神が嫌いだった。
 もともと信仰深い方でもない。呪術師になる前は寺社の区別もどうでも良かったし、そもそも自らが宗教に属しているという自覚もなかった。そういう意味では無宗教と言ってもいいかもしれないくらいには、神という存在を信じていなかった。それでも呪術高専に入ってからは、神という存在を信じざるを得なくなった。呪霊と同じように、彼らもそこにいる。信仰され、信仰の分だけ人々を守り、時に呪いへと転じる。そういう存在だということを、私はこの学校に入学してよく学んだ。
 神に不信感を抱き始めたのは2年生の頃だ。同級生の灰原は土地神によって殺された。私の、私たちの力がないせいで灰原が死んだことは分かっていたが、それでも子供だった私は同級生を無くした悲しみとやるせなさから、神を憎むしかなかった。八つ当たりだと分かっていても、私の心を落ち着かせるにはその方法がベストだった──それでも、灰原を失った悲しみを癒してくれたのは、怒りだけではなかった。唯一となってしまった私の同級生、かつ私の恋人であるなまえは、甲斐甲斐しく私を慰めてくれた。自分だって仲良くしていた同級生が死んで悲しいはずなのに、毎日毎日私を慰め続けた。そんな健気ななまえを好きになるのに時間はかからなかった。聡明な彼女のことはもともと好意的に思っていて、しかし異性として好きだと自覚したのはその時だったかもしれない。恋は気づいたら落ちているものだと五条さんは言っていたが、なるほど、珍しく言い得て妙だ。私は彼女をいつ好きになったかははっきりと覚えていない。でもさらに好きになったのは確かにその時だった。
 なまえと恋仲になり、心を重ね、体を重ね、時を重ねた。灰原の死を乗り越えることはできなかったが、傷を舐め合うことはできた。灰原を見殺しにした私には幸せになる権利などないと思っていたが、烏滸がましくも彼女との生活を享受することだけは許して欲しいと思っていた。先輩が離反した、呪術師を辞めようと決意した。それでも彼女はずっと私の側にいて、ずっと私を愛していてくれていた。きっと五条さんが聞いたら笑うだろう。「お前らみたいな生真面目が愛とか恋とか語ってんのウケる」なんて、飄々とした態度で失礼なことを言うに違いない。それでもよかった。誰かに茶化されようが、なまえの隣に居られることは幸せだった。幸せだったのだ。
 私はあの時、神を嫌いになったとはっきり言える。人間くさい子供じみた嫉妬で、彼女の身体を歪めてしまった神を、私は嫌い、呪った。しかし呪われたのは私で、もっと呪われたのはなまえだった。高専と繋がりがあり、かつ名のある祈祷師を呼んでも彼女の呪いは解けることはなかった。結局、彼女が神に"お願い"をする形でこの件は一時的な解決を収めたが、彼女の身体が元に戻ることはなかった。
 彼女の手を握ると、6、7歳ほどの子供のような小さな手によって握り返される。私より小さかった体躯はさらに小さくなり、屈まなければ彼女の顔を見ることすらできない。この時ばかりは自分の発育の良さを恨んでしまった。地面に膝をついて彼女の顔を覗き込んで目を合わせた時の、彼女の表情が忘れられない。

「……こんな私でも、嫌いにならない?」

 そう言って、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた彼女の姿に胸が痛んで、私はすぐになまえを胸に抱きとめた。ああ、いつの日かのなまえも私に同じことをしてくれた。灰原を亡くした後の私も、きっと同じような顔をしていたのかもしれない。

「ええ、好きですよ──ずっと」

 そのような言葉を言った、気がする。覚えていないのは、ただ彼女に愛を伝えたくて必死だったからだった。誰かを、なまえを愛おしいと思う気持ちは無限に湧き上がる。きっと、呪いと大差ない。





 おそらく私はこの戦いで死ぬのだと思う。特級呪霊との2度の戦い。頼りになる術師の殆どが戦線を離脱し、渋谷駅構内は呪霊と呪詛師が蔓延っている。なによりも、あの五条さんの封印──この場を切り抜けたとて、おそらくこの世界は変わってしまう。
 それでも、焼けて軋む身体を引きずって呪霊を祓い続けた。おそらく私はここで死ぬが、残されたものたちのために私は動かねばならない。それが術師としての、大人としての役割だから。
 呪霊の群れの中で、彼女が──なまえが笑う。入学式で初めて会った時より、少しだけ身長が伸びて大人びた顔をしていた。
 あの時、目つきが悪く愛想も良くない私に怖がらずに話しかけてきたのは、貴方と灰原が人生で初めてだったと思う。貴方の笑顔は、私には眩しすぎた。子供だったあの頃は素直に受け止められず、その眩しさの理由もわからずに避けることもあったと思う。しかし、眩しいものを眩しいと言える大人になれた。大人の貴方の笑みは変わらず眩しかったが、しかし、大人の笑い方をするようになったと思う。大口を開けず、控えめに笑う女性になった。

「……ああ、そういうことか」

 しかし現実は非情だ。現在家にいるなまえは子供のままで、私はあなたを置いて大人になってしまった。小さな絶望を重ねて呪術師に戻った結果、いままさに巨悪に負けようとしている。呪霊と神、そのどちらにも敗北を突きつけられてしまった。削れた半身は、もはや痛みすら感じない。
 死の間際でやはり思う。私は神が嫌いだ。呪い風情のくせに、信仰があるせいで一丁前に神を名乗っている。お前たちがいなければ、きっと灰原は死ななかった。お前たちがいなければ、なまえの未来はすぐそばにあっただろう。家族、友人、先輩、後輩、食事、メイク、洋服、結婚式、仕事、普通の生活──彼女が大好きだったはずの、しかし諦めざるを得なかったものたちは、すべて彼女のものになるはずだったのだ。本人の願いを叶えずに何が神だ、と心の中で悪態をつく。
 なまえの幻覚だなんて意地の悪いことをするのも呪霊と大差ないじゃないか。私の考えを見透かすように、あの蛇神がニヤリと笑った。そんな気がして、私はとうとう耐えられなくなった。

「──どうせ、なまえとキスもできないくせに」

 目の前の呪霊たちに私の言葉の意味はわからないだろう。しかし"アレ"には効果的面だったようで、痛みをなくしたはずの半身がジクジクと疼く。2年のころ、彼女の家の境内で感じたものと同じ感覚。傷の下を何かが這いずって、締め付けるような痛みが襲う。それでも右手に握られた獲物は絶対に離さなかった。
 呪術師に出戻ったときに、決めたことが一つだけある。私は神を殺してでもなまえの呪いを解くのだと。それで私が呪われようが祟られようが別にどうでも良かった。どうでも良いから、この武器でアレを殺したいと、何度呪ったことだろう。呪術師が聞いて呆れる。結局、その呪いも叶わなかったな。

「マレーシア……そうだな…マレーシア……クアンタンがいい」

 なんでもない海辺に家を建てよう。買うだけ買って手をつけていない本が山ほどある。1ページずつ、今までの時間を取り戻すようにめくるんだ。そこに、貴方がいれば良い。
 違う、私は今、伏黒くんを助けに……。真希さん、直毘人さんは?二人はどうなった。
 ……疲れた、疲れたな。そう、疲れたんだ。もう十分やったさ。
 目の前の呪霊を殺して、殺して、殺していく。自分のものか相手のものかわからない血が地面を覆って、伏せた呪霊たちの真ん中でかろうじて立っていた。今にも倒れそうだと思ったと同時に、例の人型呪霊が私の体に手を当てる。何度か戦ったあの呪霊は、前回と同じく愉快そうに口に弧を描いていた。

「……いたんですか」
「いたよ、ずっとね」

 ちょっとお話しするかい、と言う奴の言葉には何も言わなかった。特に奴と話すことなどない。ああ、それでも今話すとしたら。
 灰原。私は結局、何がしたかったんだろうな。逃げて、逃げたくせに、やり甲斐なんて曖昧な理由で戻ってきて。あれだけ心に決めたのに、なまえの呪いも解けなかった。なまえと仲が良かったから、呪いを解けなかったことを、結果嘘をついてしまったことを、お前は怒るだろうか。
 灰原が指を指す。亡霊の指差すその先は、未来ある若者──虎杖悠仁くんだった。

「虎杖」
「ナナミン!!」

 駄目だ、灰原。それは違う、言ってはいけない。それは彼にとって"呪い"になる。

「虎杖君」

 彼の奥になまえが見えた。趣味の悪い幻覚だと思ったが、"アレ"が作ったにしてはあまりにも朧げで頼りない。大人の貴方は1年生の時と同じ笑顔を浮かべている。普段はおとなしい割に、小さな口を大きく開けて笑う人だった。入学した当時の私はそれをはしたないと思ったが、私は貴方のその笑い方が嫌いではなかったのだと、大人になった今は思う。あれはきっと私の作った夢に違いない。なまえの笑顔が、なまえのことが好きで好きでたまらなかった。
 最期に見る貴方の姿は私の幻覚であったが、それでも、貴方が笑ってくれていて良かったと心から思う。

「後は頼みます」

 五条さんのこと、この世界のこと、なまえのこと。15歳ほどの子供が背負うにはあまりにも重いそれを託す大人のことを、どうか許して欲しい。
 そして、来世もなまえと出会い、貴方の隣にいる事を私は望む。過ぎた願いだとわかっていたが、今更、嫌いだった神に私はそう願っていた。
 力の入らない左手から指輪がするりと抜けて、それを拾い上げる前に私は──。





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