記憶

「おれ、野球はじめることにしたんだ!」
「へぇー、野球?」

 うん、と山本は頷くとおもむろに筆箱を持つと、バットに見立てて素振りをした。小学1年生、夏休みのことである。空いた窓からは風が入ってくるとともに蝉の鳴き声が聞こえ、机の上の麦茶が入ったグラスには水滴が浮かんでいる。乱雑に置かれた宿題は未だひとつも終わっていない。この日は確か、あたしの両親が2人とも家にいないから、山本の家に預けられたのだ。両親が忙しいあたしは、よく山本の家にお世話になった。

「そうそう、武ったら、野球やるって聞かないんだから」

 苦笑を浮かべた山本のお母さん_美智子さんが手にお盆を持って_お盆の上にはショートケーキが3つ乗っている_こちらにやって来た。この頃はまだご健在で、たくさん可愛がってもらった。

「こないだ、野球の試合見に行ってから野球やりたいって言い出してね。それからずっとこんな感じなのよ」
「だって、カッコよかったんだもん!」
「うんうん、ホームラン凄かったね」

 美智子さんは山本の言葉に相槌をうちながら、お盆のショートケーキを机に置いた。「さて、そろそろ3人でおやつでも食べましょう」

「やった、ケーキだ!」
「今日はなまえちゃんもいるし、特別よ」

 いただきまーす!と早速食べ始めた山本に、行儀が悪いと叱りながらも美智子さんは笑顔を浮かべていた。あたしも、久しぶりに食べるショートケーキに頬を緩ませながら食べ始めた。ショートケーキはとても甘くて美味しかった。

 それから、お店の仕込みが終わった山本のお父さんの剛さん(山本の家は町でも有名な寿司屋である)も加わって、4人でテレビゲームをしたことも記憶に残っている。宿題するはずだったのに、結局全然終わらなかった。でも、騒ぎながらゲームをするなんて家じゃ出来ないから、本当に楽しかった。

● ○ ●


 山本が野球を始めてから数ヶ月。前よりも、山本は毎日が楽しそうだった。元々運動が好きだったし、思いっきり体も動かせて嬉しいのだろう。よく興奮した調子で話してくれた。ボールがバットに当たって嬉しかったとか、打たれて悔しかったとか。

 とにかく野球が大好きでたまらないといった様子だった。一度だけ、山本の家族と一緒に試合を見に行ったことがある。ルールはよく分からなかったけれど、とにかく山本が活躍していたらしいことは覚えている。

「武ったら、こんなに立派になっちゃって...!」

 美智子さんが、そんな山本の様子に感動してか涙目だった。



 美智子さんの存在は、山本にとって大きなものだと思う。もちろん、お母さんだというのもあるけれど、キャッチボールをしたりと練習にも付き合ってくれたり、試合はほとんど全て見に来てくれたらしい。練習着の準備も、お弁当の用意も。全て親身になってやってくれたらしい。山本が野球に集中して取り組めたのも美智子さんの功績が大きい。山本も、そんな美智子さんに応えようとひたすら練習していた。ぐんぐん実力を伸ばして、試合でレギュラー入りが確実になった頃。





_あたし達が小学4年生の時の冬、美智子さんが倒れた。

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