領域展開により奴の掌の上にいると理解して、真っ先に想像した言葉は「死」で、そしてその次に思い浮かんだ言葉は口癖のような言葉だった。
 呪術師はクソだ。他人のために命を投げ出す覚悟を、時に仲間に強要しなければならない。だから辞めた、というより逃げた。なまえのことがあったから、完全に呪術の道から外れたわけではない。彼女を守るために、五条さんがとある筋で手に入れたという結界の札を二人の住まいに貼りつけた。あの人と連絡を取るのは嫌だったから、私は私で祈祷師や解呪専門の術師を調べて、稼いだ金を払って依頼した。それでも彼女の身体が元に戻ることはなく──ならば、私がより金を稼いでより力のある祈祷師を探せば良いと思い、そのために働いていた。そのせいだとは言えないが、気づけば私は金そのものに執着していた。そんな私になまえはいつしか言った。「私のことは気にしないで」と。
 少なくともなまえの解呪のために稼いでいた私には、その言葉に衝撃を受けたのだと思う。頭をガツンと殴られたような感覚というのはああいうことを言うのかもしれない。解呪の手がかりがなく、あの日なまえが神に呪われてから6年が経過した時のことである。大人の姿の彼女と過ごした時間より、子供の姿の彼女と過ごした時間の方が長くなり、あの当時抱いた決心が揺らいでいた頃合いでもあった。このままただ二人で過ごせるだけで良いのではないかと、馬鹿なことを考え始めていた。
 自分は、"やり甲斐"とか"生き甲斐"なんてものとは無縁の人間。3、40歳まで適当に稼いで、あとは物価の安い国でフラフラと人生を謳歌する。なまえと海の見える都市で暮らすことを夢見て稼ぐだけ。腕の良い祈祷師は探して、いつか海辺のチャペルで結婚式を挙げるのだ。流石に結婚式は子供の姿では挙げさせてもらえないだろうから。
 高専を出て4年、寝ても醒めても金のことだけを考えている。呪いも他人も、金さえあれば無縁でいられる。なまえのことだって、金があれば苦労させない。金さえあれば彼女を幸せにできる。金、金、金、金金金金……──そんな折、あのパン屋の女性に「ありがとう」と言われて、私は忘れていた事を思い出した。

── あ、ありがとう、……ございます。

 入学式の日、初めて任務に携わった日、私たちが出会った日。破れたスカートを隠すために学ランを手渡した時に言われたあの感謝の言葉、あの時の彼女の様子。思っている事が分かりづらく、壁のある人間かと思った彼女が見せた人間らしい態度。それから、彼女が私にくれた日々のこと。一つ思い出せば、次々と蘇る。記憶の中の彼女はいつだって笑顔で、私に感謝を伝え、何かを与えてくれる。だというのに、私はいつもうまく返せなかった。いつも私に何かをくれた彼女が奪われて、涙をこぼす姿を見た時に決意したはずだ。

──建人くん。
──私と、結婚してくれてありがとう。
──あのとき、私を助けてくれてありがとう。

 彼女と一緒にいたいという単純な願い、そのために呪いを解く手段を探すと。それはきっと、生き甲斐になり得る。"やり甲斐"も"生き甲斐"も確かにそこに存在していた。
 だからすぐに五条さんに電話をかけた。感謝の言葉で自分は動ける。そして、彼女の呪いを解くと再び決意し、動くために。

「今はただ、君に感謝を」
「必要ありません。それはもう、大勢の方に頂きました」

 彼女の言葉が、表情が頭に浮かんでは消えてを繰り返す。人はきっとこれを走馬灯と呼ぶのだろう。

「悔いはない」

 しかし、やはりなまえの顔が思い浮かんでしまう。悔いはない、悔いはない。遺書は書いた。金は残した。何かあった時は五条さんに"お願い"してある。大丈夫だ、悔いはない、悔いはない、悔いは──。
 そのことが間違いだと気がついたのは、虎杖君に助けられ、あの呪霊を逃し、倒れた彼を連れて高専に着いてからであった。あどけない顔で眠る虎杖君を見て、一息ついて、ようやくあれが嘘だと気がついた。虎杖君に大人とはなんたるかを語っておいて、自分の感情すら気づけない。いや、大人だから、自分の感情に嘘をつくのが上手くなったのだろうか。それならば子供のままの方が良かったのかもしれないと思う。悔いはある、大いに。やはり自分の手であの神を殴れないことは、私には大層心残りであった。そして奪われた分を取り返し、私は彼女に返さねばならない。
 彼女との緩やかな平穏を享受するたびに何もかも忘れたくなる。しかし命の淵に立つたびに、何度も決意をして、確かな殺意を持って私は生きねばならない。だからまだ死ぬにはまだ早すぎる。
 もう夜遅いというのに高専に来てしまった彼女に呆れながら、帰路を歩く。いつも通り抱き上げようと思ったのになまえは私の手を取って歩き出した。どうせ「疲れているだろうからいいよ」なんて言うのだろう。まったく、変な気を遣う。なまえの手を握りしめ立ち止まると、なまえは不思議そうに私を振り返り見上げた。

「……建人くん?」
「死にかけてわかったことがあります」
「死にかけ……って、なにそれ、聞いてない!」
「虎杖君に助けられたので気にしないでください」
「そういうことじゃ……!!」

 しゃがみ込み、憤慨するなまえの頭や頬を撫でる。再び私の名前を呼ぶなまえに、思わず小さく笑みが溢れた。

「悔いはないと、呪霊に言いました」
「……、そう」
「今まで大勢の方に、そしてあなたに、沢山のものを頂いてきました。死を覚悟したその瞬間、自分は十分与えられたのだから悔いはないと思った」
「……」
「奴に言い、自分に言い聞かせた。でもなまえを遺してしまうことだけは──やはり心残りだったようです」

 自嘲気味に言えば、なまえは咄嗟に私の頭を抱え込んだ。彼女の衣服越しの心音と小さく吐き出される吐息は、少し荒い。ああ、やはり、彼女を遺しては逝けない。

「言葉と心が一致していないと気づいたのは、虎杖君に助けられた後です」
「それは……ずいぶん、遅かったね」
「笑えるでしょう」

 なまえは何も言わなかったが、笑いもしなかった。代わりに、私の頭をさらにぎゅっと強く抱きしめる。少しずつ彼女の心音が落ち着きを取り戻していくのがわかった。

「なまえ、貴女に与えられた分を、私はまだ返していません。そして貴女が奴に取られた分を、私はまだ取り返していない」
「うん」
「私は、まだ死ねない」

 そう言って、なまえを抱き上げて歩き出す。案の定なまえは「疲れてるだろうからいいよ」と言ったが、私はそれに首を横に振っておいた。言うのを諦めたらしいなまえが私の首に手を回す。落とさないように抱き直して、帰路を進む。
 私は弱い。1級になったところで小さな絶望が消えるわけではない。何年経ったところでクソだと思うことはたくさんあり、もう一度逃げ出してしまいたいと思うことはある。しかし──そうやって何度も事実に叩きのめされて絶望しながら己を律するのが大人だと、私はよく学んでいる。
 ……虎杖くんが言っていた正しい死について、思うことがあるとすれば。なまえが蛇に食い殺されることはきっと正しくない。そのためにも、何度目かわからぬ解呪を決意する。私はまだ死ねない、死ぬわけにはいかない。自身の手から彼女を取りこぼさないように、なまえを抱え直してそう思った。





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