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#03


 なまえさんの家に通うようになってはや一ヶ月が経ち、もはや勝手知ったるなまえさんちとなった。苦学生の住うワンルームの部屋は物が少なく、しかし簡素というわけでもない。不必要なものを置いていないと言った方が正しい。ベッド、机、収納棚、その他諸々。なまえさんの生活はこの部屋だけで完結している。
 石田と二人で来た時は狭いと感じていたこの部屋も、俺となまえさんなら狭くは感じない。おそらくなまえさんが同年代より細く小さいからだ。小さなローテーブルに広げられたノートを、背を丸めて読み込むなまえさんに目を向ける。肩なんて俺の半分くらいしかないのではと錯覚するくらいだった。

「……って、なまえさん眠そうだな」
「ん、んー、ちょっとね」

 なまえさんはそう言ってあくびを噛み締める。先ほどからうとうととして、どこか集中していない。頭が揺れて机に倒れ込みそうになったのを見て「寝た方がいいんじゃねぇか」と言ったが、なまえさんは首を横に振った。

「ううん、ちょっとってだけだから大丈夫よ」
「最近寝れてねぇのか」
「今実習が忙しくて。バイトも減らせないしね」

 なまえさんは実家も頼れない苦学生ゆえ、毎日塾講師や夜勤のバイトに明け暮れている。残った時間で学校に通い課題や実習に手をつけるという、なんとも体を壊しかねない、あり得ない生活を送っていた。それを知ったのは俺が家に来るようになって二週間が経った頃だ。じゃあもう来るのやめるよ、と言ったのだが、なまえさんは「そんな悲しいこと言わないでよ」と言って俺を引き止めた。そんなこと言われたらまた訪ねるのは当然だろう。

「例の振込、少しくらいなら手つけても良いんじゃねぇのか」
「でも、黒崎くんが私の立場なら絶対使わないでしょ」
「まあ……」

 例の振込金というのは、なまえさん曰く「あしながおじさん」からの振り込みのことだ。なまえさんも相手のことはよくわかっていないのだが、多分兄関連の人だという。なぜ相手が自分の口座を知ったのかは不明だが、兄が出て行ってから毎月一定、それもかなり大きな金額が振り込まれているらしい。……というのを聞いて、アイツらの仕業だろうなということはすぐにわかった。本当、アイツらどうやって資金繰りしてんだ。
 なまえさんはそれを一切使ったことがないのだと言う。確かに相手がわからない以上使うのはリスキーだ。もし不当な手段で得られた金だったらなまえさんの身が危ない。でもそれ以上に──なまえさんは頼り方を知らないから使わないのだと思う。

「大丈夫。私平気だよ、ずっとこうやって生きてきたし」
「……」
「なにその目、ほんとに平気だってば」

 なまえさんは相当な努力の人だ。兄が出て行き一人になっても、なんとか生きようとアルバイトで生計を立てていた。話を聞けば、月島は出て行ってからもなまえさんに対してそこそこ資金援助をしていたみたいだが、だからといって生活の苦しさは変わらなかったのだという。
 そんな中でもこの人はひたすら勉強し、国公立大の医学部に合格し、奨学生となり学費免除をもぎ取った。彼女の努力は実を結んでいる。そうして一人で努力し続けた結果がこれだ──彼女は人の頼り方を忘れてしまった。俺が家に飯食いに来いよ、と誘っても、なまえさんは一度だって乗ってくれたことがない。「ご家族にご迷惑だから」と頑なに抵抗を続けていて、それならばと思いタッパに遊子の作ったメシを詰めて渡している。なまえさんはそれまでまともな食生活をしてこなかったらしく、毎回長めの感想とお礼のメールが送られてくるから、きっと迷惑ではないと思う。……思いたい。

「コーヒーでも淹れようかな」
「俺が淹れてくるよ」
「お客さんにやらせるわけにはいかないよ」
「いいからなまえさんは座っててくれ」

 簡易的なキッチンスペースでなまえさんと俺の分のコーヒーを入れる。インスタントコーヒーとはいえ流石にブラックでは寝不足の胃にはきついだろうと思い、ミルクをたっぷり入れた。これではコーヒーというよりコーヒー風牛乳だなと思いながらなまえさんの元に戻ると──彼女は、机に突っ伏して眠っていた。すうすうと寝息を立てる彼女に一つため息をついて、マグカップを二個とも机の上に置く。目の下に深く刻まれたクマを思わずなぞると、なまえさんは身じろいで、小さく寝言を言う。

「──おにい、ちゃん」

 その言葉に動きを止める。弱々しく、辿々しく、迷子にでもなったかと思うほどの声色は不安そのもので──その声と姿に、俺は思わず遊子と夏梨の姿を見ていた。





 なまえさんが起きたのは、それから数時間経ってからだ。二十時を回ろうとしていた頃、なまえさんは勢いよく起きて「朝!?」と叫んだ。しかし俺の姿を見るや否や、ベッドの上で正座をし綺麗な土下座をかましたのだった。

「その、運んでくれたんだよね……重くなかった?」
「いや全然」

 お世辞でもなんでもなく、なまえさんの身体は随分と軽かった。やっぱりメシ食わせた方がいいなと思い、一度家に帰って持ってきたタッパを見せれば、なまえさんは再び頭を下げる。かたじけない、とかなんとか言う彼女の頭に手をぽんと置く。すると、なまえさんは驚いたような顔で俺を見つめた。……あ、やべ。

「……、え、」
「あっいや、わり」

 そんなつもりじゃなかった。頭を撫でるつもりなんて本当になくて、でもなまえさんの頭がちょうどそこにあったから手を置いてしまっただけで。
 咄嗟に手を離そうとすると、なまえさんはなぜか俺の手を掴んで止める。俯く彼女の表情は伺えず、ただどうしたらいいのかわからずに固まってしまう。なまえさんは伺うように、俺の顔を見上げて言った。

「もうちょっとだけ──」

 なまえさんはそう言うと、俺の手を自身の頭に乗せた。俺は遊子や夏梨にしてやったようになまえさんの頭を撫でる。なまえさんはただ何も言わず、しかし今にも泣き出しそうな表情を浮かべてそれを受け入れている。どこか遠くで、なまえさんの泣き声が聞こえた気がした。








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