■ ■ ■


 降谷零には秘密がある。というより、彼のほとんどは秘密と嘘でできている。警察庁公安警察──通称ゼロという立場上、降谷はいくつもの身分を使い分けなければいけない。ある時は喫茶店のアルバイト店員、ある時は真実を追求する私立探偵、ある時は暗躍する組織の一員……そんな生活を長年送っていると、降谷はたまに自分自身がどこかに消えてしまうのではないかと思う時があった。"公安警察の降谷零"すら、仮の身分なのではないかと自分を疑い始めてしまうのだ。
 彼は自分を騙して生きている自覚があった。正義のためといいながら振るう拳に疑問を抱くこともあった。しかし、降谷の中にはたしかにこの国を守るという信念があった。それは義務と言うこともあれば、意思とも呼ぶこともある。しかしその信念を、義務を、意思すらを信用できなくなった時はどうすれば良いのだろうか。
 そんな彼を見て、ある者は言った。
 何も信じられない時は、国を守るだなんて大それたことは言わなくてもいいよ。悪に加担し自分を見失いそうになったら、自分の大事な人を思い出すんだ。そうすればきっと、私たちは間違わない──そう教えてくれたのは、降谷の元教育係をしていた上司だった。

「……それで、なぜ私がその方に会わなければいけないのでしょうか」
「不満そうな物言いだな」
「いえ、そういうわけではないのですが」

 公安警察というのはもともと、日本警察における影の組織である。存在しない組織であれ──機密性の高さゆえに、そうであることを求められている。特に、降谷の所属する警察庁警備局ともなれば、いくら警視庁公安部である風見といえど、知らないことがほとんどだ。降谷の右腕であるがために繋がりこそあれど、内情を知っているわけではない。それこそ、降谷の上司とは今まで一度も会ったことがないし、これからも会うことはないだろうと、そう思っていた。

「緊急事態が起きた。僕一人では、対応しきれない」

 RX-7を運転する彼の表情はいつもと変わりない。しかし、その言葉の重みに風見は思わず息を呑んだ。風見の知る中で、降谷は一番"出来た"人間だ。苦手なことは何もない。全ての危険を予測して、あらゆる困難も乗り越える、まさしく超人のような恐ろしい人。そんな彼が言う"緊急事態"だ、余程のことだろうと覚悟を決める。

「いやまあ、別に僕一人で出来ない、ということでもないんだ。出来ると言えば出来る。ただその人が、僕以外の手も欲しいと言った」
「なるほど。それで私に……」

 降谷直々の運転で少し遠回りをしながら連れてこられたのは、あるマンションの一室だった。確かここは公安所属のセーフティハウスの一部ではなかっただろうか、と風見は思い出す。警察庁からはそれほど遠くないが、使用頻度は安室透名義のセーフティハウスである"MAISON MOKUBA"と比べれば少ないものだ。その説明を聞くに、降谷もあまりここに訪れることはないらしい。もちろん、風見自身はここを訪れるのは初めてだった。
 使われていないと言う割に、部屋は埃もなく清潔に保たれていた。しかし風見はそれ以上に、奥からするかすかな人の気配の方が気になっていた。おそらく降谷の上司だろう。玄関に靴が置かれていないため、年齢も性別もわからない。
 あまりにも徹底されている。ここまで隠さなければならないお人なのか、と風見が考えていると、降谷が玄関から一番近い扉に手をかけ、口を開いた。

「なまえさん」

 降谷から出たのは、明らかに女性の名前だった。警察組織の中でも女性の割合はどうしても少なくなる。公安ともなると余計だ。実際、風見の同僚もほとんどが男性だった。
 あの"ゼロ"に所属する女性、超人・降谷零の上司──風見ははやる鼓動を押さえつけ、正面を見る。開け放たれた扉の向こうにいるはずの"上司"を見て、風見は思わず口を開けた。

「いらっしゃい、降谷くん」
「なまえさん、遅くなり申し訳ございません」
「いいよ、そんなかしこまらなくて。それに、まだ指定した時間の五分前だし」
「っ、しかし!」
「来てくれてありがとう、降谷くん」
「なまえさん……」

 なまえと呼ばれた彼女と降谷を交互に見る。彼らのやりとりはまさしく上司と部下だった。しかし今回は、いつも上司として慕っている降谷が部下である。あの降谷が、公安部のエースがなんともしおらしい姿を見せていることに驚愕しつつ、しかしそれ以上に信じられない光景に、風見は開いた口が塞がらなかった。
 なまえは風見の方を見ると、彼に近づいて小さな手を差し出してきた。そして、いかにもな大人の笑みを浮かべる。目を細めゆるく口角を上げ、彼女は口を開いた。

「はじめまして、風見くん。お噂は降谷くんからかねがね」
「……」
「出来る部下だって聞いてるよ。それにハロウィンの、そう、プラーミャの件では、降谷くんの爆弾を解体してくれたとも聞いた」
「……」
「忙しいのに来てくれてありがとう。それで、君にして欲しいことの説明なんだけど……いや、これは降谷くんから説明してもらおうかな」

 降谷は自分が指名を受けたことを内心喜びながら、しかし平静を装っていた。未だ口を開けたままの、なまえの差し出した手すら無視する風見を見て咳払いをし、任務を言い渡す。戸籍の偽装に始まり洋服の調達、食料調達、その他諸々必要な手続き──それから、ランドセルの購入。
 一通りの説明を無駄なく簡潔に伝えると、降谷は「以上。重要な任務だ、心してかかってくれ」と厳しい面持ちで言った。

「君はいつだって厳しいね……で、風見くん。何か質問は?」
「あのっ……」
「何かな」
「──あなたは、なぜ子供の姿なんですか……?」

 風見の言葉になまえはにこりと笑い、そして一言「なんでだろうね」と返す。それから「でもまあ、よろしくね」と下ろした手を再び差し出してきた。風見は今度こそその手を握り返す。柔らかく、小さく、あたたかな子供の手がこれは現実なのだと伝えていた。





 降谷の説明はこうだった。
 なまえさんこと、みょうじなまえは警察庁警備局警備企画課所属。降谷零の上司であることには変わりない。しかし先の"組織"幹部の一斉検挙の際に、ある人物から銃撃を受け、重傷を負う。降谷が倒れるなまえを発見し、病院に連れて行ったものの数日間眠り続け──目が覚めると身体が縮んでしまっていた、とのことだった。

「狩人を殺すなら、銀の弾丸シルバーブレットじゃなくても十分……と、彼女は言っていたかな。しかし、どうやらただの鉛玉じゃなかったらしい」
「撃たれてから何かを飲まされたという可能性は?コナンという少年が飲まされた、APTX4869とか」
「ごめんね、倒れてからの記憶は何も。犯人も逃亡してしまったし」
「……」
「まあおそらく、"それ"関係だろうけど……情けない限りだよ、部下たちに申し訳ない」

 彼女が申し訳なさそうに謝った瞬間、降谷がギロリと風見を睨み付ける。いつもと様子の違う上司に内心やりづらさを感じていると、なまえがくすくすと笑った。

「仲がいいね」

 なまえの言葉に真っ先に反応したのは降谷だった。いつもならこんなことを他人に言われても軽く受け流すだろうに、降谷は慌てて訂正をする。違います、そういうわけじゃない。なんて、必死な彼を見て、風見はまた目を見開く。二人の姿に、なまえはまだ笑っていた。
 なまえの笑みは、精神は子供ではないと聞いたら納得のできるものだった。淑女の微笑みと言って差し支えがない。まつ毛で縁取られた大きな猫目や、形のいい唇、痛みのない長髪が柔らかな雰囲気を助長させている。しかし、手も足もどこかしこも細く小さくて、身長なんて降谷や風見の腰ほどしかない。話し口調は大人だけど、声質は子供のそれに間違いない。これでは淑女ではなく、ただの少女だ。それもとびきりの美少女。花を摘みながら蝶と戯れている方がお似合いだ。少なくとも、銃撃戦にて地に伏せた公安警察官とは思えない。
 風見の考えを読み取ったかのように、なまえは「ちゃんと傷も残ってるんだよ。ほら」と言って、突然ぺろりとトップスの裾を捲った。風見は一度目を逸らしたが、彼女の姿が子供だったことを思い出して恐る恐る服の下を見た。薄っぺらな腹には一つの銃創が刻まれている。子供とは無縁の産物だ。彼女が嘘をついているとは思っていなかったが、確かにこれは証拠として相応しい。
 じっとなまえの姿を見つめていると、風見の視界を美しい金髪が横切った。

「……あの、降谷さん?」
「なんだ」
「えっと……その、」

 視界に入ってきたのは降谷だった。なまえを隠すかのように立ち塞がる彼の顔はかたい。

「……、風見、任務を頼む」
「もちろんです。早急に取り掛かります」

 風見は気を引き締め直し、踵を返した。戸籍の偽装、洋服の調達……と先程降谷に言われたことを思い起こしながら、同時に自身のタスクを瞬時に頭に描く。
 しかしこの部屋から出ようとした風見を、降谷は引き止めた。「今日君にやってもらうのはそのことではない」という彼の言葉に、風見は頭を傾げた。

「今日やってもらうのはこれだ」

 降谷は持ってきていたタブレットを取り出し、とあるページを風見に見せた。そこに写っていたのは、色とりどりの鞄。子供が背負うに相応しい、通学用のそれ。その中の一つに降谷は指を差す。

「ランドセル決めだ」

 風見は天を仰いだ。

「どれがいいと思う?僕なんかは、この水色なんかいいと思うんだ。それかピンク」
「いやあの、降谷さん……」
「そうかな。私は、赤なんていいと思うけど」
「あの……みょうじさん?」
「赤はだめです。絶対」

 まさしく鬼の形相で赤いランドセルを否定する降谷を見て、風見は再び天を仰いだ。

「風見くんからも言ってあげてよ。赤いランドセルも可愛いよね」
「いえ、自分は、」
「風見、水色やピンクの方がなまえさんに似合うと思わないか?」
「自分は、どっちでも……」

 風見は降谷が見せてきたカタログをまじまじと見る。風見が子供の頃、ランドセルといえば男児は黒、女児は赤の一択だった。いまや従来の赤や黒は隅に追いやられ、パステルカラーやブラウンといったおしゃれな色が並んでいる。中には装飾を施したものもあり、風見はこんなに変化しているのかと感心した。たしかにこうも選択肢があれば赤以外を勧めるのも理解はできる。だが彼の場合、赤が嫌で他の色を勧めているに他ならない。
 降谷が赤色を嫌う理由を風見は知っている。しかし、つい先日の一斉検挙では元凶である彼、ただしくは彼ら──FBIとの共同戦線を組んでいたはずだ。そして、現在も合同捜査にて残党狩りに勤しんでいる。
 だというのに、降谷はずっとこうだ。例の友人のことはなんとか和解したそうだが、どうにも性格が合わないらしい。ここのところ毎日「いけすかない男だ」や「赤井のやつめ……」といった恨み言を聞いている風見は、それが不思議でたまらなかった。なぜこの人は赤井秀一の事となると、ここまで人が変わるのだろう、とも思った。
 しかしどうやら、彼の感情を大きく揺れ動かすのは赤井秀一だけではなかったらしい。

「なまえさん、僕の話を聞いてください」
「うん、聞いてるよ。なあに?」
「なまえさんのような方には、こういう可愛らしさと大人っぽさを兼ね備えたデザインの方がいいと思うんです」
「そうかな。私そんな、可愛らしさとかよくわからないけど」
「あなたがなんと言おうとそうなんです。だから、なまえさんにはこれかこれがよく似合うと思うんです、僕は」

 そう言って、降谷は水色とピンクに指差した。どうやら赤色から目を逸らさせる作戦に入ったらしい。

「たしかに、降谷くんが選んでくれたのはセンスがいいね」
「……!お褒めいただき、光栄です」
「でも私、子供の頃赤いランドセル背負ってたんだ。だからなんとなく、赤いのが懐かしくなっちゃって」
「なっ……!」
「思い出なんだ、赤いランドセル。ほら、私はもう自宅に帰れないし……もう二度と、あの・・ランドセルは手にすることはないと思ってたから」
「くっ……!それは、たしかに……そうですが……!」

 降谷はなまえの言葉に心が揺れていた。思い出などと言われてしまったら、赤いランドセルでも許してしまいたくなる。しかし奴の色だ、いやでも……などとぶつぶつ呟く降谷と、それ見て笑うなまえに、風見は思う──みょうじさんは降谷さんすら超える策士だ。そしてようやく、彼女が公安所属であることを納得した。
 しばらく降谷は自分の世界で葛藤していたらしい。一度黙り込み、なまえの方を見て渋々「わかりました」と言った。

「赤色でもいいです」
「本当?ありがとう、降谷くん」
「でも僕に選ばせてください。なまえさんによく似合うものを探しておきますから」
「ふふ、君はセンスがいいもんね。頼りにしてるよ、降谷くん」

 彼女の言葉に気を良くしたのか、降谷の機嫌はすぐに良くなった。まるで安室透の時のような柔和な表情を浮かべ、胸を張り、「任せてください」と誇らしげに言う。これではどちらが子供なのかわからない。
 風見はというと、そんな彼らの姿を見て思考を放棄した。そして庁舎の自販機にある、さして美味しくもない泥水のようなコーヒーが恋しくなって、戻ったら飲もうと心に決めた。





 後日、降谷はランドセルの入った箱を片手に例のセーフティハウスへと足を運んだ。赤色ということを除けば、我ながらいいセンスで選べたと思っている。おそらく彼女も「やっぱりセンスがいいね」と褒めてくれることだろう……降谷はそう考えると、彼女の顔が早く見たくなり、思わず足早に歩を進めていた。
 鍵を開けていつも通りリビングの扉を開ける。降谷は自分がここを訪れることを言っていないにも関わらず、突如現れても全く驚かない彼女に、少しだけ悔しさを抱いた。

「降谷くん、こんにちは」
「こんにちは、なまえさん。ランドセル持ってきましたよ」
「仕事が早いね」

 ああ、いつも通りのなまえさんだ……降谷は姿が変わろうと、中身はまったく変わらないなまえに安心を覚える。かつて身分を偽ることに耐えかねて、不安定になったこともある降谷は、彼女のこういうところに無性に惹かれてしまう。自分にはない強さが彼女にはある。新人の時も、組織潜入を始めた時も、親友が亡くなった時も、そして今も、その強さに何度だって助けられた。
 降谷が屈んで箱の中のランドセルを見せると、なまえはゆるく微笑んだ。なまえの希望通りの赤いランドセル。傷ひとつないそれは、まるでぴかぴかと輝いているようだった。

「少し深めの、マットな赤を選びました。ステッチも可愛いんですよ。ここのワンポイントも、なまえさんに似合うと思って」
「うん、かわいい。やっぱり降谷くんはセンスがいいよ」

 なまえはそう言って、目の前にある降谷の頭を撫でた。降谷は彼女を手を払い除けることはなく、むしろ嬉しそうな顔でそれを享受した。垂れた目をさらに下げて、なまえを見つめる。

「あの、なまえさん、お願いが……」
「なぁに?」
「……これを背負ってもらえませんか?」
「うん、いいよ」

 なまえは降谷から手を離して、ランドセルを手にして背負った。ランドセルは子供の体に良く馴染む。何十年ぶりのランドセルに気を良くしたのか、それとも降谷に見せつけるためか、なまえは笑みを浮かべたままその場でクルリと回った。質の良いワンピース(風見が準備したものだ)と柔らかな黒髪がふわりと揺れる。その姿があまりにも可愛らしく、綺麗で、降谷は思わず写真を撮りたくなった。自分も彼女も公安でなければ、きっと何枚何十枚と撮っていたに違いない。

「どうかな?」
「とてもよくお似合いです!」
「よかった、これで来週から小学校に行けるね」
「……本当に学校に行かれるんですか?」

 心配そうな面持ちで降谷はなまえを見つめる。なまえが小学校に通うことを決めた時から、降谷はずっと「もしかしたら残党があなたを狙ってくるかもしれない」という旨を訴えてきた。しかしなまえはいつもの表情を浮かべるだけで、可愛い後輩の頼みを聞いちゃくれない。大丈夫だよ、根拠のない言葉を述べる彼女に降谷は眉を顰めた。なまえは眉間の皺に手を伸ばして、人差し指でなぞる。

「大丈夫」
「……」
「だって、降谷くんが守ってくれるんだもんね」
「っ、」

 ──降谷零には秘密がある、彼のほとんどは秘密と嘘でできている。それでもたった一つだけ、変わらない本当のことをあげるのだとしたら。

「はい、もちろんです……!」

 降谷はこの上司を、心から敬愛しているということだった。



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