花巻くん5 | ナノ


 休んだ日の翌日は雨だった。授業がすべて終わり、放課後には雨が上がった。その日初めて見る太陽はすでに橙色だった。その光を申し訳程度に手で遮りながら、花巻は泥のように鬱屈した気持ちで、廊下を歩く。
 バレー部員に会わないように、などという気は遣わなかった。辞めてしまったら、ずっとこの状態が続くのに、それなりに数多い部員を避けるなど不可能に近い。話しかけられれば答えるが、不必要に話しかけたりはしない。そうして、フェードアウトしていけばいい。
 そう思いながら、トイレから自分の教室に戻っている時だった。教室の前に、見覚えのある2人組が立っているのが見えた。廊下の窓枠に寄りかかり何か話していたが、こちらに気づくと2人とも顔を上げて近づいてきた。
「なんだ、マッキー元気そうじゃん。昨日は風邪?」
 呑気な声で及川は言った。
「ああ、わりぃな。元気だよ。お前ほどじゃないけど」
「どういう意味!」
「花巻、今日は部活出れるだろ? 昨日の練習で監督から1年に言われたことがあっから、伝えようと思って」
「…………さんきゅ」
 拳を握って、2人の顔を見る。どちらも花巻の様子にはてなマークを浮かべて、これから言われることなど想像もしていないようだった。
「及川、岩泉。悪い」
「? 何が?」
 きょとんとした顔で、及川が首を傾げる。
 おそらく、2人には辞めるという選択肢が初めからないのだ。だから、想像できないのは当たり前だ。
 このまま、死ぬまで、バレーと共に生きていく。
 そんな覚悟がある人間に、他の、普通の人間の気持ちが、わかるはずがない。
「辞めようと、思ってて」
「何を?」
「部活」
 及川が短く息を吸い込んだ。すっと目を細めて、普段の彼らしからぬ、ぶすっとした顔になる。ただし花巻は知っている。これが及川の素の表情だ。
「本気で言ってんの?」
「うん」
「……じゃあ、俺に言わないでよね、マッキー。キャプテンとか、監督に言ってよ。正直、迷惑だよ。やる気のないヤツなんか、いらないからね」
 及川の言葉が、糸のこぎりのようにキリキリと切りつけてくる。花巻は怒鳴りたい気持ちをぐっと堪えた。すると、後ろから岩泉が及川の肩をぐい、と押さえて、
「及川。ちょっと黙っとけ。……なんでだよ、花巻」
 理由をきいてくる岩泉の表情は、及川とは反対に静かだった。責めるでもなく、引き止めるでもなく。ただただ花巻の気持ちを知りたいと思ってくれているのが伝わってきた。
「お前、やる気なくないだろ。なんで辞めんだよ」
「わるい」
「花巻……」
 こういう時、「お前が必要だから、辞めるな」とは言えないのがバレーだよな、と花巻は思う。中学の時、同級生が辞めると言った時、花巻は引き止めた。だけど、バレーは6人でやるもので、誰かひとりが決定的に必要だという状況はそうあることではない。花巻は周りと比べて抜きん出ているわけでもなければ、バレー部員と心理的な結びつきが非常に強いわけでもない。
 岩泉は、悔しそうに口を歪めて、眉を寄せた。自分の言葉足らずを呪っているのだろうか。
 やめてくれ、と思う。
「もうちょっと、考えてはくれねーのか」
「バレーを嫌いになったわけじゃねーし。やってたら、ずるずるしちまう。やる気のないヤツは、いらねーだろ?」
 ちらっと及川を見ると、不服そうにぷいっと顔を背けていた。
「岩ちゃん、もういいよ。マッキーの代わりなんて、いくらでもいるでしょ」
「及川! お前な、」
 岩泉が怒鳴った。それを見ていると、ふつふつと、怒りが沸き起こった。何故、花巻のことでこのふたりの仲が割れるのか。呆れるほどにバレーに没頭する彼らに、花巻は並べないというのに。
「やめろ」
「花巻?」
「オレのことでケンカすんなって。お前らはもっと、上を目指すんだろ? ここで降りるオレのことなんかでもめてる暇ないだろ。やめてくれ」
「……マッキー、なんで?」
 及川が信じられないものを見る目で、わずかに潤んでいるように見える目で、花巻を射抜く。
 そんな目で見るな。オレが異常みたいだろ? 実際、お前らが異常なのに。
「お前らは、すごいよ。常に前を向いてるし、当たり前のようにバレーと生きていける。でもオレには無理だよ。お前らを見てると本当にそう思う。全国に行くとか想像できねーし」
 2人は何も言わなかった。激怒するかと思っていたが、案外2人の表情は静かだ。
「オレは、お前らほど単純にバレーに打ち込むなんてできねぇ。まあ、お前らみたいな、バレー馬鹿には、どうせオレの気持ちなんかわかんねーだろ?」
「 ……わかんないね。上を見てビビってしっぽを巻いて逃げるような人間の気持ちなんて、わかんない」
 吐き捨てるように、それでもどこか慈しむような声音で及川が言う。
「悪いけど、白鳥沢を倒すためなら……全国に行くためなら、できることは全部するつもりだから。マッキーを切り捨てることだってわけないし、ついてこないなら俺は岩ちゃんだって捨てられるよ」
 横の岩泉はそれに対して何も動じなかった。目線をやることもしなかった。当たり前だ、という意味なのだろうか。
 及川は次いで囁くように、そうでないと、と呟く。
「俺は俺を許せないからね」
 じゃあ部活行くから、と、言ったとおりに花巻を置いていくことに躊躇を感じさせない足取りで廊下を早足で歩いていく。
 何も言葉を返せない花巻に、岩泉がずかずかと歩み寄って来た。何を言われるのだろうと身構えながら立ちすくんでいると、近づきすぎない距離で岩泉はぴたっと止まった。花巻をじっと正面から見据えて、

「待ってる」

 一言だけ言って、そしてくるりと背を向けようとして、またこちらを振り返った。わずかに釣り上がった猫のような目が、迷うように斜め上に泳ぐ。
「あー……別に、いつも前を向いてたわけじゃねぇよ。お前に俺たちがどんなふうに見えてんのかはわかんねぇけど……めちゃくちゃに打ちのめされて、もう無理じゃねぇかって、思う時もある。未だにな」
 くたびれたような、苦笑だった。部活中に見たことのない岩泉のその表情が、目に焼きついて、しばらく離れなかった。
「及川も、そうだ」
「……はは、見えねぇ」
「見えねぇようにしてんだろ。見栄っ張りだから。お前も、参ってるようには見えんかったから、フォローできなくて悪かった」
「謝んな」
「……とにかく、俺らは花巻にいてほしいと思ってっから。及川も、あんなこと言ってったけど寂しいだけだ」
「見えねぇよ」
「本当にな」
 じゃ、待ってっから。
 もう1度同じような言葉を残して、岩泉は小走りで体育館の方へ向かった。
 2人が去った後、廊下の隅に佇んで、誰かが何かを言ってくれるのを待っていた。それなのに、人っ子1人通らない。すでに日が暮れかけていた。窓から西日が差し込み、床に自分の影が映し出されていくのを視界に入れながら、くそっ、と口の中で呟く。

 青城に来たのが、バレー部に入ったのが運のツキですねぇ、花巻貴大くん。

 松川の声がもう一度再生された。
 怒りのような、悔しさのような。言葉にできない感情の波が押し寄せる。
「どいつもこいつも……」
 煽るのだけは、上手い奴らだ。


「花巻!……まだ行ってなかったの」
 声をかけられて振り向くと、松川が廊下の向こうに立っていた。スポーツバッグを背負い、両手をポケットに入れて、ちょっと猫背気味の、いつもの立ち姿だった。これから部活に行くらしい。
 その時、花巻は自分でどんな表情をしていたのかわからない。
「まつかわ」
 泣いてはいなかっただろう。けれど、松川はこちらを見て目を見開いた。そして、仕方ねぇなというふうに、言ったのだった。
「部活行こ」
 特に励ますでもなく。何かを言及することもない。
 それに救われたのかもしれない。
 部活を辞めるというぎゅっと結ばれていた決意が、ふと解けていくのを感じた。

「……おう」












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