■ ■ ■


 俺がこのガキを拾ったのは、このガキがあまりに可哀想で──などという慈善目的じゃない。このガキを気に入ったから。ただそれだけだった。

「なまえ、これを食べろ」
「……」
「食べないのか」
「……」
「それじゃあこっちだ、食べろ」

 味の薄いパスティーナをスプーンで掬って口に近づけても、このガキは口を固く閉ざしていた。それならばと思いミネストローネを近づけるが、やはり食べない。暗殺チームの人間はこういう病人食を作れるような人間はいないため、作るのになかなか手間と時間をかけたというのに、こうして食べてもらえないと少し苛立ちが湧いてしまう。子供を育てる親というのは、こういう気持ちなのかと納得した。

「食べないと体力がつかないだろう」

 なまえは思ったように口がきけず、それどころか言葉も満足に理解できていないようであった。だからきっと、俺の言葉も理解できていない。そのせいで俺が話すたびに、なまえはビクリと肩を震わせる。そして、拾った時もそうだったことを思い出した。
 なまえがいたのは暗くて汚いゴミだめだった。比喩ではない。まともに掃除もされていない家の中で、特にゴミのたまった片隅に彼女は転がっていた。そこが風呂場だと気づいたのはシャワーヘッドを足で踏んだからだ。それまでは本当に、狭い一室だと勘違いしていた。
 浴槽と思しきものの中に、ゴミと一緒に寝ていた女の子ども、それがなまえであった。手足は俺が片手で折れそうなほどで、全身皮しかないんじゃないかと思えるぐらいで、細いというより薄っぺらだった。まともにご飯も食べさせてもらえなかったのか、肌艶もなく、髪の毛がパサパサしているように見える。きっと、風呂も何日も入っていないのだろう。ゴミの腐った匂いと、皮脂のにおいが混ざって鼻につく。

「お前、名前はなんだ」
「……ぁ……」
「名前は、なんだ」
「……」
「お前、口がきけないのか?いや……言葉がわからないのか」

 子供は呻き声をあげるだけだった。殺した人間のことを思い出すような真似はいつもならしないのだが、そういえば、女親はアジア人だということを思い出した。たしかによく見れば、目や髪色がどこかイタリア人と違う気がする。
 子供に近づいて、ゴミだめから抱き起こしてやる。薄っぺらい身体は触るとさらに薄かった。皮と骨しかなくて、力を入れたらぽきりと折れてしまいそうだと思った。それと同時に──少し驚いた。俺はまだこんな風に人と接することができるのか。こんな優しい手つきをできるのか。殺し屋だというのに、呆れてしまう。
 抱き起こして浴槽から出してやったものの、子供は自分を支える力もないのかすぐに床にへたり込んでしまう。随分と衰弱しているらしい。この子供がいつから食べていないのかは定かではない。俺がこの子供の親を殺したのが一週間前。家の位置を知ったのが三日前。子供がいることを知ったのが昨日のことだ。一週間まったく食べていないというわけでもなさそうだが、この衰弱具合ではどうだかわからない。
 子供を起き上がらせて肩を掴み、子供と目を合わせれば、黒い目はようやくこちらを向いた。よく見ると頬が腫れ上がっていて、親に殴られたのだろうというのはすぐにわかった。

「お前の父親と母親は死んだ」

 男と女は別組織に麻薬の横流しをしていたのだという。そしてその果てに殺された。俺が殺した。半分くらいは見せしめのためでもあるかもしれない。
 あいつらはまともな人間じゃあない。子供を殴り、飯も与えず、ゴミだめで生かす親がまともな親な訳がないのだ。男と女はきっと殺されてもなにも文句は言えない。まあ、死人に口はないのだけど。
 子供は俺の言葉がよくわからなかったのか、ぼうっとこちらを見るだけだった。泣きもせず喚きもしない。ただ少し怯えたように俺のことを見つめていて、その目に何故か俺は安堵して、それから──。

「行くぞ」

 先ほど浴槽から救い出した時と同じように腕の下に手を入れて抱き上げる。その時にはもう、匂いも体の薄さも気にならなかった。
 ただ俺は、彼女でなくてはならないと気付いてしまったのだ。この女を拾うのは俺でなくてはならない。他の人間──ましてや行政や福祉が拾い上げる前に、俺が拾って、この子供に飯を食わせてやらねばならない。俺の殺した人間の子供だ。その人間が握っていた生き死にの権利も義務も、俺が握るべきだ。一人で生きていけないというのなら俺が生かしてやるし、一人で死ねないというのなら俺が殺してやるしかない。
 要するに、俺はこのガキをたいそう気に入ったのだ。一目惚れに違いなかった。





「や、やっ」
「嫌か。それならばどうされたい?」
「や、やなの、いや」
「俺はお前にどうしたら良い。なまえ、お前は俺にどうされたい」

 出会った時よりかは厚くなったが、それでも薄い腹は薄いまま。そんな腹を撫であげれば、なまえはイヤイヤとだけ言った。大きな目に涙を浮かべて、小さな手のひらで俺の肩を押す。
 こいつの名前は、ゴミだめの中にあった一冊の絵本の裏に書いてあった。口もきけない子供が書いたとは思えない字をしていて、大人が書いたのだろうというのはすぐにわかった。メローネ曰く、こいつの名前はやはりアジア系の名前だとのことだった。俺がその名前を呼ぶとなまえの肩は少し跳ねる。

「なまえ、思ったことは言わないとわからないだろう」
「う、うう、う、」

 なまえの体を抱きしめる。細いくせに、体温だけは子供らしく高い。生きている体温だ。少し前まで浴槽で死にかけていた子供だとは思えない。少しずつ飯を食べるようになって、少しずつこのガキは死から遠くなっていった。メローネが甲斐甲斐しく世話したおかげで、話せる言葉も少しずつ増えた。最近ではメローネ以外にもプロシュートやペッシとも話していたと記憶している。

「痛い、いたい……」
「……」
「おなか、いたい、ひりひりする、う、うぅ、」

 べそをかくなまえに不思議と口角が上がる。本当に人間に近くなった。この子供は、ようやく痛いことや苦しいことを自覚した。あの地獄のような日々に無関心でいた今より、こうして泣いている方がよっぽどいい。
 なまえの名前を呼んで、彼女の小さい身体を抱きしめた。俺の腕の中で強ばって、小さい身体が余計小さくなる。

「俺は、お前が生きているだけでいいんだ」
「……う、うぅ、」
「お前は人間らしく、笑って、泣いていればいい」
「ぅ、あ、痛い、いたい……」
「飯を食って、寝て、セックスをして……普通に生きて、結婚して子供を産んで、老後はどこかの島でゆっくり暮らすのもいいな」

 なまえはただ、腕の中で泣き続けていた。
 死から遠くなり、その代わりに人間に近くなっていく。しかしいつまで経っても俺となまえの距離は遠いままだ。
 死んだ従兄弟のことと、殺された仲間のことを思い出していた。あいつらは、理不尽な大人に殺されて死んだ。この世には理不尽な大人ばかりで、なまえの親もそういうやつだった。そして子供に皺寄せがいく。ギャングだけじゃない、どこだって弱肉強食の世界に変わりはない。立つことも、喋ることもできない子供が一人で生きていけるとは到底思えない。きっとなまえは食い潰される弱者だ。

「なまえ、お前は勝手に死ぬんじゃあないぞ」

 距離が遠くとも、俺がこいつを手放さなければこいつは生きていける。それならばそれでよかった。
 首筋に歯を突き立てる。なまえは少しだけ情けない声をあげて、小さくなってそこで生きていた。



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