建人くんから術師に戻ると伝えられたとき、私は「とうとうこの時が来てしまった」と思った。
彼はもともと優しい人だ。表にはあまり出さないけど、私の知っている人の中で誰よりも優しい。灰原くんの死と、夏油先輩の離反を目の当たりにし、そして私の呪いのせいに絶望し彼は術師をやめてしまった。そんな彼に対してもう死んでしまったとある先輩は「軟弱で卑怯者だ」と言ったが、彼の決断が優しさからなのを私は知っていた。人の死が近すぎて境界が甘くなる術師を私は何人も見てきた。親しい人が亡くなっても泣くことすらできない人がいるような世界で、彼は灰原くんが亡くなって静かに泣いていた。世界と友人や先輩、あるいは妻である私を天秤にかけたとき、彼はきっと悩むことだろう、彼はそういう人間だった。全てを捨てられない優しさがあったから、建人くんは術師を一度辞めたのだと私は思う。
そんな彼が術師に戻ると言う。いつか何かのきっかけが有れば、戻ってきてしまうだろうと言うこともわかっていた。経緯を聞けば、「たまたまよく行くパン屋の店員の呪霊を祓い、思いがけず感謝されたから」だそうだ。建人くんの職場近くのそのパン屋は私もお気に入りだった。カスクートが美味しいのだと、よく彼はそこのパンを買ってくる。私はクリームパンが好きだから建人くんはわざわざ買ってきてくれて……いや、そんなことはどうでも良いかな。とにかく、建人くんが術師に戻ることが今は重要だ。
というわけで、例のパン屋に来た。建人くんは手続きのために五条さんに呼ばれたそうで、今日は家にいない。私がここにいることは知らないだろう、というか秘密だ。特に変わった点はなくどこにでもあるようなパン屋だ、と思う。ラインナップは少々変わっているが王道を外れているわけではない。店員さんも普通の人で術師というわけでもなかった。
「いらっしゃいませ!……あれ?」
トレイとトングを手にして辺りを見回る。前買ってきてくれたクリームパンを探して歩き回っていると、ポニーテールの女性が私の目の前に立った。
「何か探してるの?」
「……」
私と話す時、だいたいの大人は屈んで目を合わせて、保育士のような話し方をする。子供だからしょうがないことだ。この女性も同じようなポーズで話しかけてきた。いかにも人畜無害そうな見た目をしている。
「クリームパンをさがしています」
「……、あっ、クリームパンね!うん、こっちだよ」
「ありがとうございます」
指さされた方向にはたしかにクリームパンがあったが、少しだけ高い位置にあるせいで見えない。背伸びすれば届くかな、と考えていると、女性は私のトングを取ってトレイにクリームパンを置いてくれた。
「ありがとうございます」
「他に何かほしいもの、ある?」
「えっと、カスクートを」
「よく知ってるね」
「おっ……父さんが、よくたべてるので」
「おっとうさん?」
危ない。「夫が」と言いそうになって、咄嗟に言葉を飲んだ。今度はトレイすら奪われてしまって、女性はカスクートを取って渡してくれた。「他には?」という言葉に首を横に振ると、「じゃあお会計しよっか」と言った。
「クリームパン1点、カスクート1点、合計2点で……」
──彼女が、建人くんの言っていた人なんだろうな。彼が放って置けないタイプだ。ふよふよと、ごく小さい蠅頭が飛んでいる。建人くんが祓ったと聞いたけど、もしかしたら彼女は引き寄せ体質なのかもしれない。
言われた金額をぴったり出す。レジは少し高かったが、女性がカルトンを傾けてくれたおかげで簡単に置くことができた。建人くんには内緒できたから、レシートは受け取らなかった。証拠となるようなものは残したくない。お金と交換するように渡されたパンの袋を受け取ろうとすると、彼女は「あ」といってレジから出てきた。
「はい、どうぞ!」
「……ありがとうございます」
届かないのではないかと思ったのか、わざわざ手渡してくれた。彼女の肩にいる蠅頭と目が合う。じい、と見つめれば、女性は不思議そうな顔で振り返った。
「どうかした?」
「つかれてませんか」
「えっ、うーん……ちょっとね」
前に一回疲れが取れたことがあったけど、また眠れなくなっちゃった。と彼女は困ったように言う。先ほどより強く蠅頭を睨みつければ、白い蛇が大口を開けてそれを飲み込んだ。鳴き声すらあげる暇もなく、丸呑みされていく。
「あれっ、なんか肩軽い……」
「おねえさん、これ、あげます」
「えっ、ありがとう……折り紙?」
「おまもりです。"つかれ"が取れる、おまじない」
渡したのは、呪力を込めた呪符だった。人の形をしたそれは一見すると折り紙だが、これでも私の家直伝の御守りの一種である。女性はそれを受け取ると「ありがとう」と朗らかに笑った。
「またきてねー!」
これで、しばらくは大丈夫だろう。彼女ほど人の良いタイプは子供から貰ったものを簡単に捨てるタイプじゃない。まあ、お祓いにいってくれるのが一番だろうが──一応、紙の中にウチの名前を書いておいたし、もし何かの拍子でそれを見ることがあれば万々歳というわけだ。
「……あ」
そこで、とんでもないミスに気付く。私は今日、ここには建人くんに内緒で訪れたわけで、バレないようにしなくてはならない。しかし袋の中に入ったパンの数は二個。私の好きなクリームパンと、建人くんが好きなカスクート。いつもの癖で建人くんの分も買ってしまった、迂闊だった。レシートよりもっと重要な証拠を残してどうする。食べるにしても、この身体になってからすぐお腹いっぱいになるし(このクリームパンだって昼ごはんのつもりだった)、二つもパンを食べたら夕ご飯が入らないかも……そうなれば、バレる、確実に。一番バレない方法は、建人くんより先に帰って冷蔵庫の奥に追いやることだろう。
そうと決まれば、早めに帰るしかない。手を振るお姉さんの方に振り返って小さくお辞儀をして、急いで歩を進めた。
◆ 努力も虚しく、私が家に着くと建人くんはすでに家にいた。私が玄関を開けたところ、走って駆け寄ってきて、膝をついて思い切り肩を掴まれた。熱烈なお出迎えである……と思っていたのも束の間、だいぶ、かなり低い声色で怒られた。
「どこかに出かけるときは教えてくださいと言っているでしょう」
「ごめんなさい」
「家に帰ってきたら誰もいなくて心配しました。心臓が止まるかと思った」
「大袈裟だよぉ……」
抱きつかれながら、彼から見えないようにパン屋の紙袋を背中に隠す。意味はないとわかっていたが、案の定すぐにバレて「それは?」と聞かれてしまった。
「どうしてもほしいものがあって、」
「言ってくれたら私が買ってきたのに」
「んー……」
パンが買いたいわけじゃなかったわけじゃない。パン屋──パン屋のお姉さんに用があったなんて、建人くんに言えるわけがなかった。しかし、私の思いとは裏腹に建人くんは見つけてしまったらしい。私の持っている紙袋には、あのパン屋のロゴが入っている。じっと私の顔を見つめて、淡々と聞いた。
「行ったんですか、あのパン屋に」
「……うん」
「なぜ?」
「……だって、」
だって、建人くんが術師に戻ると言ったから。建人くんが術師に戻るきっかけとなった、パン屋の女性を見たかったから。その理由は、きっと正しいようで"正しくない"。なんと言おうか考えあぐねて黙り込む私を、建人くんはじっと見ていた。その視線が痛くて、チラリと彼の目を見上げるように見つめる。
「ないしょ」
建人くんがため息をこぼした。
「そういうのは、ずるいと思います」
「どういうこと?」
「いえ、忘れてください」
彼の言葉の真意がわからず頭を傾げていると、いつも通り彼に抱き抱えられる。ちゅ、と頬にキスを落とし合って、彼は私を抱き抱えたままリビングに向かった。
「中身は?」
「クリームパンとカスクート。いっしょに食べよう」
「ええ。……ああ、あと」
「ん?」
耳元に口を近づけて、こそこそ話をする様に彼は言った。
「パン屋の女性とは何もありませんよ」
「……私、なにも言ってないもん」
「不安にさせてすみません」
「だから、私何も言ってない!」
「あなたの夫失格です」
「失格じゃない!」
私の言葉に彼がしてやったりと言いたげに、口角を小さくあげた。建人くんも、大概ずるい。