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#04


 お兄ちゃんが最後に優しい言葉をかけてくれたのは、いつだろう。お兄ちゃんと最後に家族のような言葉を交わしたのはいつだろう。
 それが思い出せないのは、私とお兄ちゃんが会話したのがもう随分と前のことだからだ。小さい頃のお兄ちゃんは私に優しかった、というわけではない。どちらかと言うと、霊的な何かを見えない私のことをお兄ちゃんは疎ましく思っていたのだと思う。それでも血の分けた兄妹だからという理由で、お兄ちゃんは私の手を離すことをしなかった。

「おはよう、なまえ」
「おはよう!なまえ!」

 ──あの時までは。

「あ、……え、あ?おはよう……えっ?」

 朝起きたら、知らない男が食卓に同席していた経験はあるだろうか。私にはある、それも何度も。座っているのは男だったり女だったりしたのだが、彼らは皆同様に、私や兄と顔見知りであるように話しかけてきた。ただ、その人も兄も何もおかしくないと言うかのように、これがいつもの日常だと言うかのように、食事を始めた。
 話したのは、皆似たようなことだった。私が知らないこと、私が知っていること。そんなのはどうでも良い。ただ、彼らは自分を「私たちの家族」だと言った。父か、母か、兄か、姉か、弟か、妹か、叔母か、叔父か──皆、そのどれかだと言う。
 私の両親は既にいない。私も兄もまだ小さい頃にいなくなったのだと、兄から聞いた。だから私の家族は正真正銘、目の前に座るこの兄だけなのだ。私の兄、月島秀九郎。ずっと、たった二人の家族として過ごしてきた。だというのに、突然現れた"彼ら"はなんの不自然もなく、兄の隣に座り、思い出を語る。
 その"知らない人"は兄の弟で、私の兄だった。三人兄弟のちょうど真ん中。私同様兄のことが大好きで、昔はよく私と兄を取り合っていた。九歳のときに行った祭りで、兄と逸れて私と二人になったことがある。その時ばかりはいつもの喧嘩をやめ、二人で手を繋いで、祭り会場をしらみ潰しに探し回った。結局、花火のよく見える境内に続く階段に兄は立っていた。身長が高いから見つけることができたのだ、と言って、しかし耐えきれなくなった涙がこぼれ落ちて、私たちは大きな声で泣いた。兄はそれを宥めるために、私たちの頭を撫でて、それから肩車をしてくれて、一緒に花火を見たのだ──と、彼は言った。

「懐かしいなぁ。あの祭り、もうすぐじゃないか?」

 その思い出は、私だけのものだったのに。

「そうだね。また行ってみようか」

 結局、その男はしばらくすると居なくなってしまった。最初に来た男だけではない、次に来た女も、その次に来た別の男も、しばらくすると皆家からいなくなる。それを補填するかのように、新しい人が来る。その繰り返しだった。
 私はそれについて苦言を呈したことがあったが、兄は「じゃあ次は僕たちの思い出に彼を入れるんじゃなくて、彼らの記憶に僕たちを挟もうか」とよく意味のわからないことを言っていた。





「……黒崎と喧嘩したんですか?」
「えっ?」

 石田くんが私の家を訪れたのは、しばらくぶりであった。
 元々彼は黒崎くんと比べると、私の家に訪れることは少ない。たまに私の家に来たかと思えば、二、三言だけ会話して帰ってしまう。それもほぼ、現状報告のようなものに近い。模試の結果が良かったとか、志望校をワンランクあげるか迷っているとかの話をして、それから私に最近大学生活はどうかと聞いてくる。彼が、私の私生活について尋ねることはほとんどない。
 多分彼は、石田くんは、他人にそこまで興味がないのだと思う。興味がないふりをしている、の方が正しいかもしれない。しかし優しいから、結局何かあったら尋ねてしまうのだ。こんな風に。

「して……ないよ?」
「しかし、黒崎は最近ここに来ていないでしょう?」
「えっ!なんでわかるの?」
「なんとなく」

 石田くんはなんとなくとは言ったが、兄のような力関連だろうな、というのはピンと来た。だから、私もそれ以上は聞かないことにした。

「喧嘩したわけじゃないよ」
「本当に?」
「うん。本当に」

 別に喧嘩したわけではない。ただ、なんとなく私が彼を避けているだけなのだ。
 黒崎くんが私の頭を撫でてくれた日──あれ以来、私は黒崎くんに会うのをぱたりと辞めた。申し訳ないとは思いつつも、彼が来ても居留守を使うようになった。罪悪感が募って、最近では彼が来そうな時間帯に新しくアルバイトを入れるようにした。それからは全くと言っていいほど顔を見ていない。黒崎くんは敏い人だから私が避け始めたのを感じ取っていて、彼自身も私に合わないように気を遣っているのだろう。

「僕としては、アイツが来ていないとわかったほうが訪ねやすいですけどね」
「あはは、相変わらず仲悪いなぁ」
「……、そんなことより寝れてますか?」
「なに、石田くんまで同じようなこと聞くの?」
「まで?」
「うん。黒崎くんにも前に同じこと聞かれた」

 そう言うと、石田くんは苦虫を噛み潰したような顔をした。バツが悪い、とも言う。

「黒崎はともかく、僕は医者志望としてあなたに言っています」
「そう」
「あなたも医学部な訳ですし……医者の不養生というのはよくないですよ」
「そう、だね」

 私の煮え切らない返答に彼はため息をつくと、これを、と言って紙袋を差し出してきた。四角いものが数個入っていて、ちゃぷりと音を立てている。それは、黒崎くんにもいただいたことのあるものだった。

「……食事?」
「鯖の味噌煮と、筑前煮です」
「えっ……わ、悪いよ。どう見たってお家の方の自作じゃない!」
「僕の手作りです」
「もっと遠慮するよ……!!」

 学生の子にたかる趣味なんてないんだけどなぁ。しかし石田くんは、私の考えを読み取ったかのように「僕がしたくてやってることです」と言った。その答えがまるで黒崎くんのようだと思ったが、すぐに黒崎くんに結びつけてしまう自分に恥じて、頭を振った。
 私は黒崎くんのことが好きだと、はっきりと言える。それは恋慕や愛情や、友誼なんて生やさしいものではない。もっと醜い、恥ずべき感情だった。
 それは、私の兄がしたことと同じことだ。兄は寂しさのあまり仲間や家族、恋人を作ろうとした。己を心から理解してくれる、自分のためだけの存在──理想。
 私は黒崎くんに頭を撫でられた時、不覚にも彼に"兄"を求めてしまった。理想の、お兄ちゃんを。

「……ありがとう、石田くん」

 恥ずかしい。

「いえ。いつもの手土産みたいなものですから」

 恥ずかしくて、たまらない。

「食べ終わった容器は、また取りにきます」
「いいよ、石田くんの家に持ってくから。ご自宅はどこ?」
「いえ、僕が取りに行きます。……無闇に男の家なんて来ない方がいいでしょう」
「え?……ああ、そういう、」

 石田くんの言葉にはっとして顔を上げる。彼の身の上の話はこれが初めてだった。
 実家に住んでる学生が、自分の家を「男の家」だなんて表現することはないだろう。そうか、彼も一人暮らしだったなんて。自分の失言に気づいた石田くんは、またしてもバツが悪いといったような表情を浮かべた。

「一人暮らしで医者志望って大変そう」
「え?」
「……って、実家住みの人に前言われたの。他人のことして、家では自分のこと全部やらないといけない。実習先が辛くても、家族に愚痴も言えないなんてって」
「子供みたいなことを言う人ですね」
「だよね、私も同じこと言った。大人になったら、そういう風に生きてる人の方が大多数じゃないのって思った」

 でもその人にとっては、自分が普通だから、私が大変な人だと思ったらしい。きっと深い意味はない、ただの世間話だ。それでも私は、その言葉がずっと心に刺さっている。
 ずっと一人だったから、自分のことを自分でやるのは当たり前だった。家に来た"知らない人"が突然発狂することもあったから、誰かの世話をするのだってへっちゃらだった。家族に愚痴を言うことなんて、生まれてこの方一度だってしたことがない。だから私は、私を大変だと思ったことはなかった。

「でも世間的に見たら、私たちみたいな人間ってすごいみたい」
「……」
「だから、勉強がんばろうね、石田くん」

 一緒に、なんて言わない。私たちは一人同士だ。その思いを込めて、私はじゃあねと言って、帰宅を促すように手を振った。
 黒崎くんの時のように恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない。石田くんの優しさと孤独に付け入って、仲間になろうなんて、理想の仲間になろうなんて思っちゃダメだ。それこそ、兄と同じになんてなりたくない。
 閉じた扉の向こうから階段を降りる音がする。石田くんが立ち去ったのを確認して、私は玄関の鍵をかけた。彼が帰った部屋で、私はまた一人だった。








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