間違いない、俺は今、人生で一番緊張している。手に握られた銘菓の紙袋の持ち手は、もはや手汗で皺が寄っている。中学の時、クラスで一番可愛い女の子に告白をする時の方がまだマシだったかも知れない。背中に変な汗が滲んで、もう暖かい季節だというのに寒く感じたのはきっと気のせいでもなんでも無いだろう──大尊敬する七海サンの家の前で俺はガタガタと震えて立ち尽くしていた。
 事の発端は、確か七海サンの指輪を見てしまった事だ。七海サンというのは最近知り合った1級術師で、初めて任務を共にして、俺はすぐ七海サンについて行くと心に決めた。つまり、俺は七海サンを大尊敬している。もっと七海サンにお近づきになりたいと思った矢先のことだった。
 知り合って少し経ち、俺は再び七海サンと任務を行うことになった。結構厄介な呪霊の祓除を終えた七海サンが左手の薬指に指輪をはめるところを目撃してしまい、俺は思わず「七海サン結婚してたんですか!?」と馬鹿でかい声で聞いてしまった。その時の七海サンは、今までで一番嫌そうな顔をしていたかもしれない(いや、あの五条悟と一緒の時の方が嫌な顔してるかもしれないけど)。七海サンは俺の不躾な質問に「ええ、してますよ」と一言答えるだけだった。そういえば思い返してみると七海サンは毎回、任務前後にどこかに電話をかけていたような気がするのだ。補助監督相手にしてはフレンドリーな物言いを不思議に思っていたが、奥さんへの電話となれば納得がいく。七海サンは俺をチラリと見て「妻を迎えに行きます。駅に行く前に高専へ寄っても?」と聞いた。後輩の俺相手に聞かずとも勝手に行っても良いのにとは思うが、後輩相手にも礼儀を忘れないのが七海サンという男なのだ。というか、高専にいるということは奥さんも術師というわけか。ということは職場結婚?術師って職場結婚するんだな……。
 辿り着いた高専にて待ち構えていたのは五条悟で、その隣に立っていたのは小さな女の子だった。女の子は七海サンに駆け寄る。そのまま七海サンは、至って普通とでも言うかのように女の子を抱きかかえ、踵を返し、歩き始める──そこで、俺の出来の悪い脳みそがやっと動き出した。

「……あの、七海サン」
「なんです」
「俺、割と子供に好かれるんで!何かあったら頼ってください!」
「は?」
「任務の時とかお子さん預かりますよ!まあ、俺が暇な時に限りますけど……」
「猪野君」
「はい?」
「私に子供はいません」
「えっ!?」

 その日二度目の馬鹿でかい声が出た。
 その後、その人が七海サンの奥さんで、呪いによって身体が小さくなってしまったことを知った。流石に三度目の馬鹿でかい声を七海さんは許してくれず「猪野君、オーバーリアクションも大概に」と釘を刺された。
 俺からしたら、尊敬する七海サンの奥さんだ。つまり、奥さん──なまえさんも俺の尊敬すべき人である。そんな人を子供だと間違えてしまったことに恥じてひたすら謝ると、七海サンらはなんでもない顔で許し、五条悟は後ろの方で涙が出るほど笑っていた。七海サン同様、なまえさんは優しい人らしい。間違いを犯した俺にも優しく笑いかけ「お噂はかねがね。建人くんがお世話になってます」と言った。少女特有の高い声ではあったが、言い回しというか、イントネーションにどことなく七海サンと同じものを感じる。

「お、俺のこと話したんですか?七海サンが?」
「うん。家にきたがってる後輩がいる、と聞きました」
「あ、いや……それは言葉の綾というか、ノリというか」

 たしかに、七海サンの家に行きたいとは言っていたが、結婚しているとなれば話は違う。独身男性の家と、既婚者の家は全くもって別物だ。なにより夫婦の時間を邪魔することはできないし、七海サンは夫婦のプライベート空間に侵入されるのを嫌いそうな性格である。笑って茶を濁そうとしたが、俺の思いなどつゆ知らず、なまえさんは「いつでも来てください。お礼もしたいし」と言った。この時の七海サンは、……やはり少し嫌そうな顔をしていたと思う。
 ──というわけで、来たる日。七海サンが長期任務を終わらせた2日後のことだ。別に断って仕舞えばいいだろうと思っていたのに、着々と日にちや時間が決められ、俺は七海サン宅に行くことを余儀なくされた。あの七海サンが忙しい中で調整してくれたわけだから断るわけにはいかない。驚くべきは、嫌そうな顔をしていた七海サンが割と乗り気だったことである。あんなに七海サン宅を楽しみにしていたのに、今となっては緊張と帰りたいという気持ちでしかない。オートロックを解除してもらうのですら心臓がバクバクと動いたのだ。さあ、部屋に入るとなったら、俺の心臓は止まるかもしれない。しかし、俺の気持ちなどとは無関係に時は残酷にやってくる。「猪野君、どうぞ」という声と共に扉が開けられて、思わずそこにいた七海サンの顔を凝視してしまった。

「……入らないなら帰っても良いですが」
「あっいや!お邪魔しまーす!」

 恐る恐る靴を脱ぎ、恐る恐る七海サンの後ろを歩いた。そしてダイニングと思しき部屋に通されると、そこにはエプロンを身に纏った少女──もとい、なまえさんがいた。なまえさんは俺の顔を見て「こんばんは、いらっしゃいませ」と笑う。相変わらず、子供の姿にしては大人っぽい表情と声だ。クール、ともいう。

「これ、手土産です!」
「そんな、わざわざありがとう」
「いえ、前シツレーなこと言ったお礼でもあるんで……」
「でもお菓子もいただいたのに」
「あれはあれです!」

 なまえさんと会った次の日、たまたま七海サンと会うことがあって俺はお詫びとして今回のものとは違う菓子折りを渡していた。たかがお菓子程度で許されるとは思っていなかったが、
 中々に有名なところの菓子折り、あと最近SNSで話題になってた高級食パンを渡す。七海サンがパン好きのグルメであるように、なまえさんも食に拘っているらしく、彼女は嬉しそうに笑った。よかった、これで俺の気持ちもようやく晴れるというものだ。
 
「猪野くん。もうちょっと待ってもらってもいいですか。あとちょっとで揚がるから」
「あ、はい」
「そこ、座っててください」

 言われた通り椅子に座る。七海サンが俺の好物を伝えてくれたみたいで、今晩のメニューはどうやらアジフライらしい。いくら好きとはいえ、俺は店のものや惣菜でしか食べたことがない。手作りのアジフライか、と匂いを嗅ぐと油物の食欲を誘う香りが鼻腔を通った。七海サンも料理をするらしく、先ほどからテキパキとなまえさんの隣で料理をしている。アイランドキッチンはそんな様子がよく見える。たまに調味料を渡しあったり、味見をしあったりする姿に俺はなぜか恥ずかしくなって目を逸らして、部屋を見渡した。
 七海サンちは予想通り綺麗に整えられている。しかし予想と反して、随分と生活感があることに驚く。俺は勝手に、七海サンは雑誌やドラマに出てくるような生活感のない高級志向な部屋に住んでると思っていた。実際マンション自体は高級だと思うし(俺の家と全然違う。というか、土地柄からして高いだろう)、部屋に置かれたインテリアはどれも高そうなことに間違いはない。しかし、たしかに人が住んでいる形跡がある。というより、ここは絶対に七海サンとなまえさんが住んでいるとわかる部屋だった。──収納用の棚はどれも低く設定されており、俺が見た限りでも踏み台があちこちに設置されている。机も椅子も角のない怪我をしにくい物だ。それから、明らかに七海サンは使わないだろう子供用のダイニングチェアなど、一見すると夫婦二人で生活してる部屋には到底思えない。なまえさんの身体に合わせて部屋を作ったのであろうということは、一目瞭然だった。

「猪野くん、お待たせしました」

 なまえさんはそう言って、料理を運んできた。その様子は子供の手伝いのようで、少し居た堪れなくなって手伝いを申し出る。しかし、七海サンに「ゲストに手伝わせるほど鬼ではありません」と断られてしまった。ゲストって……俺、そんな大層なものではないんだけど。
 なまえさんに箸を渡されて、三人で「いただきます」と言う。目の前に座るお二人は食べる仕草がとんでもなく綺麗で、なんとなく肩身が狭かったが、気にせずいつも通り口に運んだ。……なまえさんの作った料理は凄く美味しかった。お店のものと何の遜色もない、どころか、俺は定食屋でもこんなアジフライを食べたことがない。何より、米も味噌汁も美味すぎる。それに、七海サンは家でもオシャレなものばっかり食べてそうなのに、定食みたいなのも食べるのか……と少し感動した。夫婦揃ってグルメだからこんな美味しい料理が作れるのか?思わず口に手を当てて「うま!」と呟くと、なまえさんが照れたように笑った。クールだと思っていたが、意外と彼女は考えていることが顔に出るタイプらしい。なるほど、そこも七海サンとよく似ているかもしれない。やはり結婚相手というのは似たような人を選んでしまうのだろうか。それとも、結婚して生活を共にすると相手に似てくるんだろうか。学生時代から一緒だと言うし、互いに影響し合っているに違いない。

「そうだ、お二人の学生時代の話聞かせてくださいよ!」
「特に話すことはありません」
「またまたぁ。なまえさん、学生時代の七海サンってどんな感じでした?」
「んーと……今より細かったかな。身長は高かったけど、身体は薄かったかも」
「……」
「あとね、ちょっとナイーブだった。建人くん意外と凹むタイプだから」
「なまえ」

 七海サンはなんとも言えない顔をしている。俺からしてみれば七海サンが凹んでるところは想像できない。まだ知り合って日が浅いこともあるだろうけど、さすがに夫婦にしかわからないこともあるのだろう。なんか、お二人がすごく羨ましくなった。
 それから、箸はどんどん進み、話もどんどんと盛り上がる。酒が入っていないのにこんなに楽しいとは。来る前の緊張などすっかり忘れ、俺の口はよく回った。そういえば、酒豪、酒好きの七海サンだが家では飲まないのだろうか。俺がまだギリ未成年なのを配慮して外で飲まない七海サンだが(しかし、七海サン以外の先輩は割と飲ませてくるので別に酒が飲めないわけではない)、酒好きだとは聞いている。そう思って尋ねると「なまえが苦手なので」と一言答えた。

「別に飲んでもいいって言ってるのに」
「なまえが寝た後に飲んでますよ」
「七海サン、俺の前でも飲まないんですよ」
「未成年飲酒を勧めるような大人にはなりたくありません」
「高専のとき家入さんに飲まされ──」
「あれは黒歴史だ」

 七海サンは上を向いて深いため息をつき、なまえさんは面白そうに笑っていた。
 そんなこんなで夜が更ける。茶碗の中の白米がなくなり、七海サンが気を遣って「おかわりは」と俺に聞く。変な遠慮をするのを七海サンは意外と嫌がるから、素直に頷くと、七海サンは俺と自分の分の茶碗を持ってキッチンへと向かった。そこでふと、目の前に座るなまえさんを見る──なまえさんは、目を細めて船を漕いでいた。明らかに眠そう、というか、ほぼ寝ている。戻ってきた七海サンはなまえさんを見て、机に茶碗を置いてしゃがんだ。

「なまえ、寝るなら歯を磨いてからにしなさい」
「ん……」

 なまえさんが目を開け立ち上がると、ふらふらと覚束ない足取りで歩き出す。見兼ねた七海サンが俺に「失礼。猪野君は気にせず食べていてください」と言って、なまえさんを抱き上げ、部屋から出て行った。
 な、なんか、やばいものを見てしまった気がする。あの時の七海サンは声色も手つきも優しげで、普段任務で見る七海サンとは全然違っていた。夫婦同士のやりとりにドギマギしてちまちまと米を食べる。少しして、七海サンは戻ってきた。

「スンマセン、俺もう帰ったほうが良かったですか?」
「いえ、なまえはあの身体になってからあまり起きていられなくなったというだけなので。君が気にすることじゃない」
「あー、確かによく動いた日は俺もめちゃくちゃ寝てました。それはもうぐっすり」
「それは大人も変わりませんよ。……まあ、なまえの場合子供の頃はよく寝る子だったみたいなので、しょうがないと言えばしょうがないですが」

 なんでも、よく動いたあとや疲れた日はああやってすぐに寝てしまうらしい。俺が来たせいで疲れたのなら申し訳ないと思ったのだが、俺の考えを察したらしい七海サンが「別件です。君には関係ない」と言った。……別件?

「にしても、蛇の呪いでしたっけ。そうなると中々厄介ですね」
「ええ。祈祷師や神専門の解呪師にも見せましたが、難しいと言われました。一生付き纏うだろう、と」
「蛇の生殺しかー……」
「この場合、生殺しなのは蛇ではなく我々ですけどね」

 動物系の呪いや祟りというのは、大概その動物の特性を色濃く反映していることが多いのだ。蛇は大概生命力が強く、狡猾である。そして神ともなれば力は強大になるということは、高専で学んだことだった。
 七海サンは蛇の話になった途端、本当に、今までで一番嫌そうな顔をした。あの五条悟の話をするときよりも、もっとあからさまな嫌悪感を示している。嫌悪というより、憎悪や憤怒に近い。むしろ七海サンの方が蛇を呪ってしまいそうなほどの表情に、思わず背筋が凍った。軽率にこんな話をするべきではなかったか。七海サンはそれ以上蛇の話をすることはなく、たわいもない話をした。「君は筋が良い、すぐに一級になれるでしょう」と言われ、舞い上がったりもしたが、しかし先程の話を考えてしまってどうしても素直に喜べない。尊敬すべきお二人が困っているという事実を思えば、なんとか力になりたいと思う。しかし、七海サンでもできないことを俺ができるかと言われれば、否だ。
 食べ終わる頃には時間もいい頃合いになり「そろそろお暇しますね!」と明るく振る舞えば、七海サンはため息をついた。

「猪野君が気にすることではありませんよ」
「あー……えっと、バレてました?」
「ええ。妻ほどではないですが、君も大概わかりやすい」
「あはは」

 七海サン以外の人間からしてみれば、多分なまえさんより俺の方がわかりやすいと思うけど、とは思ったが言わなかった。
 俺が帰り支度をしていると、七海サンは食器を片付けながら言った。

「別に、このままにしておくつもりはありませんよ」
「と、言いますと」
「たとえ神でも、これ以上調子に乗るようなら殺します」

 あっさりと言って退けた七海サンに、俺は思わず身体中がビリビリと痺れた。所詮人間と神である。どうしても呪力的な力関係はあっちが上だ。それに、蛇は狡猾なのだ。呪い返しに遭う可能性だってあるのに、七海サンは平然と「神でも殺す」と宣言した。神職や信者が聞いたらびっくりするだろうが(いや、びっくりどころではないかもしれない)、それでも──その時の七海サンは世界一かっこ良かった。
 玄関までの道すがら、俺は思う。やはり七海サンの力になりたい。後輩として、尊敬すべき先輩を支えるのは当たり前だ。今はこうして世話になりっぱなしだけど、いつかは七海サンに背中を預けてもらうのが夢なのだ。それで七海サンの推薦をもらって1級になる。これは、俺が今日心に決めた目標だった。

「七海サン、やっぱなんかあったら頼ってください!」
「……」
「俺はまだ弱いけど、七海サンが神殺すってなったら、俺も手伝うんで」
「……」
「それに俺、結構虫とか得意なんですよ。ガキの頃虫かごいっぱいにして遊んでたり。だから蛇もヨユーっていうか──」
「猪野君」

 七海サンが俺の言葉を遮る。珍しいと思い七海サンの顔を見ると、いつもよりも穏やかな顔で俺のことを見下ろしていた。

「ありがとう」
「……え、」

 思いがけない言葉に何も言えずに立ち尽くす。七海サンにお礼を言われた──しかも、こんな優しい顔と声で。いつもとは全く違う様子に、俺は思わず嬉しくなり、馬鹿でかい声で「はい!!」と頷く。すると七海サンは嫌そうな顔に戻って「なまえが起きるので声のボリュームを落としてください」と言った。思わず口を押さえたが、俺は口元の笑みを隠せずにいる。いつかこの夫妻の力になれる時が、楽しみだ。





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