「宿儺の器と……!?」
「ええ」

 北海道の任務から帰ってきた建人くんが放った言葉に、私は目を見開く。建人くんは私が思わず落としてしまった箸を拾い上げて「新しいものを持ってきます」と言ってキッチンの方へ向かった。私は、ただそれを手を握って見つめる。戻ってきた建人くんは私の手を開けてその手に箸を握らせた。
 宿儺の器の話は五条さんから聞いていた。仙台から転校してきた虎杖悠仁くんという少年。同級生が誤って宿儺の指の封印を解いてしまったとかで、彼らと指の回収に向かった伏黒くんを助けるために宿儺を身体に宿らせたのだという。秘匿死刑が決まっていたが、2年の乙骨くん同様五条さんに助けられ生き延びた──しかし、宿儺の器はこの前死んだのだと五条さんに聞いていたのに。なぜ生きているの?そして、なぜ建人くんに少年が預けられるというのだ。理由が全くわからない。

「建人くんが宿儺の器の面倒見るって……危険すぎる!」
「五条さんに頼まれたんですよ」

 新しく持ってきてくれた箸を机に置いて立ち上がる。目の前に座った建人くんのそばに立って、彼の頬を両手で挟んでこちらに向けさせた。

「だめ、だめだよ建人くん、お願い、断って」
「……」
「建人くん、いつも言ってたじゃない。五条さんが言うことでも、危険な任務は断って欲しいって」

 建人くんは過保護だ。私が神に呪われたことをきっかけになるべく危険な任務を行わないようにと言い聞かせてきたし、陰で根回しを行っていた。自分が術師に戻ってからは、私に仕事を行わないようにと言っていたくらいなのに。去年だって、神と名のつく呪物の封印作業すら警戒して、呪詛師・夏油傑が企てた百鬼夜行だって「どさくさ紛れにアレが何かするかもしれない」と言って行かせてくれなかった(まあ、あの時は五条さんにも止められたけど)。この身体とはいえ2級に再昇級できるくらいには力はあるつもりだが、神のことを引き合いに出されると、私はどうしても建人くんのお願いを聞いてしまう。しかし──私だって、建人くんのことを心配していないわけではない。
 建人くんは私の手を取って、椅子から降りてしゃがみ込んだ。そして、子供をあやすように私の頭や頬を撫でた。

「件の少年は宿儺の器といえどまだ15歳の高校生だ。私は教職ではありませんが、子供を導くのは大人の務めです」
「その役割は建人くんである必要があるの?」
「ないかもしれない。しかし、五条さんが"わざわざ"私に託したくらいなので何かしらあるかもしれません。あの人は尊敬できる大人ではありませんが、信用も信頼もできる」

 建人くんの言うことも、五条さんのことも信じていないわけでは無いし、五条さんが目をかけている少年が建人くんに危害を与える人間だとは思わない。でも、宿儺は人間じゃない。呪いは人から生まれるが、人から離れるが故に人の範疇を越えてしまう。もし宿儺が建人くんに被害を加えるようなことがあれば、私は──。
 建人くんは立ち上がると「食べましょう。塩辛、美味しいですよ」と言って、椅子に座り直す。私もそれに倣って座った。薦められた塩辛を口に含んだが、全く味がしなくて、ゴムを噛んでいるみたいだった。





 任務が始まると、建人くんはあまり帰ってこないことも多い。都内の任務とはいえ、そのことにつきっきりになって高専にそのまま寝泊まりすることも多いからだ。だから任務の隙間に、互いの安否確認のための電話がかかってくることもある。今日かかってきた電話もそれだったのだが、建人くんの声色は大層疲れていた。それも、肉体的疲労というより精神的疲労の方である。サラリーマンを辞めるちょっと前に聞いた声に、とてもよく似ていた。もしかして宿儺の少年と折り合いが悪いのだろうか。
 大丈夫かと聞いても、任務中の建人くんは滅多に弱音を吐かない。だから聞かないようにしているが、今回ばかりはつい、「大丈夫?」と聞いてしまった。案の定「ええ、特に問題ありません」とだけ言われてしまったのが、昨日のことである。

「建人くん!」
「……なまえを呼んだのは誰です」
「私だ」

 悪気のなさげな家入さんが私に手をあげ、建人くんは「余計なことをしてくれたな」と言いたげに顔を歪めた。家入さんから連絡が入ったときにまさかと思い急いで高専に来たのだが、思った以上に傷の少なそうな建人くんに思わず安堵のため息を吐く。見れば怪我がないことなんてわかるのに「怪我は?」と聞くと、建人くんは呆れたようにため息を吐いた。

「ないですよ。というか、あなたどうやってここまで来たんですか」
「それは、タクシーで……」
「こんな時間に一人でタクシーに乗らないでください。家入さんもなまえを呼ばないでください。大した怪我もないのに」
「まあまあ。それに、昨日はすごい怪我してたじゃないか」
「っ、建人くん!!」

 建人くんはバツの悪そうな顔で「命に関わる怪我じゃないですよ」と言った。お腹のあたりに一発食らってしまったとのことだが、どうやら家入さんの術式によって治療済であるらしい。しかし、だからといって私の不安が払拭されるわけでもない。確かに術師は怪我も多いが、大きな怪我をするほど今の建人くんは弱くない。1級術師の名は伊達ではないのだ。だからこそそんな怪我をさせる相手というのが気になってしょうがなかった。祓除対象の呪霊が余程強かったか、あるいは宿儺か──私の考えを悟ったらしい建人くんは、今回の件を一から説明し始めた。特級相当の人型呪霊。手で触れるだけで魂に触れ、その形を変えると言う術式。私や建人くんがなし得なかった領域展開まで会得しているのだと言う。その話を聞いて、やはり「よく生きていたな」と思ってしまった。
 建人くんはすでに上に報告書やとある回収物を出し終え、あとは帰るだけらしい。例の少年はすでに五条さんと共にどこかへ行ってしまったとか。私とちょうど入れ違いだったみたいだ。

「家入さんはこれから仕事ですか?」
「そ。解剖があるんだよね」
「その……お身体には気をつけて」
「なまえもね。くれぐれも気をつけて」

 家入さんの言葉に他意が篭ってることは分かっていたが、言及はしなかった。
 建人くんから聞いた話では、あの遺体安置所に置かれていたのは全て人型呪霊に触れられた人間だとのことだった。その話を聞いて、私はようやく理解したのだ。別に宿儺の少年と折り合いが悪かったわけではない。むしろ話を聞く限り彼は良い生徒らしく、建人くんにとっては「呪術師として素質ある」人だった。今回の場合、建人くんにとっての精神的疲労は──あの被害者たちのことを思ってのことだったのだろう。
 別に今更被害者ぶるわけでもない。私たち呪術師は、時に人間を相手とする。しかしこの場合、あまりにもタチが悪かった。悪意ある人間を相手にするのはまだ良い。しかし、呪霊に無理やり改造された人間を相手取るのであれば、心が擦り減るのも無理はない。
 いつも通り私を抱えて歩こうとした建人くんの手を取り、私は彼の隣を歩く。見える傷はなくとも、きっと疲れているに違いない。身体も、心も。建人くんは私の手を握りしめたかと思うと、いきなり立ち止まってしまった。

「……建人くん?」
「死にかけてわかったことがあります」
「死にかけ……って、なにそれ、聞いてない!」
「虎杖君に助けられたので気にしないでください」
「そういうことじゃ……!!」

 建人くんはしゃがみ込み、私の頭や頬を撫でる。優しい手つきに、思わず彼の名前をもう一度呼んでしまった。すると建人くんは、小さく微笑んだのち口を開いた。

「悔いはないと、呪霊に言いました」
「……、そう」
「今まで大勢の方に、そしてあなたに、沢山のものを頂いてきました。死を覚悟したその瞬間、自分は十分与えられたのだから死んでも良いと思った」
「……」
「奴に言い、自分に言い聞かせた。でもなまえを遺してしまうことは──やはり心残りだったようです」

 建人くんは眉を顰め、自嘲するように言う。その表情は少し二年生のときを思い出させて、私は思わず彼の頭を抱きしめる。今日、まさに死の淵に立たされ、帰ってきた。宿儺の少年、虎杖悠仁くんがいなければ本当に死んでしまっていたかもしれないのだと改めて思うと、心臓が大きく動いて息が詰まりそうになった。

「言葉と心が一致していないと気づいたのは、虎杖君に助けられた後です」
「それは……ずいぶん、遅かったね」
「笑えるでしょう」

 その言葉に首を振ったが、建人くんは見えていないだろう。だから代わりと言ってはなんだが、彼の頭を両手で包み込んで、ぎゅうっと抱きしめた。

「なまえ、貴女に与えられた分を、私はまだ返していません。そして貴女が奴に取られた分を、私はまだ取り返していない」
「うん」
「私は、まだ死ねない」

 そう言うと、建人くんは私を抱き上げて歩き出した。「疲れてるだろうからいいよ」と言ったが、彼は首を横に振って聞かなくて、もう好きにさせようと思って私は彼の首に手を回す。
 呪霊との戦いの中で、宿儺の少年と関わる中で、彼がなにを思ったのかはわからない。ただ、自分で自分に呪いをかけているんじゃないか、と言いたかった。言いたかったが、言えなかった。
 彼が死んだら私も死ぬ。私のために生きてくれる建人くんは、そのことを知らない。今は少し、彼の顔を見ることができなかった。





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