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「ねぇねぇ、ヒロくんはどこの高校行くの?」

 私の問いに、ヒロくんは少し吊り上がった目を丸くさせてキョトンとした顔でこちらを見つめた。
 私の隣の家に住む"ヒロくん"は、素直で可愛らしい男の子だった。諸伏景光くん──随分と前に長野県から引っ越してきた、私より六つ下の男の子。引っ越してきた当初、彼は心因性の失声症で話すことができなかった。彼と初めて会った時、何かに怯えたような不安そうな目で私を見て、立ち尽くしている姿はなんとも痛々しかった。

「高校って……まだ中一だから決めてないよ。でも多分、零と同じところかな」

 しかし、それも昔の話。彼の親友にあたるゼロくん──降谷零くんのおかげもあって、中学生となった今では、彼はこうして話すことができている。考えていることが顔に出やすく表情が豊かな彼のことを、私は密かに気に入っていた。自分が素直ではない分、他人に素直さを求めてしまっている。

「またゼロくん?もしかしてヒロくん、ずーっとゼロくんと一緒にいるつもり?」
「ずっと一緒は難しいかもしれないけど、でも、出来ればずっと仲良くしたいんだ」
「……ふぅん」

 ヒロくんは親友のゼロくんのことが大好きである。何をするにも二言目にはゼロくんゼロくんで、こうして私の家に来る時だって、なぜかゼロくんを誘ってから来るらしい。しかし当の彼は私のことが気に食わないらしく、ヒロくんは毎回、こうして一人でやってくるというわけだ。
 五つ下の彼がどうして私の家に来るのかと言えば、それは単に彼の進路のためであった。なんでもヒロくんは警察官になりたいらしく、勉強で躓いている場合ではないのだという。確かに私はそこそこの進学校に通ってはいるから教えられないわけでもないけど、ゼロくんに聞けばすぐ教えてくれるだろうことをわざわざ彼は私に聞きに来るのだ。しかしどうせそれも、ゼロくんの勉強の邪魔をしたくないからとか、そういう理由だろう。
 しかし私の元に勉強を聞きにきているとはいえ、別に彼は勉強ができないわけではないのだ。その証拠に、机の上に広げられたノートを見ても、間違えている形跡など見当たらない。テストが終わるごとに律儀に「お姉さんが教えてくれたおかげだよ、ありがとう!」と言いに来てくれているが、彼はもともと優秀である。

「中学校はどう?楽しい?」
「楽しいよ。零とはクラス離れたけど、友達もできたしね」
「へぇ……部活は何入ったの?」
「テニスだよ」
「私と一緒だ」
「うん。なまえお姉さんが中学はテニス部だったって聞いてから気になってて、体験入部してみたんだ。そしたら意外と筋がいいって褒められて……」
「それ、ゼロくんも一緒に入部したの?」
「あ、バレた?」

 彼は照れたような仕草を見せると、「でも零は本当にすごいんだよ。次の大会も、先輩を差し置いて出場するんだって……」とまるで誇らしげに言った。正直、私はゼロくんのことはそこまで好きではない。昔からあからさまに私を避けている彼のことを、私は好きにはなれなかった。まあ自分のことを嫌いな人を好きになる必要なんてない。ありがたくもヒロくんには嫌われてないみたいだし、彼の友人に嫌われたくらいどうってことはなかった。

「オレも零みたいになりたいんだ」

 ゼロみたいになりたい──彼の口癖だった。

「勉強もできて、運動もできて……男から見てもかっこいいしさ。なんか完璧人間って感じで」
「でも喧嘩っ早いじゃない?」
「零のあれは売られた喧嘩を買ってるだけだよ」
「そういうことにしておいてあげる」
「……そういう完璧な人間こそ、警察官に向いてると思うから」
「だからゼロくんみたいになりたいの?」

 私の問いにヒロくんは頷いた。
 なんでも、ヒロくんの親御さんは事件で亡くなってしまったらしい。ヒロくんはその犯人を捕まえるべく、警察になりたいと言っているのかもしれない。詳しいことは聞いたことがないけど、彼のことだからきっとそうだ。

「まあ、私としてはヒロくんの方が警察官向いてると思うよ」
「えっ?」
「警察の人って怖いイメージがあるからさ、ヒロくんみたいな優しい人が交番にいたらいいなって思う」
「優しい?オレが?」

 今度は、ヒロくんの問いに私が頷く番だった。
 ヒロくんは優しい。私の家に来るたびにお菓子を買ってきてくれるし。何気なく私のテスト期間を尋ねて、その期間には絶対に我が家に来ない。彼は気遣いの塊なのだ。人当たりもよく、彼の親友とは違い喧嘩っ早いということもない。ヒロくんは穏やかな性格をしていると思う。私はそんなヒロくんのことが好きだった──弟がいたらこんな感じだったのかな、と心を許してしまうくらいには。

「そんなことないよ、オレなんかより……」
「ゼロくんの方が優しいとか言うの?」
「……またバレた」
「ヒロくんの優しさは、ヒロくんだけのもの。それは誰かと比べるものでもないよ」

 ヒロくんは自己評価が低くなりがちだ。まあ、近くにあれだけ優秀な子がいたら、そうなってしまうのはしょうがないかもしれない。
 一旦休憩を取ろうと思い彼の持ってきてくれたお菓子に手をつける。中学生のお小遣いなんて少ないんだからわざわざ私なんかのために気を遣わなくてもいいのに。それこそ、ゼロくんや中学の友達とお出かけするときのために使ってほしい。そう言っても彼は絶対に買ってくるから、私もそれに甘えて手をつけるようになった。チョコレート菓子が好きだと言ってから、彼は絶対にこれを買ってくるのだ。

「ヒロくんいただきま……ヒロくん?」
「え、あ、ああ。召し上がれ……?」
「なにそれ、ヒロくん作なの?これ」
「ち、違うけどさ」

 惚けたようにぼーっと遠くを見つめていたヒロくんを笑うと、彼は照れたように笑った。まあでも、彼は中学にしてなかなかの料理の腕前を持っているし(というか、私の方が下手だ)、いつかお菓子も簡単に作れるようになるのかもしれない。
 食べ終わると、二人で勉強を再開した。ヒロくんはどこか様子がおかしくて体調が悪いのかと聞いてみたけれど、頑なにそれを否定した。先ほどまでと違ってノートの上には細かいミスが増えているし、もしかしたら集中力が途切れてしまったのだろうか。

「なまえお姉さんはさ、卒業したら……」
「うん?」
「いや、なんでもない」
「そう?わからないところあったら言うんだよ」

 結局最後まで、ヒロくんの様子はおかしかった。





 子供の頃は、大人は何でもできて自由なんだと思っていた。でも実際なってみると子供の方が自由だったとわかったし、苦手なものは苦手なままだった。学生時代に下手だった料理は相変わらず下手だし──今の私と中学生のヒロくんだったら、当時の彼の方が断然上手いだろう。
 そんなヒロくんはというと、今や会うことは愚か、連絡すら取っていない。私は進学を機に親元を離れ、大学生になってからはヒロくんとメールでやり取りをしていた。しかし私が社会人となる頃、メールの頻度が少なくなり、そのまま自然と連絡が途絶えてしまった。気遣い屋の彼のことだから、大人は忙しいと思っていたのかもしれない。大学はそんなに忙しくなかったけど、たしかに社会人になってからはどうにも忙しかった。私も私で、自分から彼に連絡することができなかったのである。
 しかし、最近になって彼から一通メールが届いた。確か、ヒロくんはもう二十二歳。大学を卒業し、社会人の仲間入りを果たした頃だろう。
 メールを開くと、件名に「なまえお姉さんへ」と書いてあり、本文はなく、ただ一枚の写真が貼り付けられているだけだった──そこ写っていたのは警察官の服を着た、ヒロくんの姿だ。

「……ヒロくん」

 髭を蓄えた彼の姿はもうすっかり大人の姿だった。中学の頃のあどけなさは面影を残しているが、しかし立派になった彼が写真には収められている。
 そっか、無事警察官になれたんだ。久しぶりになまえお姉さんだなんて呼ばれてむず痒い。というか、ヒロくんの髭って全然見慣れないや。
 なんだか色々なものが込み上げてきて、私は久しぶりに彼にメールを送ることにした。元気ですか。警察官になれたんだね、おめでとう。体調には気をつけてね。そんな、当たり障りのない文章。おそらく忙しい彼が返信しなくてもいいように、完結した文章を作成する。送信ボタンを押そうとしたところで、思いついたように最後に一文を付け足した。
 おそらく、ヒロくんへのメールはこれが最後になるだろう、なんとなくそう思った。別に私の方からメールすればいいだけなのに、彼からメールが来ないとも限らないのに、確信めいたものを抱いていた。でも、それでよかった。伝えたいことは全部このメールに書いたから。

「よし、送信」

 ──がんばれ、諸伏巡査!
 最後のメールを、私はずっと消すことができなかった。



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