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 "お姉さん"と知り合ったのは、オレが長野から東京に引っ越してきてすぐのことだった。オレを引き取った親戚の家は畳と襖しかない日本家屋だったが、隣の家は真反対の洋風だった。住んでいる人の趣味なのか、綺麗に手入れされた庭のあちこちに色とりどりの花が咲いていたのを覚えている。都会にもこんな綺麗な場所があったのかと感動して、初めてその家の前を通った時、オレは恥ずかしげもなくその家をじっと見つめてしまった。花に詳しくなかったからどんな花かなんてちっともわからなかったけど、その時たまたま水やりをしていた"お姉さん"が全部教えてくれた。
 近くの中学校の制服を着たお姉さんは、家の前で佇むオレを厄介払いすることもなく、ジョウロを持ったままにこやかな笑顔で話しかけてきた。

「あれ、君……最近引っ越してきた子じゃない?」

 その時のオレは事件のショックによる心因性の失声症が治ってなくて、彼女の問いに控えめに頷くだけだった。

「私、みょうじなまえ。君は?」

 話そうと思ってもやはり声は出ず、オレは俯いて何も言えなくなる。お姉さんはそんなオレを極度の恥ずかしがり屋だと思ったらしい。オレの名前についてそれ以上何も聞くことはなく、「花が好きなの?」と聞いた。その問いにオレはまたも頷く。

「そっか、私はそんなに。虫はいっぱいだし、丁寧に育ててもいつかは枯れちゃうし。でもお母さんが好きだからね、私も大事にしたいんだ」

 それから彼女は、花を指差して名前を羅列した。チューリップ、マリーゴールド、ネモフィラ、ゼラニウム……当時のオレが知っていたのはチューリップくらいで、オレも彼女に倣ってそれを指差す。すると、なまえお姉さんはオレを見て笑った。

「いっしょ。私もチューリップが一番好き!」

 別にオレはチューリップが好きだったわけではないけど、そういうことにしようと思った。今日からオレが好きな花はチューリップだ。オレとお姉さんが指差した、黄色のチューリップは雫を纏って、キラキラと太陽光を反射している。あたりに立ち込める花の匂いはとてもいい香りだった。子供のオレは、あの時初めて花を綺麗だと思った。
 今思えば、多分あれは初恋だったと思う。



 次にお姉さんと会ったのは、ゼロと知り合った後のことだった。零のおかげで声が戻ったオレは、今度は自分からお姉さんに声をかけた。

「オレ、諸伏景光っていいます!」

 突然の自己紹介にお姉さんは驚いたようだが、すぐにあの時と同じ笑顔を浮かべる。お姉さんはやはり制服姿のままジョウロを持っていた。

「じゃあ景光くんって呼べばいいかな」
「ううん、ヒロでいいです。オレの友達も、そうやって呼ぶから」
「わかった、じゃあヒロくんだ。私のこともなまえって呼んでいいからね」
「……なまえ、お姉さん」

 彼女はオレがそう呼ぶと、オレが初めてそうしたように頷いた。
 それから、彼女はオレを家に引き入れてくれた。なまえお姉さんはオレが隣の家に来た子供だと言うことを知っていたらしい。美味しいお菓子があるの、と言って、オレの手を引いて彼女の部屋に連れられる。この街に来て誰かの家に来ることは初めてで、ましてや女の子の部屋に入ることなんてなかったから、オレはずっとドキドキしっぱなしだった。あんなに緊張したのは、後にも先にもこれっきりだろう。

「これね、私の好きなお菓子なの」
「っオレも!オレもこれ好きだよ!」
「本当?よかった!」

 彼女が見せてきたのはチョコレート菓子だった。長野の家でもよく食べていた見慣れた菓子を食べれるのが嬉しくて──なにより、今度は"本当に"お姉さんと好きなものが一緒だとわかったのが一番嬉しかった。黄色のチューリップの時とは違う、心からの喜びだった。

「私たち仲良くなれそうね」

 甘いチョコレートに、百パーセントのオレンジジュース。オレの部屋とは違う人の家の匂い。優しい優しい、隣の家のお姉さん。
 全部が初めての経験だったから、子供のオレはそれを恋だとは知らなかった。



 三回目にお姉さんと会ったのは、零と一緒に遊んでいる時のことだった。会って欲しい人がいるんだ、とオレがいつもの公園から零を連れ出した。子供だったオレは好きな人と好きな人が仲良くなってほしいと言う思いでしかなかった。しかし大人になった今ならわかる。友達の友達は、友達ではない。自分と気が合うからって友達と気が合うわけではないのだ。

「なまえお姉さん!」
「こんにちは、ヒロくん。そちらはヒロくんのお友達?」
「うん、零って言うんだ!」
「ゼロくん……あだ名かな?」
「そう、かっこいいでしょ?」
「うん、とてもかっこいい」

 彼女はそう言って、初めてオレに自己紹介した時のように、ゼロに話しかけた。「私、みょうじなまえ。ゼロくんの名前は?」「……降谷零」「そっか、よろしくね」そんなやりとりを見て、オレはこれで好きな人たちが仲良くなったんだと嬉しくなった。オレにとって零は一番好きな友達で、お姉さんは一番好きなお姉さんだから──しかし、オレの思惑とは裏腹に、零はお姉さんのことを気に食わなかったらしい。

「……早く行こうぜ、ヒロ!」
「えっ、待ってよ!零!」

 ここに来た時にオレが零の手を引っ張ったように、零はオレの手を引っ張って来た道を戻っていく。子供の頃から零はオレより力が強かったから、オレはそのままその手を振り解くことができなかった。
 なんで、どうして。零だってお姉さんのこと好きになってくれると思ったのに──子供ながらに少しショックだった。突然立ち去ってしまって、お姉さんはどう思うだろう。何とかしなきゃと思って、慌ててお姉さんの方を振り返ったのを覚えている。

「じゃあね、ヒロくん、ゼロくん」

 しかし、お姉さんは何ともないような顔で、オレたちに手を振っていた。それがなんだか、すごく悲しかった。



 それからも、オレとなまえお姉さんの交流は続いた。
 なまえお姉さんは頭が良い。それを知ったのは、なまえお姉さんが高校に上がった時のことだった。ある時から、お姉さんは中学の制服ではなくこの地域で一番の進学校の制服に身を包むようになった。
 その頃になると、オレはお姉さんの気を引くのに必死だった。これが恋だとはまだ気づいていなかったけど、でもお姉さんが高校生になったらきっと俺たちは今まで通り遊べなくなるんだろうと言うのはすぐにわかった。だから、オレはお姉さんの頭の良さに漬け込んだのである。勉強会を名目に、オレは何度もお姉さんのもとに遊びに行った。
 今思えば、それが口実だと言うのはお姉さんにはバレていたかもしれない。当時のオレは親戚の人たちに迷惑をかけまいと必死に勉強をしていたから、いつも学校のテストの成績は良かった。そんなオレが「宿題教えて」なんて、それも高校生に聞くなんておかしな話である。
 それでもお姉さんは笑わずにオレを家に招き入れてくれた。お姉さんと話せるのは嬉しかったけど、子供ながらに迷惑をかけている自覚はあって、毎回少ない小遣いで買ったお菓子を持って行っていた。小さい頃お姉さんが好きだと言っていたチョコレート菓子だ。最近になってパッケージが変わったが、味自体に変わりはない。お姉さんはいつもそれを見ると「私これ好きなんだよね」と言った。そんなこと、ずっと知っているのに。
 この勉強会は、結局オレが中学に上がるまで続いた。お姉さんはずっと、オレを笑顔で招いてくれた。受験生である高校三年生になっても、ずっとずっと勉強会は開かれていた。



 なまえお姉さんの家に行かなくなったのは、お姉さんが大学進学して実家を出て行ったからだ。結局お姉さんがどこの大学に行くのかは聞けなくて、オレはお姉さんと会えなくなった。メール自体は送り合っていたからそこで聞けばよかったのに、なぜか聞けなかった。
 部活でテニスの大会に出場した時の写真を送ると、なまえお姉さんも写真を送ってくれた。「お恥ずかしながら、私は最近遊んでばかりです」なんて文面と一緒に送られてきたそれには、大学祭で人に囲まれる彼女が写っていた。
 オレはお姉さんが、オレ以外の誰かといるところを見たことがない。初めて会った時だってお姉さんは一人で花に囲まれていたし、オレたちが会うところといえばなまえお姉さんの部屋だった。写真の中の彼女は知らない場所で、知らない人々に囲まれて笑っている。その知らない人の中には、男もいた。

「……そっか」

 お姉さんにはオレの知らない世界で生きてるんだ。オレ以外の友達がいて、オレ以外に誰か好きな人がいるんだ。そうだ、当たり前だ、当たり前、当たり前……。
 ふと、胸に湧き上がる暗い感情。ヘドロのように重たくて不味くて臭くて、到底他人には見せることのできないもの。口や目から吐き出そうになるそれを必死に抑え込んで、オレは携帯からそのメールを削除した。
 恋だと自覚したのはその時だった。



 なまえお姉さんにメールを送らなくなったのは、彼女が大学を卒業したあたりの頃だ。
 元々彼女の就活の時期から頻度は落としていたけれど、なまえお姉さんが社会人となった年から急激に彼女とのやりとりは少なくなっていった。それはお姉さんの返信が遅くなったこともあるし、オレが遠慮して送らなくなったせいでもある。彼女からメールをくれることもなかったから、オレも送らなかった。
 零は、そんなオレを見て「景はずっとあの人のこと好きだよな」と言った。零だって似たようなものなのに、オレにだけそう言うのは何だかずるい。でも、零のそういうところが好きだった。



 なまえお姉さんへの最後のメールは、警察学校を卒業した時のことだった。兄さんに送る写真を、ついでにお姉さんに送ればいいと言い出したのは萩原だった。
 なまえお姉さんとの話は零がみんなにバラしてしまった。零の探している女医さんを松田に揶揄われたのがきっかけで、零は当てつけのように「景だって今もなまえお姉さんにゾッコンじゃないか!」と言い出したせいである。あの時は零も酔っていたからしょうがない。それを聞いた松田は「お前もかよ」といい、萩原は「諸伏ちゃんも男だったのね」と言った。伊達班長は何も言わなかった。
 萩原に言われた通り、松田が髭を書き足した写真をなまえお姉さんに宛てたメールに貼り付ける。多分お姉さんのことだから、「ヒロくん髭生やしたんだね」と驚くに違いない。お姉さんと最後に会ったのは髭が生え始める前のことだったから。

「何書こうな……」

 なまえお姉さん、元気ですか?オレは今日警察学校を卒業して、晴れて警察官になったよ。お姉さんは今何の仕事をしてますか?お姉さんが安全に過ごせるように、オレはこの街を守れる警察官になりたいです──そこまで書いてオレの手が止まる。オレが本当に伝えたいことは、これだったのか?

(いや、オレは……オレが本当に、言いたかったのは)

 あの時、オレに声をかけてくれてありがとう。オレの手を引いてくれてありがとう。オレの言葉を聞いてくれてありがとう。
 でも、今ならわかる。お姉さんはオレより年上だったから、子供のオレに優しくしてくれていただけなんだ。オレがいくらお姉さんのことが好きでも、なまえお姉さんから見たらオレは、近所の可愛い子供だったんだろう。自分に懐いてくれている、弟のような子供だったんだろう。
 お姉さんは卒業してからどこへ行ったの。仕事は何をしている?オレ、お姉さんと同じ社会人になったよ。お姉さんと同じ大人になった。
 だから、なまえさん。今度は"ヒロくん"としてじゃなくて──ひとりの男として貴方に会いに行きたい。

「ずっと、なまえさんのことが好きだった」

 本文にその一文を付け足すように打ち込んだが、オレは送信の手を押せなかった。伝えて仕舞えば何かが壊れる気がしてならなかった。オレにいっしょだと笑いかけてくれた彼女が遠くに行ってしまう。あのたくさんの花の匂いも、彼女の部屋で食べたチョコレート菓子の味も、全部全部無くなってしまう。
 結局、件名に一言「なまえお姉さんへ」と書いて、本文は何も書かずに送った。それがなまえお姉さんに宛てた最後の言葉だった。



 潜入捜査官となって今までの人間関係は全て捨てた。あまつさえ諸伏景光という人間すら捨てて、正義のために悪人となってもなお、心に残っているのは彼女の言葉だった。

──いっしょ。私もチューリップが一番好き!
──私たち仲良くなれそうね。
──じゃあね、ヒロくん。
──ヒロくんの優しさは、ヒロくんだけのもの。それは誰かと比べるものでもないよ。

 なあ、なまえお姉さん。オレは優しい警察官になれたのかな。お姉さんは向いてるって言ってくれたけど、本当に警察に向いてたのかわからなくなってるよ。……やっぱり、零みたいに完璧な人間じゃないと無理だったのかもしれないな。
 NOCであることがバレた今、オレの逃げ場はもうあの世しか無くなった。オレは今度こそ、なまえお姉さんに会うことが出来なくなる。メールすらもう送ることが出来なくなってしまって──ああ、やっぱり、あの時伝えておけばよかったなんて、今更後悔した。
 たぶん、なんかじゃない。オレのなまえお姉さんへの気持ちは紛れもなく恋だった。こうして二十六になっても忘れることなんてできなくて、死の間際にあの人のことを思い出すくらいには、彼女のことが好きだった。
 なまえお姉さん。もしかしたら、オレの知らないところでもう誰かと付き合って結婚しているかもしれない。子供が産まれて、幸せな家庭を築いているかもしれない。悔しい、悔しいな。オレがなまえお姉さんと同じ歳だったら、あなたの隣に立てたのかな。オレが零みたいに優秀だったら、こんなことにはならなかったのかな。

(……なまえお姉さん、)

 拳銃を持つ手に力を込める。きっとこの先には、あの花園もチョコレート菓子も何もない。お姉さんだってそこにはいない、いなくていい。でもこれで、同じくNOCである零を守れるのだとしたら──ゆくゆくは、お姉さんの住む街を守ることに繋がるのなら何だっていい。

(なまえお姉さん、オレ、頑張ったよ)

 ──頑張れ、諸伏巡査!
 彼女からの最後の返信。そのメールのデータだけは、消してしまっても覚えていた。その引き金を引く最後の時まで、ずっとずっと覚えていた。



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