■ ■ ■


「風見、何度言ったらわかるの?それで公安が務まると思ってるの?」
「た、大変申し訳ございません!」
「いつまでもそんな風なら辞めてもらって結構よ。早死にはしたくないでしょう?それに、弛んでいる人間を置いておけるほど公安は暇じゃないわ」
「……っ、いえ!自分はまだ公安を辞めません!」
「……そう。じゃあ、辞めたくなったらいつでも言いなさい。私の方の準備ならいつでもできているから」

 警視庁公安部に配属されて一年目、風見裕也は洗礼を受けていた。みょうじなまえ──風見の二つ上の上司は、風見が今まで生きていた中で一番苛烈な人間だった。
 体格こそ自分より小さいが、なまえはどこかオーラのある人だった。なまえの容姿はそういうことに疎い風見でもわかるほど整っている。釣り上がった目元はクールビューティーといって差し支えないし、ぴっちりとまとめられた黒髪は光を反射するほどに艶やかだ。凛々しい顔立ちの彼女はいつだって表情を崩すことはなく、その容姿も相まって威圧感は凄まじいものとなっている。
 それに容姿だけじゃない。彼女の言葉は、プロボクサーのボディーブロー並みに重かった。まだ公安として日の浅い風見にとって、彼女の指摘は全てもっともだったのだが、そのどれもが棘のように突き刺さるほど彼女は辛辣な物言いしかしなかった。辞めなさい、と言われたことは今回が初めてではない。体育会系は上が絶対──分かってはいたけれど、学生時代の野球監督、警察学校の教官、かつての上司、その誰よりも彼女の下で働くのは厳しく辛いものとなった。
 しかしその度に、風見は食らいついた。別に、なまえは間違ったことを言っているわけではない。早死にする前に辞めろというのも事実だ。警察官にとって気の緩みは命取り。この国を守るため、自分の身すら守れずして何が公安警察だ。それに、彼女は誰よりも身を粉にして働いている──この男社会の中でエースと呼ばれるまで、生き抜いてきた彼女のことを風見は尊敬していた。
 風見はすぐに、優秀な公安警察官となった。もとより真面目な性分であり、警察学校でもトップクラスの成績だった彼がそうなるのは当然のことだったが、本人は自身の力だとは思えなかった。上司として自分を導いてくれたなまえのおかげ──風見はそう信じて疑わない。警察庁公安部、すなわちゼロの直属の部下となるまでに出世した今でも、彼はそう信じている。





「風見」
「はい、なんでしょう」
「サミットの見回りの件、持ち回りについて上から変更があったわ。迅速に確認するように」
「はい!」
「それから、あなた最近また弛んでいるんじゃないかしら」
「ま、またミスでもありましたか!?」

 風見の言葉に、なまえはピクリと目をひくつかせた。その様を見て風見は慌てて自分の行いについて振り返る。なんだ、何をした?昨日提出した書類は何度も確認してから提出を行なっているし、サミットに向けた仕事についての報告も適切に行えているはず。並行して行われる小規模テロ組織の情報収集は十分とは言い難いが、成果が出ているはずだ。風見の見える範囲では、なんのミスもしていない。しかし、見えない範囲のミスを防ぐのが公安警察である。またもそんなこともわからないのかと言われるのではないか。風見は何も言わないなまえを固唾を飲んで見守った。

「……あなた食事を、」
「はい?」
「いえ、なんでもないわ。……ミスはなかった、しかし気を抜かないように」
「えっ、あ、はい!もちろんです!」

 なまえははっきりと物を言う人である。だからこそ煮え切らない態度というのは珍しく、風見は立ち去るなまえの背中を不思議そうに見つめる。結局何を言われていたのかわからず、角を曲がった彼女の姿が見えなくなったのを確認して、風見は降谷への報告を済ませるためにその場を離れたのだった。

「……ふぅ」

 そんな風見の姿を──なまえは曲がった角から伺っていた。

「まったく、風見ときたら……風見と、きたら……!」

 自分の呼びかけに応える姿。ハキハキとした物言い。しかし、ミスがあるんじゃないかと言って慌てふためく様子。先ほどまでの風見の姿を思い出して、なまえは一つため息を吐く。
 風見裕也は優秀な部下だ。公安に配属されてから、なまえはずっと彼の姿を見てきた。配属されたばかりの頃は公安のやり方に慣れないところもあったようだが、今ではゼロである降谷の右腕となるまでに至っている。しかし、未だに抜けているところがないとも言えないのが事実だった。

(でもそういうところが、好き……!)

 みょうじなまえ、三十二歳、警視庁公安部所属──彼女は、部下である風見裕也警部補に惚れていた。

(また食事をチョコで済まそうとして……!せめてもう少しカロリーのある物を摂ろうとは思わないわけ?いくら忙しいとはいえ身体は資本なのよ?自分の消費カロリーすらわかってないのかしら……でも、チョコ好きなんて可愛いじゃない!!そういうところも好き……!)

 みょうじなまえは、風見裕也にベタ惚れだった。

(でもせっかくおにぎり持ってきたのに、渡せなかった……私ってなんでいつもああいう物言いしかできないのかしら。弛んでるじゃなくて、もっと……そう、疲れてない?休めてる?って言えばよかったのよ。そうしたら、風見があんなに怯えることもなかったのに)

 なまえはこう見えて大変な口下手である。初対面の人間、それも部下となると女であることを舐められないように強い口調となってしまうのが彼女の癖だった。この警察組織の中ではそうしないと生きていけなかったし、これはなまえ自身を守るための強がりだった。
 別になまえは優しさがないわけではない。危険な仕事ではあるが、部下には生きていてほしいと願っている。できれば大きな怪我もしてほしくない。家庭を築きたいと言っていた部下を応援したいとも思うし、若手でもなるべく家に帰れるように尽力したい。しかし労いの言葉も励ましの言葉も、なまえは上手くかけることができない。そうやって生きていたら、気づいたら公安の女傑とまで言われるようになっていたが、気づいたら部下全員から怖がられる存在となってしまった。
 風見が配属されたばかりの頃、やはりなまえは彼に優しくなんてできなかった。いつもきついことを言っていた自覚があったし、辞めればいいなんてパワハラに等しい発言をしたこともある。それでも、風見は公安を辞めなかった。それどころかなまえ本人が気付くほどに、風見は彼女のことを尊敬している。その尊敬の眼差しは彼女にはあまりにもむず痒く、胸を躍らせる物だった。
 生真面目なところ、仕事に一所懸命なところ、自分とは違い人に気遣いができるところ、慕ってくれるところ──なまえは風見のそういうところが好きだった。
 しかしいかんせん、なまえの恋愛偏差値はほとんどゼロ、どころかマイナスであった。好きな人にアピールなどもちろんできず、そればかりか嫌われるようなことを言ってしまう。自覚はあるのに辞められない。口から出るのはいつも棘のある言葉だけだった。そして風見と話せる嬉しさと緊張のあまり、元々の冷たい口調がどんどん冷たくなっていく。それも、自身も周りも引いてしまうほどに。

「私って本当にダメね……」

 風見が聞いたら、きっとそんなことないです、と心から言ってくれるだろう。彼女にこんなことを言えるのは、彼くらいな物だった。

(きっと今頃、降谷さんに食事について指摘されてるんだわ。あの人は目敏いもの。それにさらりと風見のことを食事に誘って、二人で行ってしまうんでしょうね……えっ、やだ。羨ましい!降谷さんが羨ましい……!!いや、そもそも風見が降谷さんの誘いを断れるわけがないのよ。それを降谷さんも分かってるのだから、あの人かなりずるくないかしら?職権濫用ってこういうこと?)

 むくむくと、彼女の中で降谷に対する敵対心が湧いてくる。なまえが風見を誘えないのは降谷のせいではない。断じて。しかし、風見に優しくできなかったことで思い悩んだ彼女の思考はオーバーヒートを起こし、あらぬ方向へと飛んでいく。

(そもそも、降谷さんって風見と仲良すぎるのよね。その割に彼の扱いが雑というか、よく振り回しているけど……もしかして、私から風見を奪うための作戦だというの!?……相手があの降谷さんだなんて末恐ろしいけど、受けて立つわ!)

 ──風見をかけて降谷と勝負。なんてありもしないタイトルマッチを考え、なまえは俄然やる気が出てきた。まあ、そんなタイトルマッチは存在しないし、なまえの独り相撲に過ぎないけれど。

「あ、みょうじさん!少々お時間よろしいでしょうか!見ていただきたい件がありまして……」
「ええ、何かしら」

 風見を想い乙女のように頬を緩ませていたなまえだったが、一人の部下が後ろから彼女に声をかけた時、すでになまえの表情はいつもの凛々しい物へと戻っていた。しかし風見のことを想っていたためか、いつもよりも濃く険しい表情に部下の男はヒッ……、と声を上げる。

「あ、あの、お時間都合悪いようでしたら出直します、急ぎではないので」
「え?いや、別に……」
「お、お大事になさってください!では!大変申し訳ございませんでしたぁ!」
「あ、ちょっと……」

 走り去ってしまった部下の後ろ姿に何も言えず、なまえはぼつんと一人立っていた。そして思うところがある。

(やはり私に真っ向から立ち向かえるのは、風見くらいなものね……はぁ、風見が恋しい……おにぎりは渡せないけど、風見の仕事を軽くすることならできるかしら……でもそうしたら、他の部下にバレてしまうし、それこそ職権濫用だし……うう、世知辛いわ……風見もああいう風に私を頼ればいいのよ。そうしたら、私なんでもしてあげるのにな……)

 みょうじなまえ、三十二歳、警視庁公安部所属──彼女の恋模様は前途多難である。



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