタけド」
俺を見つめてくる風子の瞳は、白目の部分が一切無く、真っ黒だった。まるで、蟲の眼のように。
「トオル、ワタシ、ヒトリはイヤ……」
「ふ、風子……!?」
「ヒトリボッチで死ヌのハ、絶対ニイヤ……」
泣きそうな声で呟いて、風子は俺に抱き付いてきた。その瞬間、風子に触れられたところから、あの感覚が蘇ってくる。蟲たちが、俺の身体の中を這いずり回る、あの感覚が。
「ダカラ、ネ……」
「オネガイ、トオル……」
「ワタシト一緒ニ、死ンデクレル?」
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