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#06


「よう、なまえさん、目が覚めたか」

 寝起きに彼の顔を見るのは、これで二回目だ。

「体調どうだ?どっか痛いところとかねぇか?」

 目が覚めるくらい鮮やかなオレンジの髪。垂れた瞼の奥にある茶色の目。眉間に皺が寄っていて、口はへの字で、話し方はぶっきらぼうで。ヤンチャそうな見た目は、きっと気の弱い人間ならすぐに敬遠してしまう。
 でも私は知っている。その奥には優しさが詰まっている。知らない人間に手を伸ばす彼は、私が知っている中で誰よりも優しい人だった。

「なまえさんが寝てる間にバイト先から電話来てたぞ。勝手に休むって言ったけど……って、」

 私は彼の優しさを見ることができなくなって、情報を遮断するように思い切り布団を被った。布団の向こう側で黒崎くんが「おい!」と声を荒げる。続けて「やっぱどこか痛いところが、……倒れた時に頭でも打ったか!?」と聞く。それを否定するように首を振ったが、頭まですっぽりと布団を被ってしまったので彼に見えるわけがない。小さく「大丈夫」と伝えれば、それは深いため息が聞こえてきた。

「なまえさん、立てそうか?遊子が、家で飯作って待ってんだ。大丈夫なら俺の家に来て食べようぜ」
「……良いよ」
「それどっちの意味だよ」
「……遠慮します、ってこと」

 そう言うと、二回目のため息が聞こえてきた。

「今日ばかりは着いてきてもらうぜ。親父も待ってる。遊子も、夏梨も」
「じゃあ、申し訳ないけど、ごめんなさいって伝えてください」
「またそうやって遠慮する」
「遠慮じゃ、なくて」

 そう、これは遠慮じゃない。

「いらないって言ってるの」
「腹減ってないのか」
「黒崎くん、国語得意ならちゃんと読み取ってよ」
「どういうことだ」
「……ありがた迷惑ってこと」

 顔を隠しているせいで、いつもなら絶対に言わない言葉が滑るように出てくる。そのうち、私の口は止まらなくなっていた。

「私、君のこと苦手」
「は、」
「人の事情なんて知らないで、ずかずか入り込んできて。誰にでも優しくするだけでして、前後のことなんて考えないんだから」

 黒崎くんの表情は見えないけど、きっと刻まれた眉間の皺がいつもより深くなっていることだろう。

「兄が死んだとか、そんなこと、よく言いに来たなって思った。"自分のせいです"なんて説明してるけど、自分の仲間に手を出されたなんて言われたら、許すしかないじゃない」

 昔から兄は変な力に固執していて、そのせいで被害者がたくさん生まれた。彼らは時に廃人になってしまって、その尻拭いをするのはいつも私の役割で。だから、兄の罪を拭うのは、私の役割で。
 兄が死んだと聞かされて、私はその時の癖で彼らに謝罪した。ごめんなさい。兄がご迷惑をおかけしました。悪かったのは兄と、兄を止められなかった私です。

「許さなきゃ、いけないじゃない」

 でも本当は、謝ってほしかった。私たちを"一人"にしたお父さんとお母さんに。こんな風になるまで放っておいた周りの大人に。兄と等しく、私の事を掬ってくれなかった銀城さんに。勝手に私の思い出を奪った知らない人かれらに。勝手に兄を奪った黒崎くんに。私を置いていった兄に──私は謝ってほしかった。

「……私、あの人と仲良くなかった。マトモな人じゃなかったし、嫌な思い出ばっかりだし、置いてかれて……あの人は、全然いい兄なんかじゃなくて、」
「……」
「黒崎くんみたいな人が兄だったらよかったのにって、私、思って、」

 黒崎くんは理想の"兄"だった。優しくて、強くて、妹思いで、家族思いで、友達思いで、他人に優しくて。

「でも、私のお兄ちゃんはあの人だけだったから」

 お祭りの日に手を繋いでくれた事をずっと覚えてる。昔くれた折り紙を今でもお気に入りの本に挟んでる。写真は一枚もないけれど、小さい頃に描いた似顔絵が捨てられずにいる。そうしてかき集めた兄の記憶を大事に、未練たらしく取っておいた。理想のお兄ちゃんじゃなかったけれど、優しくなかったけど、確かにあの人だけが私のお兄ちゃんだったから。
 目の前の布団を、ぎゅっと手で掴んだ。そうしないと、何かが溢れそうだった。でもそんな努力も虚しく、私の心が決壊する。一番言いたくなかったことが漏れ出た。その言葉はきっと黒崎くんを傷つけるってわかっていたのに。

「なんで……なんで、死んじゃったのよ……」

 お金も優しさもいらない。お父さんも、お母さんも、欲しいなんてもう言わない。隣にいてくれなくても良い。ただ命があれば、それでよかったのに。私の知らないところで、私の知らない仲間たちと過ごしてくれればそれで。
 言葉をきっかけに溢れた涙を布団で拭いた。拭いても拭いてもとめどなく溢れてきて、止め方がわからない。そういえば、お兄ちゃんは涙の止め方すら教えてくれなかったなと思う。あの人は、誰かに涙の止め方を教えてもらえたのかな。

「なまえさん」

 そこでようやく、黒崎くんが言葉を発した。布団の向こう、表情はわからない。でも変わらずぶっきらぼうで、優しい声だった。さっきまで彼の顔なんて見たくないと思っていたのに、私は急に彼の顔が見たくなった。
 目だけ見えるように布団をずらすと、ふと大きな手のひらが降ってきたのがわかった。それを黒崎くんの手だと判断するのには数秒かかって、私はその手を避ける事なく頭で受け止めてしまう。温かい手のひらが私のおでこを撫でた。

「くろさきく、」
「許してくれ、なんて言わねぇよ」

 続けて黒崎くんは「なまえさんの大事な人を奪ったんだ。俺はずっと、怒られる覚悟してた。殴られてもしょうがねぇって思ってたぐらいだ」と言う。

「でも、安心した」
「……は?」
「ずっと泣きそうな顔してんのに泣かねぇし。悲しいとか、そういう弱音何にも吐かねぇし」

 黒崎くんはその声と同じように、優しい目で私を見下ろした。しかし優しさの中に、少しの安堵も見られる気がする。私はその目に「なにそれ」と思わず悪態ついてしまった。

「だから今度こそちゃんと謝らせて欲しい……謝らせてください」
「ちょ、ちょっと、黒崎くん」
「本当に、すみませんでした」

 そう言って黒崎くんは深く頭を下げる。オレンジの髪がサラリと揺れる。茶色の目は瞼に覆われて見えない。眉間の皺はそのままで、でもへの字の口は後悔を噛み締めるように噛み締められている。私はそれを見て、止まったはずだった涙がまたじわりと溢れ出した。
 この子、私に謝ってくれたんだ。そう理解したのは、言葉よりもずっと後。彼の顔を見てからだった。

「俺が謝ったところで、月島は返ってこないし、なまえさんの気持ちが晴れることもない」
「……うん」
「償いも罪滅ぼしもできやしねぇんだ。そんなの全部、自己満足だってわかってる」
「そうだよ」

 でも謝らせて欲しい。そう言って、黒崎くんがまた頭を下げようとしたところで私は立ち上がって、彼の襟ぐりを掴んだ。私の行動に黒崎くんは驚いたような表情を見せたが、彼が声を上げることはなく、どころか私の腕を解こうとはしなかった。

「お兄ちゃんを返してよ」
「……ごめん、」
「お兄ちゃんに謝ってよ」
「悪かった……」
「お兄ちゃんに、……お兄ちゃんが……」

 私の腕が力を失くして、彼の襟ぐりを掴む手が力なく下がった。足に力を入れていられなくなって、私はぺたりとフローリングに座り込む。頭が重くて顔を上げていられない。目の前にあった黒崎くんのスラックスの生地をゆっくりと掴む。皺になっちゃうなんてことは考えもしなかった。ただ何かに縋らないと、倒れてしまいそうだった。

「お兄ちゃんが、死んじゃった……」
「……」
「っ、お兄ちゃんが、しん、死んじゃった、よぉ……っ」

 喉から引き攣ったような嗚咽が漏れ出て、涙はやっぱり止まらなくて──私は子供みたいに声を上げて泣いた。よく覚えていないけど、お母さんとお父さんが死んだ時もこうやって泣いていたのかもしれない。黒崎くんは泣いている私の目の前に屈んで、また頭を撫でてくれた。それから溢れる涙を指で掬って、遠慮がちに私の身体を抱きしめる。それはいい歳をした大人の男女がする抱擁ではなかった。時に頭を撫でられて、時に背中をぽんぽんと叩かれて。迷子の子供をあやすためのそれを、私は受け入れる。彼の大きな背中に手を回して、彼の肩で思い切り泣いた。
 喉元でわんわんと泣かれてうるさかったに違いない。服なんて、いろんな液体でべちゃべちゃに汚れてしまった。それなのに黒崎くんは、私が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。





 お腹からかわいいとは言い難い腹の虫が音を立てる。ここ最近まともなご飯を食べていなかったせいでもあるが、先ほどこれでもかと言うほど泣き喚いたせいでもあるだろう。泣くのは案外、カロリーを消費するからしょうがない。
 とっくの昔に日は暮れており、住宅街を歩く人はほとんどいない。こんな姿を知り合いに見られたらどうしようと思っていたからちょうどよかった。

「……やっぱ降りるよ、黒崎くん」
「いいって。また倒れられても困るし」
「でも……」

 あのあと、泣き止んだ私に黒崎くんは「ウチ行って飯食おうぜ。ありがた迷惑とか言っても絶対連れてく」と言って、屈んで背を向けた。その行動がどういう意味かわからずに頭を傾げていると、黒崎くんは振り返って「背中乗れよ」と臆面もなく言ったのだった。つまり彼は、私を負ぶって黒崎家に行こうとしていたらしい。
 私はそれを拒否した、それも全力で。だって五、六歳ほどの下の男の子におんぶされるなんて、どんな罰ゲームなんだと思う。しかし黒崎くんの意思は固く、何がなんでも私をおんぶするつもりだった。固まったままの私の手を掴んで、無理やり首に回され、そのまま両足をホールドされれば、不恰好なおんぶの出来上がりだ。「もうちょいくっついてくれ、バランス取りづれぇから」などと言われれば、もはや彼からは逃げられなくなっていた。

「じゃあ、ウチの近くになったら下ろす」
「うん……そうしてちょうだい」

 黒崎家への道中は静かだった。たまに黒崎くんがポツポツと話すこともあったが、私はそれに相槌を打つだけだった。妹さんたちが小学生の頃はよくおんぶしてからつい……なんて、あまり聞きたくなかった情報に顔をむっと歪ませると、見えてないはずなのに黒崎くんは笑っていた。

「……思い出した。私も、昔お兄ちゃんにおぶってもらったことがあるの。祭りの帰りにね、疲れたって言ったら"僕がおぶってあげるから、乗りな"って」
「へぇ」
「でも黒崎くんみたいに逞しくなかった、気がする。よく覚えてないけど、もっとガリガリだったし。案の定すぐにへばったお兄ちゃんに"もう降りろよ"って言われた」
「自分から乗れって言ったのに?」
「おかしいよね。……あの人、昔は弱かったから」
「俺だって昔は弱かったよ。泣いてばっかだった」

 「鍛えたんだね」と言えば「そうしないといけなかったってだけだ」なんて返された。

「……俺みたいなのが兄だったらよかったのにって、なまえさん言ったよな」
「うん?」
「俺はなまえさんの兄には一生なれねぇけど……友達ならなれると思うぜ」

 そろそろ下ろすぞ、と言われて、私はそっと地面へと脚をつけた。そういえばさっきまでずっと寝ていたし、起きてからはおんぶされてたわけで、自分の脚で歩くのは久しぶりだなと思った。「こっちだ」と言われて、私は何も言わずに黒崎くんの後ろを追う。口数の少ない私を不思議に思ったのか、「緊張してるのか」と尋ねられた。

「緊張じゃない、けど」
「気負わなくていいよ。俺の家族はみんないい奴だから……ああ、親父はちょっとウザいけど悪気はないから」
「気負ってるわけでもなくて」
「じゃあどうした?」
「……友達の家に行くの初めてだから」

 黒崎くんは「そっか」と小さく言って、朗らかに笑った。
 クロサキ医院と書かれた建物を眺めていると、奥の方から可愛らしい声がふたつ、「おかえりなさい!」と言った。その後に低い声がこだまして、黒崎くんがそれに大きな声で返事をする。私は隣で、彼らの勢いに押されて黙り込んでしまった。
 お兄ちゃんも、誰かにこうやってしてもらえた?お兄ちゃんを看取ってくれた優しい人とは、こんな生活ができていたのだろうか。変な力を使わずとも、あなたを受け入れてくれる人に出会えたのだろうか──私と同じように、一人じゃないと思えたら良いな。

「おじゃまします」

 彼らの顔を見たら自然と口からその言葉が出ていた。少し震えた脚を叱咤して、門をくぐって、玄関に入る。そうして私はようやく、彼らの優しさへと飛び込むことができたのだ。








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