■ ■ ■


「ちょっといいかしら、風見」
「いかがいたしましたか、なまえさ……っ」

 ある女の呼びかけに風見が振り返ると、風見は息を呑んだ。女は鬼の形相でそこに立っており、風見より幾分か小さいというのに途轍もない威圧感を醸し出している。それは風見の直属の上司である降谷零にもよく似ている──風見はこういった表情のときのなまえが何を言い出すのか、見当がついていた。

「昨日あなたが提出した書類、一部に間違いがあったわ」
「っ、申し訳ございません。すぐ直して、」
「いいわ、私がもう全部直したから」
「……申し訳ございません」
「あなた、公安に所属されて何年経ったというの?こんなミス一年目でもやらないわよ」
「申し訳ございません」

 みょうじなまえという女は、風見の上司である。降谷零のように警察庁公安の上司ではなく、警視庁公安の上司だった。風見よりふたつ上であるなまえは優秀な警察官であった。風見が公安に所属した時点で彼女はすでに所属しており、手柄を立て、女性ながらにして警視庁公安部のエースと呼ばれるまでに至っている。風見にとっては、降谷と同じく尊敬すべき相手だった。
 しかし、なまえは降谷以上に苛烈な人間であった。自分に厳しく他人にも厳しい。過酷さ極まる公安警察にはこれ以上になく打ってつけの人材であったが、彼女の"当たりのキツさ"には定評があり、部下はみな戦々恐々としていた。

「申し訳ないと言っていれば済むと思っているわけ?」
「いえ……」
「"あの人"はそれで許してくれるというの?」
「いえ、あの人はっ……!」
「わかっているなら最初から気をつけなさい」
「はい!」
「次はないと思いなさい」

 コツコツとハイヒールの音を高鳴らせ、なまえは去っていく。彼女の姿が消えたところで風見はようやく呑んでいた息をつくことができた。
 周囲から恐れられているなまえではあるが、風見には一層当たりが強かった。それは周囲も、そして風見自身も気付いている。警察庁公安である"ゼロ"──降谷零と直接やり取りのできる部下は出世の邪魔となるから目の敵にしているのではないか、降谷に好意を抱くが故の嫉妬、単純にお前のことが嫌いなんじゃないか、と同僚は言っていた。しかし風見はそれら全てを到底信じることができなかった。
 風見からしてみれば、なまえは当たりこそ強けれど間違っていたことは一度もない。そして、彼女が地位や名誉のために働いているとも思えない。でなければ警察の中でも特に男社会の公安の中で、エースと呼ばれるまで登り詰めるわけがないのだ。
 しかし──本当に周りが言うように、降谷に対して好意を抱いているとしたら。それこそ、好意故に誰かに当たる人間ではないとは思いつつ、風見はその可能性について思慮する。
 彼女はよく、降谷さんのことを"あの人"と呼んでいる。周りに配慮してのことだと思っていたが、もし名前を呼べないほどに好きだとしたら?降谷さんの恋愛対象がわからない以上、男である自分にも注意を払うのは完璧主義の彼女らしい……──風見の考えは思いもよらない方向へと進んでいく。長らく仕事に明け暮れていた風見は、恋愛というものを忘れていた。

「まさか本当に、降谷さんのことが……!」
「僕がなんだって」
「っ!降谷さん、なぜここに……登庁は明日のはずでは」
「急遽予定が変更になったんだ……で、何があった?」
「いえ、特には」
「何があった?」

 風見が息を呑んだのは本日二度目であった。
 風見はしょうがなく、降谷になまえの話をした。自分に対して当たりが強い彼女のこと、そしてそれに対して周りがよからぬ噂を立てていること。自分はそれを信用しているわけではないが、このまま周囲に誤解を招いたままにするわけにもいかない。なんとか、彼女と歩み寄る道はないか……と。降谷に好意を抱いているのではないか、という話はそれとなく暈して話した。もし違っていたら、彼女にも降谷にも失礼だと思ったからだ。
 降谷は最初、それを真面目な顔で聞いていたが、途中で目を丸くさせ、そして最終的には笑いを噛み殺すような表情を浮かべていた。

「君、まさか本当にそう思っているのか?」
「い、いえ!自分はただ、可能性を考えただけで」
「君もわかっているだろう?みょうじは公私混同する人間ではない」
「ええ、その通りです」
「そもそも誤解を招いたのは彼女自身の態度が原因であって、風見がそれを考える必要はない」
「ふ、降谷さん……!」

 降谷が珍しく自分を擁護する発言をしたものだから、風見は感動すら覚えていた。
 しかし、問題は解決していない。結局なまえは降谷が好きなのか。もしそうではないとしたら、やはり自分のことが嫌いなのではないか、あるいはその両方か。……一度考え出したら気になってしまうのは、刑事のサガなのかもしれない。

「それにしても、"みょうじは僕のことが好きで風見のことが嫌い"なんて──彼女も不憫だな」
「はい?」
「いや、なんでもない。……厳しいのは別にいいが、あまりにも目に余るようならば僕からも注意しておこう」

 警察の世界は体育会系であり、一般的に見たらハラスメントまがいのこともまかり通ってしまう。命懸けの仕事だからとはいえ、それで優秀な部下が辞めてしまうのは勿体ない。公安で生き抜いた風見がその程度で負ける人間ではないしても、不安要素は取り去りたい。普段からは考えられない上司の優しさにまたも風見は感動しつつ、それを顔に出さないようにして降谷に向き合った。

「確かにみょうじさんは厳しい方ですが、それを厭わしく思ったことは断じてありません」
「……」
「彼女の正義は間違っていません。いつだってあの人は正しく──そして、私のことを考えてくださっています。なまえさんがいなかったら、私は公安でやっていくことはできなかった」
「……そうか」
「それに、同僚にそう言われた時点で反論できなかった私にも非があります」

 風見はそれだけ言うと、「降谷さんのお時間を奪ってしまって申し訳ございません」と頭を下げる。降谷はそれを見て小さく笑って、立ち去っていった。





「……で、君はいつまでそうしてるつもりだ?」

 降谷が風見と別れたあとに向かったのはなまえの元だった。休憩中らしい彼女は休憩室の椅子に項垂れて座っていたが、降谷の姿を見て咄嗟に立ち上がり、姿勢を正して敬礼をする。降谷はそれを制したが、なまえは本来、上司の前で弱さを見せる人間ではない。もちろん、部下の前でも。

「降谷さん、何か飲まれますか」
「いや、……そうだな。コーヒーを」
「ブラックでよろしいですか」
「ああ」

 なまえはすぐさまブラックコーヒーを淹れた耐熱の紙コップを降谷に渡す。女性だからと今までも任されていたのだろう、その手捌きには慣れたものがあり、味も美味しいものだった。しかし、ポアロで安室透として働く降谷からしてみると、淹れ方はまだまだ改善の余地があるなと思ったが、言わなかった。どうせただの警察官には必要のない知識である。

「みょうじ、風見から聞いたが──」

 その瞬間、なまえは肩を大きく震わせた。なまえの持っていたマグカップの中身が揺れて波を立て、危うくこぼれそうになったところを降谷が支えてなんとか沈める。

「っと……危なかったな」
「も、申し訳ございません、……」

 そう言ったなまえの耳まで赤くなるほど頬を染め上げ、普段は凛々しくつりあがっている目元も今や弱々しく目尻が垂れている。警視庁公安部の女傑とまで言われた彼女がまさかこんな弱った姿を見せるなど、降谷は思いもよらなかった。

「みょうじ、君は……」
「な、なんでしょうか」
「……難儀な人間だな」
「はい?」
「もう少し自分に甘くしてもいいんじゃないのか。そんな風になるまで堪えて、いつか爆発されても困る」
「爆発……ですか?」

 なまえは降谷の言っていることがわからなかった、しかし上司の言うことである。善処します、と言ってしっかりとマグカップを握りしめる。そんな彼女の姿を見た降谷は少し悪戯心が芽生え、余計な一言を口走ってしまった。

「それに、そんな風ではいつまで経っても風見は気づかないぞ」
「えっ……」
「あの男は恋愛に関しては殊更鈍い──って、おい」

 なまえの思考が一瞬停止して、しかし頭の回る彼女は彼の言った言葉をすぐに理解した。理解したせいで、そしてまた思考が停止する。その瞬間彼女は手元からマグカップを落とし、ガチャンと何かが割れる音とともに瞬く間に地面にブラックコーヒーの海ができていく。流石の降谷もそれを見捨てられるほど鬼ではなく、二人して並んで床の掃除に勤しむこととなった。
 のちに、文字通り土下座する勢いで降谷に謝罪するなまえが目撃されたらしいが、その噂が風見に届く前に"なぜか"消えてしまった。



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