七海が、なまえが任務で怪我をしたと連絡をもらったのは残業のためにまだオフィスにいる頃だった。ちょうど一週間前に術師に出戻ろうと決意し、そして会社を辞めようと思っていた。社会人ともなると、辞めますと言って「はいそうですか」とすぐに許可が出るものではない。今まで担当していた顧客や、受け持っていた後輩のOJTの引き継ぎは辞める本人が請け負うべき責任だ。だからこそしたくもない残業をしていたというのに──七海は内心で悪態をつく。自分の知らぬところで、なまえは怪我をして、一人で家に帰ったのだという。高専ぶりに連絡をとった五条からのメールにはそのようなことが書いてあった。
 五条からメールが入り、七海は思わず立ち上がってしまうくらいには動揺した。同じく残業だと言って声をかけてくれた同期の■■は、そんな七海の様子に驚き、なぜか彼女の方が狼狽えている。こんな姿を他人に見せるべきではなかったのに、と七海は脳内で反省会を行ったが、内心落ち着いたわけではない。終わっていない仕事や五条からのメールを見たり、考え込んだりして、結局なまえ本人に電話をすることにした。■■に断りを入れて廊下に出て電話をかける。任務は既に終えて家に帰ったのだというのにも関わらず、なまえは全く出ない。風呂に入っているのか、料理中だったか、それとも──最悪の状況を想像してしまい、七海はすぐにデスクに戻って帰り支度をした。机の上に放置された仕事がどうでもいいわけではない。しかし、なまえの安否を確認しないことには進むものも進まないだろう。彼女の容体を確認したらまた会社に戻ろう、と心に決めて、七海は■■に礼を言って退社した。
 移動の最中も気が気ではなかった。未だメッセージに既読はつかない。何か食べれるもの……いや、そもそも倒れていないだろうか。意識はあるのか。怪我はどの程度なのだ、と七海の思考は巡りに巡る。意図せず歩幅が大きくなり、普段よりずっと早い時間で帰宅した。外と同じく大股で家の廊下を歩く。真っ先に行ったのは寝室だった。

「……なまえ、」

 寝室にある大きなベッドの真ん中でなまえは一人横たわっている。毛布に包まって丸まるように眠る彼女の身体はいつもより小さく見える。しかし七海が近づいて見ると、いつもと様子が違うことに気がついた。
 なまえの呼吸が荒い。いや、荒いというよりは上手く呼吸ができていない。はくはくと口を動かし、そして時折小さくうめき声をあげる。額にたまのような汗を滲ませ、たまに身を捩らせる。確実に何かがおかしい、と気づく──七海はあの神社でのことが脳裏を過ぎって、思わず彼女の身体を揺すった。しかし、なまえは起きる気配を見せない。

「なまえ、……なまえ!」

 思っていたよりもずっと大きな声が出て、その瞬間、なまえの目がゆっくりと開かれる。そこでようやく七海は一息吐く。会社にいる頃からずっと飲み込んでいた何かが、今一度に吐かれた気がした。

「なまえ、大丈夫ですか」
「……けんとくん、なんで……おしごとは?」
「切り上げました。五条さんから、なまえが怪我をしたと連絡があって。なぜ連絡をくれなかったんですか」
「たいしたことない、から……あのひと、おもしろがってるだけなんだよ、おおげさだよ……」
「大袈裟なものですか。随分とうなされてましたよ」

 なまえの身体を抱き起す。衣服がぐっしょりと濡れるぐらい汗をかいており、未だに息も整わない。七海が膝になまえを乗せようとしたが、なまえは「スーツよごれるから」と言ってやんわりと拒絶した。ジャケットを脱ぎ彼女の背中を手で支えると、なまえもようやく落ち着いたようでくたりと七海の手に寄りかかる。七海はなぜかいつもより彼女の体重が軽いと感じていた。

「怪我は本当に平気。でも……変な夢、見て」
「夢ですか」

 なまえは小さく頷いて、ぽつりぽつりと話し始める。

「建人君が大人になった私と歩いてるの」
「どんな場所かはよくわからないけど、一面真っ白で、向こうに地平線のようなものが見えて……でも何回見てもそこがどこなのか全くわからなくて」
「手を繋いでずっとずっと歩いてるんだけど、全く進んだ気がしなくて──気づいた時には、建人君がいなくなってた」
「それで……一面の真っ白いものが、全部蛇だと気付いたの」
「そうしたら、蛇が身体にいっぱい登ってきて、それで──」

 怖かった、となまえは言う。その言葉は震えていて、七海は彼女を落ち着かせるように背中をとんとんと叩く。すると、そのまま胸に縋り付いてきた。鼻を啜る音が聞こえて、七海が思わず彼女を抱きしめる。あの日以来、なまえが泣いているところを七海は見たことがない。なまえはこう見えても怖いもの知らずではあるが、まさか、蛇と悪夢を怖がるとは──少しの驚きと、蛇に対する嫌悪を抱きつつ、七海がなまえを抱きしめる力を強めた。
 なまえがシャワーを浴びたい、と言ったので、どうせならと二人は一緒に浴室へ向かった。怪我の程度を確かめたかったのもあるが、夢の件もある。虎視眈々と機会を窺う蛇に隙を見せてはいけない。それに水辺は良くないものが集まりやすい。今のなまえを一人にするのはあまりにも危険だった。
 シャワーを浴びて、身体を洗い、なまえの怪我を確認している間、なまえは口数が少なく自分から話すようなことはなかった。二人で浴槽に浸かり一息ついたところで、七海はとうとう我慢ならなくなった。

「ずっと言いたかったことがあります」
「なぁに」
「なまえは、術師を辞める気はありませんか」
「……それは、」
「私が高専を出たあとからずっと、金を稼ぐために随分と無茶をしたでしょう。その身体で任務に赴くのは辛いだろうと、ずっと思っていました」

 なまえは元から七海や五条らと比べればフィジカルは弱く、体格や運動センスに恵まれた方でもない。子供の姿となりそれは顕著になった。リーチ差は埋められず、体力も腕力もない。術師は肉体労働であり、子供であれば五条くらいの呪術的才能がなければ前線でやっていくには厳しいだろう。事実、呪われてからなまえは2級から4級へと降格になった。それでも6年かけて、ようやくなまえは元の2級術師へと返り咲いたのだった。

「本当はいつも気が気ではなかった。辞めて欲しいとずっと思っていました。でも、逃げた私がそれを言うのは違うでしょう」
「そんなことないよ」
「いえ、そんなことがあるんですよ。……そして自分が術師に戻ったからと言って、貴方に辞めろと言うのもお門違いだとわかっている。ですが、術師に戻るのなら私は貴方の分の仕事まで請け負うつもりでいます」
「……」
「なまえの努力は知っています。よく見てきました。2級に上がるのが大変だったことも」

 神に呪われた、というのは上にとっては心象が悪いようで、なまえはそれなりに実力はあったのになかなか昇級が行われなかった。今回2級になったのも、あの特級術師・五条悟の尽力があってこそだ──というのを、七海は知らない。そして2級に上がるきっかけが、七海の負担を減らすためになまえが五条にお願いしたからであると言うことも、七海は知らない。2級に上がれば給金が増える、そうすれば七海が精神をすり減らして仕事に明け暮れる必要はなくなるだろう。入社2年目、疲弊し切った七海を見てそう考えたなまえは、五条に昇級させてもらえるように推薦を申し込んだ。しかし彼女自身、それを七海に教える気はさらさらなかった。教えれば七海が傷つくことなど目に見えてわかっている。

「2級になれば単独任務が許される。もしそのときにアレが出たならば、……」

 七海は珍しく煮え切らないように言って、今度は彼の方が黙り込んでしまう。なまえの髪の毛から滴が垂れて水面に落ちる音だけが浴室に響いていた。
 結局、二人は何も言わずに風呂を上がった。無言はベッドに入っても変わらず、珍しくお互いに背を向ける。しかしそんな空気に耐えかねたなまえが一言「建人くん」と言って七海の背中に抱きついた。

「私、術師以外の生き方がわからないの」

 なまえは成人しているとはいえ身体は幼児だ。そうなればどれだけ取り繕おうと一般社会で働くことは難しいということは、二人とも良くわかっていた。しかし、先程悪夢が怖いということを初めて言ったように、なまえは七海に初めてこのことを話した。出会って8年になるが、未だに互いの全てを知れたわけではないのだ。

「術師になる以外の道はない、じゃないと、建人くんのこと支えれない」
「十分支えられていますが」
「でも、お金のこととか」
「貴方が今それを気にするんですか?」

 ──七海が大学編入する際、まだ学生の身分で収入も安定しておらず満足に養えないから結婚は待って欲しい、と申し訳なさそうに言った七海の言葉を拒絶したのはなまえの方だった。「私の術師としてのお給金があるからいいよ」と言うなまえに七海は「少なくとも二年は頼りきりになってしまう、貴方のことを支えられない」と言ったのに、なまえは言うことを聞かなかった。……なまえは数年前の自分を思い出し眉を顰める。まさか、過去の自分に首を絞められることになるとは。

「あのとき貴方も言っていましたが、要は気持ちの問題です」
「わぁ、建人くんらしからぬ発言……」
「らしくなくていい。帰ったらなまえが家にいるだけでいいんです。私はそれにかなり助けられています」

 七海は寝返りを打つと、なまえの顔を見つめて言った。

「会社を辞めたら、術師の手続きが済むまで少しだけ時間ができます。そのときにちゃんと話しましょう」
「……ううん。建人くんが言うなら、術師辞めるよ」

 なまえの発言に七海は少し驚く。そんなにすぐ決めていいのかと聞きたくなったが、自分から提案しておいてそう聞くのはおかしいだろうと思い、口を噤んだ。七海の言いたいことを察したなまえが、彼の懐に入る。すっぽりと腕におさまると、彼の体温を分けてもらうかのように胸に擦り寄った。
 なまえは、術師の仕事に誇りを持っている。しかしそれと同時に、七海同様精神をすり減らしながら呪いを祓っている自覚があった。フィジカル面で不安があることも事実だったし、七海より先に死ぬかもしれないという状況はずっとなまえを追い詰めている。術師辞めろと言われれば辞めれるくらいには──しかし、それ以上に七海が「家にいるだけでいい」と言ってくれたから辞める決心がついただけだ。胸の内でそのように呟いてなまえは目を閉じる。

「でももう一度話はしましょう、今後のこと……互いのことについて」
「うん」
「あと、些細なことでも連絡はください」
「……建人くんもね」

 いつものように七海は彼女を抱きしめて眠った。しかしその実、もうなまえが悪夢に脅かされないようにという思いがこもっていたことを、結局七海は言えなかった──ずるい大人になってしまったと、互いに自己嫌悪を抱えて、二人は寄り添って眠った。






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