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入学して初めての授業で、「教科書見せてくんね」と頼んできたのは隣の席の男の子だった。分厚いメガネをかけて髪の毛をぴっちりと整えてシャツのボタンを上まで締めているのに、彼の机上には何もない。教科書はおろか、ノートもなかった。なんでこんな真面目そうな生徒が、とは思ったが、後からクラスの男子たちが「あいつダブりらしいよ」と小さな声で話していたのを聞いて、納得してしまう自分がいた。
「明日は忘れないようにね」
そう言いながら彼の方に教科書を寄せる。場地君は「おう、ありがとな」と言って机を私の方へと動かした。これが彼との初めての会話だった。
次の日、場地君は私の言った通り教科書を持ってきていた。しばらく彼の机には教科書が用意される日々が続いたが、しばらくするとまた忘れてくる。そのときは最初みたいに机をくっつけるのだが、忘れた次の日からは再び教科書を持ってくる日々がしばらく続く。
場地君は「ダブりなんだぜ」と噂される割に真面目な生徒だった。机に齧り付くようにして熱心にシャーペンを持つ手を動かして、小さい声で「そういうことかー」なんて相槌を打っている。ここまで真面目だと、留年した理由が分からない。見た目も中身も真面目なのに──という私の考えが覆されたのは、彼が入学時から不良として有名だった1組の松野君と交流を持つようになってからだった。
場地君はあの有名な"東京卍會"の隊長らしい。前に場地君がダブりだという噂を広めた男子生徒がそう言っていた。私はその"東京卍會"が何かは知らないのだが、なんとなく良くないチーム──暴走族だということはわかっていた。そんな噂が広まって、場地君の真面目(ガリ勉ともいう)姿は姿を消えた。彼は、分厚いメガネもぴっちり髪もワイシャツを第一ボタンまで閉めることもやめてしまった。長い髪を下ろして、制服をラフに着崩した場地君はたしかに不良みたいな見た目だったが、初めて見る姿だったのに、そっちの方が場地君らしいと感じる。つまり本来の彼はこちらで、きっとこれが"東京卍會"の場地くんの姿なのだろう。
しかし、容姿が変わっても場地君は場地君だった。たまに教科書を忘れて、「見せてくんね」という言葉に私が「明日は忘れないでよね」と言う。すると少し笑って、「おう、ありがと」と机を動かした。次の日は本当に教科書を忘れず持ってきて、でもまた次の週には「教科書見せてくんね」と言ってくる。先生に「もう見せる必要ないぞ」なんて言われても、私は席替えで場地君と離れるまで、ずっと同じことをしていた。
◆「教科書見せてくんね」
「あ、うん」
2年生になって、私はまた場地君の隣の席になった。同じクラスになっただけでも奇跡だし、ここまでくると不思議な縁があるのかもしれない。少しだけ感動していたのだが、場地君はそんな私に何も言わなかった。「久しぶり」なんて期待していなかったけど、覚えられていないのかもしれないと思うと少し傷つく。
「……明日は忘れるなって言わねぇんだな」
「だって、そう言っても明日しか持ってこないし……あっ、」
思っていたことを思わずそのまま口にしてしまって、怒られるんじゃないかと鼓動が早まる。しかし場地君は一度びっくりしたような顔をしてから、笑って「たしかに」と言うだけであった。
「そういえあんた、名前なんだっけ」
「みょうじなまえ……って、知らなかったの」
「みょうじな。俺は場地圭介」
「知ってるよ……」
それから場地君と少しだけ仲良くなった。1年の時、あれだけ教科書を見せ合っていたのに(見せていたのは私だけだが)、私たちは初めてお話をした。
場地君の話は、だいたい"あの有名な東京卍會"のことだった。みんなで海に行ったこと、祭りに行ったこと、「無敵のマイキー」と呼ばれる幼馴染のこと、いつも一緒にいる松野君のこと、仲良しだったけど離れなければならなくなった友達のこと、それから勢力拡大のための喧嘩のこと。
場地君は隊長を任せられているくらい喧嘩が強いらしい。確かに喧嘩の傷を残して授業に受けることも少なくなかったが、まさかそこまで強いだなんて思ってもみなかった。
場地君は不良だった。それでも、私の知っている限り、不良の中でもいい不良だと思った。良い子ではなかったけど、良い人だった。
「──やめたらいいのに」
休み時間、彼の喧嘩の話を聞いて思わず口にしてしまった言葉に、場地君は「は?」と怖い声音で言う。そしてようやく、私は余計なことを言ったと自覚した。
しまった、失言だった。東京卍會の話の途中でそんなことを言ってしまったら、彼のチームを否定するようなものだ。実際、否定する意図を持って言ったわけだが、ここまで露骨に機嫌が悪くなるとは思ってもみなかった。
それでも怪我をした姿で、嬉々として喧嘩の話をする場地君のことを私は見ていられなかった。いつも大きく笑う口の端につけられた絆創膏、髪の隙間から覗くおでこの傷を、私は直視することができない。
「だって、もうダブれないんでしょ」
オフクロが泣くからもうダブれない、と言っていたのを思い出した。
「それに、仲間が刺されたんでしょ」
ドラケンさんとかいう、ずっと一緒の仲間が刺されたと言っていたのを思い出した。
「喧嘩なんて、チームなんて、やめちゃいなよ」
「次に刺されるのは俺かもな」なんて、冗談みたいに言う場地君の言葉を、私は笑えなかった。
場地君はそんな私を笑うでもなく、怒るでもなく、黙って見つめてくる。もう夏が終わるというのに、その視線が痛くておでこに汗が滲んだ。もしかしたら、怒鳴られるかも──もしかしたら殴られるかもしれない。でも私の口は止まらなかった。やめなよ、としきりに動く。
「私、場地くんと一緒に卒業したいよ」
その言葉を言ってやっと口が止まった私は、彼の顔を見れなくて俯いた。騒がしい教室の中で、私たちの間だけ沈黙が訪れる。しかしそれを破ったのは場地くん本人だった。
「おう、」
「ありがとな、みょうじ」と、教科書を見せた時みたいに言って、彼はそのまま教室を出て行ってしまった。授業が始まっても場地君が教室に戻ってくることはなかった。
それから場地君は学校を休みがちになった。もうダブれないからと不良にしては真面目に学校に来ていたのに、一般的な不良並みに学校をサボるようになった。それと同時に、彼が一人で行動することも多くなった。いつもなら松野君(今は何組なんだろう)と行動することが多いのに、まるでお互い避けるかのようにしていて、彼らが二人でいるところはぱったりと見なくなった。
それでも、久しぶりに学校に来た場地君は前より冷たい雰囲気を纏っていたが、1年の時から一言一句変わらない言葉を投げかけてきた。
「教科書見せてくんね」
「え、あ、……うん」
「悪ィ、ありがとな」
大きな音を鳴らして机を動かして、彼は言う。
「……久しぶり、だね」
「おう」
久しぶりに話すせいか、以前のことがあったからか、私はまともに彼の方を見れずにいる。大好きな国語の授業なのに全く集中出来なくて、先生の言葉は流れていってしまって上手く捉えられない。集中しなきゃと焦れば焦るほど、シャーペンを持つ手が滑って仕方がなかった。
「あのさあ、」
「な、なに……?」
いきなり声をかけられて、思わず隣をチラリと見る。彼の手にはシャーペンも鉛筆もなくて、机にはノートすらない。頬杖をついて、こちらをだるそうに見つめている。
「俺、やめねぇから」
「え……?」
「でもみょうじと卒業する、絶対」
「……」
「だからまた、教科書見せてくんね?」
場地君はそれだけ言ってにかっと笑った。やっぱり八重歯長いんだよなぁ、と思って、それから1年の時のことを思い出した。
最初の頃、あまりにも熱心に彼の手が動くものだから真面目にノートを取っていると思いこんでいたが、よく見ると彼は授業中にずっとノートではない別のものを書いていた。本人はバレてないと思っているのだろうが、数学の時でも国語辞典をだしていたのだからバレバレだった。ノートとは違う縦書きの便箋は、きっと誰かへの手紙を書いていたに違いない。例えば──離れなければならなくなった友達あて、とか。
「ノートくらいはとりなよ」
「おう」
「あと、明日は忘れないでね」
「おう、」
──ありがとな、みょうじ。
次の日から、場地君が学校に来ることはなかった。
◆ 場地君が亡くなった。そのことを知ったのは、先生が朝のホームルームでそう告げたからだった。
もう冬がそこまで来て、風はどんどん冷たくなってきている。隣の席がぽっかりと空いたせいで、窓から差し込む風が直接当たって体を冷やす。大好きな国語の授業では、もう教科書を左へ寄せることはなくなってしまった。
放課後になって、外が暗くなって、教室には私以外誰もいない。場地君も、もちろんいない。もしかしたらいつもあのセリフを言って現れるかもしれないと思ったが、いつまで経っても彼が学校に来ることはなかった。
「場地君、」
──俺、やめねぇから。
──でもみょうじと卒業する、絶対。
あの時は文脈がよく分からなくて、でも卒業するって言ってくれたのが嬉しかったからよく考えなかった。今ならわかる。場地君が言いたかったのは、"東卍をやめない"ってことだったって。先生は何も言わなかったけど、場地君が喧嘩──抗争の末に亡くなったのだということはすぐにわかった。場地君が留年しているという噂が流れたように、彼が族同士の抗争で亡くなったという噂は、学年中に広まっている。でもきっとこれも噂じゃなくて真実なのだろう。
「だからやめなよって、言ったじゃない」
喧嘩なんてしてほしくなかった。命を張って仲間を守るんだって、誇らしげに語ってほしくなかった。
「場地君、やっぱ馬鹿だよ」
真面目なんかじゃない、大馬鹿者だ。そりゃダブるよ、オフクロさんも泣くだろう。きっとこのまま学校通ってても、一緒に卒業なんか出来なかったかもしれない。
「ばーか、ばか、ばか、場地君の馬鹿、」
なんて誰もいない教室でつぶやく。
「今、場地って言った?」
誰もいないはず、だった。
声のする方へと顔を向ける。ドアの辺りに、金髪の男の子が1人立っていた。
「う、うん、言った、ような」
彼の風貌に心臓が高鳴る。うわ、ヤンキーだ。髪の毛染めてるし、制服も随分と着崩している。場地くんの知り合い?それとも、場地くんと敵対していた人とか──私の不安とは裏腹に、彼は「少し話そうぜ」と私を手招きした。
「場地さんのこと、馬鹿なんて言える人初めて見た」
「そう?」
「うん」
学年の有名人──松野千冬君と歩けば、周りはみな私たちを避けていく。明らかに地毛ではない金髪と殴られたかのような傷跡は、彼が不良であることを表していた。よくよく話を聞けば、彼は場地君の一番の部下だったのだと言う。東京卍會壱番隊副隊長、それが松野君の肩書きだった。
「だって場地さん、不良じゃん。怖くないの」
「でも、優しかったし、」
「お前……」
「ん?」
「わかってんな」
松野君はにかりと笑って言った。少し話をして思ったのだが、彼は随分と場地君に心酔しているらしい。それと、少しだけ笑顔が似ている──なんて。
「それに、馬鹿ってのは本当でしょ」
「あの人、勉強できなかったからな」
「勉強もそうだけど……喧嘩で死ぬなんて馬鹿だよ」
「ハァ?」
「やめろって言ったの、私。喧嘩もチームもやめちゃえばって。そうしたら死なないで済んだかもしれないのに」
松野君は私の言葉に良い顔をしなかったが、何も言わずに聞いてくれた。こういうところも場地君と少し似ている。
「場地君にとっては大事なものだってわかってた、けど……」
場地君がチームを大切に思っているように、場地君のことを大切に思っている人がいるなんてことを、彼は考えてもいなかったのだろうか。きっと考えてなかったんだろうな。だって場地君、馬鹿だもん。国語の授業で「この時の主人公の気持ちを答えよ」という問いに「俺はこいつじゃないから知らねぇ、わかんねぇ」と言っていた彼を思い出していた。
「あのさ、」
松野君は私が黙りこんだのを見て、ようやく口を開いた。彼が話してくれたのは、場地君と彼らの身に何があったかということだった。東京卍會は10月31日、芭流覇羅と呼ばれるチームと全面抗争したらしい。つまり、噂は本当だったということだ
驚くべきことに、その直前に場地君は東卍を辞めていた。芭流覇羅に入った場地くんは、そこで旧友に刺されてしまって命を落としたのだという。
「なんでその、芭流覇羅に?だって彼、その……東卍のこと大好きだったじゃない」
「いやまあ、それは詳しく言えねーけど……東卍守るために、敢えて入ったんだよ」
一般人は巻き込めねぇから、とあまり詳しく教えてもらえなかったが、場地くんはスパイのようなことをしていたのだろう。
「だから、場地さんは馬鹿じゃねぇよ」
「……」
「みんなの事思って、場地さんなりに考えててやったんだ」
「……そう、」
「みょうじさん、たしか委員長だろ。真面目そうだもんな。そんなあんたが喧嘩とか族のことを嫌うのはわかる」
松野君も場地君と同じくチームのことを大事に思っているようで、真剣な顔で私にそう言った。それでも私の意見を否定しないから、松野君も優しい人なのだと思う。
ぐるぐると、頭の中で場地君の言葉が駆け巡る。やめねぇから、と言った彼の言葉に嘘はなかった。
「私が喧嘩もチームもやめなよって言った時ね、場地君、やめねぇからって言ったんだよ」
「え?」
「なのにチームは辞めてるし、喧嘩はやめないし。敵に潜入なんて、よくわかんないことしてるし」
「まあ……あれには俺も驚いたけど」
「なんかよくわかんなくなっちゃった、場地君のこと」
松野君は少し考え込むと、「あっ」と小さく声を漏らして私の顔を見つめる。「もしかして場地さん、あんたの言うことを聞いて、東卍やめて芭流覇羅に入ったんじゃ……」と呟かれた言葉を私は最初理解できなかったが、ふっと思考の絡まりが解れたように感じた。私の視界が滲んでいく。
──チームなんてやめなよ。
あの時、こんなことを言ったら殴られるかもしれないって怯えていたのに、私はどこかで「そんなことされないだろう」ってわかっていた。場地君は不良だけど、女の子を殴るような人じゃないって、ちゃんとわかっていた。そればかりか、私の言うことをきちんと聞いてくれる人だろうって思っていた。
でもしばらくしたら教科書を忘れるみたいに、彼は私の言ってることをあんまり理解できていなかったのかもしれない。そればかりか、私の言うことを間に受けてチームのためにチームをやめて、潜入なんて馬鹿なことをしているのだから、国語が苦手な場地君らしいと思った。
「……やっぱ、場地さん馬鹿かもな」
松野君は少し目を伏せて小さく笑う。
「だから言ったでしょ……」
隣の席の場地君は喧嘩好きで、不良で、かなり馬鹿で。でもすごくいい人だった。
隣の席の場地くんのことを、私は大人になっても忘れることはないだろう。そんな確信めいたものを抱いて、私は目元を手で擦った。
──私たちはこれから彼の元へ向かう。