なまえがいなくなった──起きがけにそう認識して、私はすぐに重たい身体を引きずって彼女を探すために校内を歩きまわっていた。しかし五条さんもいないとわかって、彼女を探すことは諦めた。きっと二人で任務に行ったのだろう。情けなくも私が寝込んでいる間に、二人はあの地獄へと向かったのだと悟った。それならば、私は彼女をここで待つしかなかった。今の私にできることは何もない。10日間居座った医務室に戻って、私は二人を待つことにした。ただ天井を眺めて、たまに目を瞑って、しかし眠れなくて──そうしてどれくらい経っただろう。少し陽が傾いたころ、私の腕が軽くなったのを感じたととき、家入さんが「二人が帰ってきたよ」と私に言った。その言葉を聞いて、私は思い切り起き上がった。

「っ、なまえ!!」

 ガラリと開けられた扉の向こうに立っていたのは、正装を着崩した五条さんだった。五条さんは「先輩を労えよー」といつものようにヘラヘラと笑って揶揄ってくる。そんなことはどうでもいい。真っ先になまえの姿を探している自分がいた。彼女はどこに行ったのだ。私の考えを見透かしたかのように、五条さんは「みょうじならここ」と自身の背中を指差して言った。

「なまえ……?」
「け、けんとくん、」

 私の問いかけに、同じく正装を見に纏ったなまえはおずおずと姿を表した。彼女の姿は五条さんの腰ほどしかなく、私の名前を呼ぶ声も私の知っているものより幾分か高い。気まずそうにチラチラと私を見上げる姿は、人見知りの幼子のようであった。屈んで、彼女の顔と目線を合わせる。その顔にもう赤い痕は見当たらなかった。

「無事でよかった」
「……うん」

 俯く彼女の身体を抱き止める。お互いにもう熱はない。ただそこにあるのは、人間らしい温もりだけだ。小さくなってしまっても、彼女は彼女のままで変わりないのだと実感できた。なまえは私を抱きしめ返すことはなく、力なく立っている。その雰囲気になまえが今にも消えてしまいそうに思って、私はさらに腕に力を強めた。
 そんな私たちに家入さんが「なまえ、身体見るよ」と言った。ゆっくりと彼女の身体を離して、五条さんを引き連れて廊下に出る。廊下に出て、ようやくため息をつけた。

「五条さん、ありがとうございました」
「今更すぎ」
「ありがとうございます、本当に、……なんと言えば良いか」
「……は?そういうのやめろよ」

 私が素直に五条さんに感謝することはほとんどないから、五条さんは少し気まずそうに頭を掻いた。そして「それに、解呪できたわけでもないし」と言う──なまえの姿が幼いものから変わらなかったということは、つまりそういうことなのだ。彼女のことだから、私やご家族の呪いだけ解いて自分のことは後回しにしたに違いない。

「祟りは複雑だからな。完全に祓えるかどうか」
「ええ」
「硝子とも話したけど、とりあえず様子見。10日かけて小さくなったなら、10日かけて大きくなるんじゃねーの」
「それ、元に戻る確率はどのくらいですか」
「0.1%くらい」
「希望的観測に等しいですね」
「まあな」

 この六眼と無下限でも無理なものがあるのか。この人だけで良いのだと思うこともあったが、世界はそういうわけにもいかないらしい。それはこの数ヶ月でようやく理解したことだった。
 
「あいつが言ってた。自分はどうなってもいいから家族と七海を助けて欲しいって」
「……自己犠牲なんて、意味ないのに」
「あ、それ俺も言った」

 自己犠牲の果てに死んだ人間を私たちはたくさん見ている。術師の世界はそんなものだ。非術師を守るために、私たちは文字通り命懸けで働く。そうして積み上がった死体の上に、この世界は成り立っている。だからあいつは死んで、あの人は呪詛師になって高専を去っていった。
 しかしその自己犠牲の精神を私は責めることができない。あいつに助けられ、今こうして彼女に助けられた。自己犠牲の果てに、私の命は成り立っている。私が逆の立場でも同じことをしただろう。それでも、そんな物を肯定してしまえば──きっといつか、彼女も無惨に死んでしまう。
 家入さんの「もういいよー」という言葉を聞いて、私は真っ先に医務室に入った。あの重苦しそうな衣装を脱いで、なまえは再び病衣を見に纏ってベッドの上に座っている。それを見て五条さんは「おい、俺も脱ぎたいんだけど」と言った。脱ぎにいけばいいじゃないか、なんでずっとここにいるんだ、この人。私の考えを悟った家入さんが「じゃあ脱ぎに行けよ、五条。私はタバコでも吸ってこようかな」と五条さんを連れて医務室を出て行った。家入さんは五条さんの扱いに慣れている。いや、共に過ごした3年で鍛え上げられたに違いない。
 なまえと部屋に二人きりになっても、彼女は一言も言葉を発することはなかった。

「何か言うことはありますか」
「……ただいま」
「他には」
「……、建人くんが無事でよかった」
「違うでしょう」

 ベッドの上に座るなまえの身体はやはり小さい。ベッドから投げ出された足はぷらぷらと宙を漕いでいて、床に着くことはない。床に膝をついて屈んで、彼女の顔を覗き込むようにして話しかける。彼女の手を優しく握ると、小さな手が少しだけ震えていた。

「何か言いたいことがあるのでしょう」
「……」
「私に聞かせてください。全部、聞きますから」

 なまえはよく、言いたいことがあると押し黙るのが癖だった。全部を我慢する性格ではないにしても、本当に大切なことは言えないでいる。震える手も揺れる目もその証拠であった。

「わたし、建人くんが無事で、本当に良かったって思えるの」
「ええ」
「自分の命なんてどうでも良いって思った。建人くんがそういうの嫌いだってわかってるのに」
「ええ、」
「建人くんの元気な姿を見て、私がしたことは間違ってないって、思った、思ったけど……」

 彼女の言葉がつっかえて、止まる。目から溢れ出た雫が頬を伝って私の手の上に落ちてきた。

「こんな姿のままじゃ、もう一緒にいられない、って、思って」
「……」
「私はもう、普通の生活なんてできない、……なにより、建人くんがこんな私を……好きでいてくれるかって、考えてしまった」
「なまえ、」
「建人くんには未来があって、……術師をやめて会社にはいって、結婚したり子供を育てたり、そういう、呪術とは関係ない、普通の生活がしたいんだろうなって思って、だから、だったら……」
「なまえ、それは、」
「だったら、呪われた私となんて、いちゃだめだって──」
「それは違う!」

 違う、全部違う。確かに術師はやめたかった。普通の人の営みに憧れたし、もっというなら物価の安い海外の海辺で暮らすのが夢だった。命を賭けなくてもいい、なんでもない日常に身を置きたいと思う。でもできることなら──そんな私の日常になまえがいてほしい。命懸けの今でも彼女がいるならそれでいいと思えるのだから。

「呪いが、祟りがなんですか」
「……」
「そんなもので気持ちが揺らぐほど、私は不甲斐ない男ではない」
「……でも、」

 握る手の力を強める。小さな手の震えを止めるように。あの時、私が掴んだ手だった。結局私は彼女を救えたとは言い難いが、それでも、あの時掴んで良かったと思える。彼女が私を助けて良かったと思うように、私も彼女に手を伸ばしていて本当によかった。こうして再び、手を握っていられるのだから。
 不安に揺れる目を見つめる──灰原に言われたではないか。付き合うのなら、いつか結婚するのなら、なまえを泣かせることがないようにと。まるで親が言うようなことをと思ったが、あの笑顔で言われてしまって私は頷いてしまった。だから、アイツとの約束を破るわけにはいかない。

「卒業したら結婚するのだと言ったでしょう。私は、あの言葉を撤回するつもりはありません」
「でも、こんな身体で……」
「戸籍上不可能ではない、なんの問題もありません」
「い、いや、建人くん、待って」
「待ちません」
「建人くん……!」

 なまえは先程までの悲しそうな顔とは打って変わって、焦ったように百面相をして見せる。「いや、だって、こんな子供の体なのに、」と言う彼女の目元に小さく唇を落とした。涙で濡れた彼女の頬は少ししょっぱい。

「姿形が変わろうと、あなたがなまえであることに変わりはない。ならば、私の気持ちだって変わりようがないでしょう」
「……こんな私でも、嫌いにならない?」
「なりませんよ」
「まだ、好きでいてくれる?」
「ええ、好きですよ──ずっと」
「っ、……ありが、とう……」

 私の言葉に、なまえはまた目に涙を滲ませる。そしてそれを隠すかのように私の手を解いて首に抱きついてきた。それは小さな子供のような泣き方ではなく、大人が堪えるような泣き方だった。声も上げず泣き続ける彼女を抱きしめて、泣き止むまでずっと背中を撫でていた。
 ずっとなんてあるはずがないことを、私たちは知っている。人は変わり、死ぬことを目の当たりにしている──それでも永遠を願わずにはいられない。彼女のことをずっと好きでいようとする気持ちぐらいは、変わらずにありたかった。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -