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 つい先ほど、私は失恋した──と言うと、あまりにも聞こえが良すぎる。私は男に捨てられた。好きだと言ってくれたあの人は、最後には浮気をさせたお前が悪いと言って家を出て行った。付き合ったのが大学を入学した頃で、先月二年目のお祝いをしたばかりだった。試験が忙しいからと彼の部屋でしたささやかなお家デート。その前日に、その部屋に別の女を連れ込んでいたなんて誰が予想しただろう。
 はじめに好きだと言ってくれたのは向こうだったけど、私だって確かに好きだったのに。二人でいろいろなところに出かけて、何をしてくれたら喜んでくれるだろうとずっと考えて、好きなところはしっかりと伝えて──拙いながらも恋をしていたのに。でも、私のそんな子供っぽいところが嫌いだったなんて、別れる時に言わなくてよかったじゃない。
 彼の部屋から飛び出して逃げるように家を出た。ずっと置かせてもらっていた荷物のことや、天気予報のことを考える暇もなくて、今どこにいるかなんて分からず、がむしゃらに走った。途中で転んだり、ヒールが折れたりしたが、ひたすらに走った。それでも帰巣本能というやつなのか、私の身体は自然と自分のアパートを目指していたらしい。気付いた頃には、あのボロアパートの一階のコンビニの前にたどり着いていた。
 しゃくりあげる喉を押さえつけてコンビニに駆け込む。入店音と同時に店員の男が挨拶をしかけて、しかし私を見て口をつぐみ、ただじっと見つめてきた。そんな彼の目線も、髪の毛から滴る雫が店内の床を濡らすのなんて構わなかった。構う暇なんてなかった。薄手のワンピースが雨に濡れて張り付いて、私の動きを緩慢にさせるが、それを振り切るように足を踏み出す。店内の冷房が身体の熱を奪って気持ちがいい。

(……お腹すいた)

 彼のためにと作ったご飯は食べそびれてしまった。きゅるりとなるお腹を押さえつけつつおにぎりコーナーに向かったが、こんな時間に在庫が残っているわけもない。それに、今の気分はおにぎりなんかじゃない。もっとジャンクで、女らしくなくて、彼の前では絶対に食べないものにしよう。そう考えたら、足は自然とカップ麺のコーナーへと向かった。にんにく入りの豚骨ラーメン(増量)と、適当に選んだ缶ビール、大好きなアーモンドチョコレート。こんな組み合わせは絶対に肌が荒れるから、彼と付き合っている間はずっと我慢していた。商品三つを持ってレジに行けば、先ほど私をじっと見ていた男が、ようやく口を開けた。

「……いらっしゃいませ。レジ袋はご入用でしょうか」
「いえ」
「箸おつけしますか」
「お願いします」

 必要最低限の会話を終え、ICカードで支払いを済ませ、私は受け取った商品を持ってすぐに店内のイートインコーナーに向かった。カップ麺のビニールを適当に破ってお湯を入れ、五分。腹の虫が鳴っているのにそんなに待てるわけがなくて、おそらく二分ほど──時間を測っていたわけではないから、もしかしたら一分かもしれない──待って、蓋を切り離して捨てる。スープを蓋の上で温めなければならないということには、その時に気が付いた。まあ、温めなくても大して変わりないだろう。

「……いただきます」

 適当に割り箸でかき混ぜて、まずは一口。溶け切らなかったラードと芯の残った麺が口に運ばれる。ずるずると言うより、ばりばりと、せんべいでも食べてるみたいな咀嚼音。スープもうまく馴染んでなくて、麺とスープが別物みたいで、全く美味しくない。それでも冷えた身体にはちょうどよくて、別れ話を切り出したあの人と食べるご飯よりずっと美味しくて、私は無心でそれを口にした。ついでに鼻も啜りながら、漏れ出る涙をラーメンと一緒に啜る。このままビールで流し込んでしまおうと缶に手をつけたところで──肩をとん、と叩かれた。

「お客さま」

 それは、レジを担当していた男だった。……改めて顔を見ると、随分と整った顔立ちの色男だ。男性にしては長い髪の毛を後ろで緩く束ねているところや、目の下に一つある黒子がなんとも言えない雰囲気を醸し出している。元が良いからかただのコンビニチェーン店の制服ですら格好良く着こなしていた。そこらへんにいるような、量産型文系男子大学生の見た目をしているあの人とは全く違う。
 こんな人、この店にいただろうか。この店を利用して三年ほどになるが一回もこんな人は見たことない、一度見れば忘れるわけのないほどの美形だと言うのに。もしかして、新しく入ったバイトの人だろうか。
 彼の姿にぼうっと見惚れていると、彼は人差し指を壁の方へ差した。

「ここ、アルコール類禁止なんです」
「え、あ……」

 確かに壁には"イートインコーナーの利用に関するお願い"と題して、いくつかの注意事項が書き記されており、その中にアルコール禁止の旨も書いてあった。私はそれを見て、すっと身体の中にあった熱が降りていくような心地がした。

「す、すみません、気づかなくて、……あの、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそすみません」

 ……なにをやっているんだろう。彼氏にひどい振られ方をして自暴自棄になっていたとはいえ、ルールも守れないなんて。濡れ鼠のまま入店し、店内の床を濡らしてしまった挙句がこれか。彼の手にするモップを目にして、思わずもう一度「ごめんなさい」という言葉が口から出た。声が震えて、音になったのは一部だった。しかし、大学生とは思えない情けない謝罪にもかかわらず、男性はにこりと笑った。

「家どちらですか」
「えっ」
「送ります。もうバイト、上がりだから」

 なんでもないような顔で言う彼に、涙が引っ込んでしまう。待って、なんで、どうして……そんな私の戸惑いの声に彼は聞く耳を持つことはなく、バックヤードへと消えていった。
 家は真上なんだから、彼の言葉なんて無視して帰って仕舞えばよかったのに、私は律儀に座って待っていた。アーモンドチョコを食べながら、ビールの結露がテーブルに溜まるのを眺めていると、後ろから再び肩を叩かれる。髪を下ろし、制服から私服へと着替えており、ラフな格好だというのに思わず胸が高鳴る。我ながら尻軽だ、これじゃあ元彼のことを責められない。

「じゃあ、行きましょう」
「あ……あの、私、この上で」
「え?」

 彼の動きが、止まる。

「私、ここのアパートの三階で……」

 そう言うと、ぎこちない表情で「そうだったのか」と彼は言った。

「ごめん……まさか同じアパートの、同じ階だなんて思っていなくて」
「えっ」

 今度は私の動きが止まる番だった。私が上を指差すと、彼は神妙な面持ちで静かに頷く。その表情がなんだか面白くて、私は思わず吹き出した。

「ふ、ふはっ、あっはっは!一緒、一緒って……私、三◯二号室なの、あなたは?」
「……三◯一」
「隣!!ははは!!」

 たまたま入ったコンビニの店員が隣人だなんて、そんな偶然があってたまるかとも思ったが、ここに住んでいるならこの下のコンビニで働くのも当然か。それでも、先程の件のせいで感情がジェットコースターのようになっているらしい。些細なことでも腹が捩れるほど面白い、笑いすぎて涙が出てきた。

「よかった」

 そんな私に釣られるように、彼は笑った。私みたいな馬鹿な笑い方ではない、緩やかな大人の笑い方に私はまた胸がどきりと鳴った。

「泣き止んだならよかった」

 そう言われて、私はさっきまで自分が泣いていたことを思い出して、恥ずかしさを抱えながら彼と二人で階段を上がった。彼は確かに三◯一の鍵を持っていて、私の隣の扉を開ける。ポストの上に書いてある「宗像」という文字を見て、私は彼の名前を初めて知った。

「戸締まりはしっかりして。……おやすみ」
「……うん、」

 おやすみなさい──ただの挨拶に熱が篭った。顔を見られたくなかったからか、忠告されたからか、私はすぐに扉を閉めて鍵に手をかける。しかし鍵をかけるのが忍びなく感じて、私はじっと扉を眺めた。
 扉の向こうに宗像くんがいる。次は下の名前を聞けるだろうか。今日のお礼も伝えなきゃ……彼が隣の部屋に入っていったのを音で確認して、そっと鍵をかけた。ゆっくり、ゆっくりと──また彼に会えるようにと、扉の前で祈っていた。



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